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2023年4月25日火曜日

今年のたまねぎ と、本ブログへのアクセス数

 昨年は、頑張って200本もの中生玉ねぎを植え付けた。ただ少し早めに買ったので、畑にまとめて貯め植にして、それでも育ち過ぎなので11月末頃に15cm程度に切り返して、黒マルチをした畝に植え付けた。育ちは順調で、2月には追い肥もして、気候も良いので、育ち過ぎないようにと黒マルチを取り除いた。その後も育ちは順調に思えた。
しかし、4月の入って雨が降らず、しかも、日差しは初夏かのような日が続き、苗が育ちすぎて、ついには葉の一部が枯れかけるなど、丁度、例年の5月末のような状態になった。
例年であれば、5月末にそのような状態になり、その時期の日照時間を感知して、根の部分が急速に肥大するのだが、4月に葉がそうなっても、日照時間が不足で根の肥大のスイッチが入らないようだ。つまり、葉っぱと根とは別の季節感で成長し、両者の成長が別個に進んでしまった。
まだ結果は出ないが、今年はタマネギに期待できないようだ。
果たして、どうすれば良かったのかと言うと、少なくとも、植え付け時期を後ろにずらす方法だが、温暖化が更に進むとすれば、その効果も限られそうだ。
他の方法としては、根の肥大が始まる時期の日照時間が短い、早生たまねぎを植え付けることだが、その場合には、保存期間が短くなり、大量に植え付けても無意味になる。
とにかく、半年間の労力成果が薄く、悲しいことだ。一応、草木灰・石灰を撒くが、もうタマネギには期待せずに、他の夏野菜にどんどんと転用する。場所も撒いた肥料も有効活用だ。

追記;結局春初めの長雨でベト病になったようだ。水分過多が原因だから、黒マルチを外したのが駄目だったのだろう。しかし、黒マルチを外さないと育ち過ぎになった可能性が大きい。とにかく、がっくりだ。
それでもと、4月29日に、草木灰と石灰を混ぜてタマネギの根元に散布した。今日は午後から雨らしいのでちょうど良いだろう。

ところで、同窓会へ、このブログの事を公開したのだが、アクセス数は殆ど増えていない。
たまたま連絡が取れた山河君にそれとなく問うと、「ねえさんについての記事で気分が悪くなって読むのをやめた」との返信が返ってきた。
氏の気持ちは充分に理解できる。
最近、韓国ドラマを見るのだが、日本ドラマでは、例えば、日本のドラマの水戸黄門や鞍馬天狗で、勧善懲悪はせいぜい1回で片が付き、毎回ストーリーが変わるのだが、韓国ドラマは、長いものでは100回程度も、延々と、これでもか、これでもかと悪人が悪事をやり続けて、最後の数回で漸く懲罰がなされるのだ。若い時に韓国ドラマを見ると、最初の数回でうんざりしたものだが、歳を取ってようやく、そのくどさを楽しめるようになった。
ところが、僕のストーリーは、これでもか、これでもかと話が続くが、最後の勧善懲悪が完全に抜けている。その結果が判っていて、しかも、くどいストーリーだと、気分が悪くなって当然だろうと思う。
しかし、ブログのストーリーを変えるわけにはゆかない。仕方がないとあきらめた。
ところで、若い時には、勧善懲悪ドラマを楽しむ親父を見て軽蔑したものだが、今は、勧善懲悪韓国ドラマを見続ける僕が、家族に笑われている。

ところで、考えてみると、僕の人生で、ハッピーエンドで無かったのは、山河氏が「気分わるくなった」と言う、実姉や実兄との関係だが、それ以外はと言うと、殆どがハッピーエンドで終わったようだ。学生生活もほぼ良好だったし女房との恋愛もしかり、女房の親族とは実にハッピーだったし、彼等にも感謝されるほどに貢献した。会社で挙げた成果・業績もそうだと自信を持っている。 世界のあちこちを個人旅行したし、それに末っ子でありながら、母親が結核療養で一か月以上も入院した時には親父の面倒を見て、親父は最後まで看取ったし、母親とは、わけある別れまでは、楽しく過ごした。口うるさい女房とはお互いに労りあって過ごしている。だから、そのような方向に焦点を合わせて書くべきかと思う。
女房は、楽しかったことしか記憶してないと、実にハッピーな性格だし・・・・。

4月28日に志水勇で検索すると、通常は4~5番目なのだがトップになっていた。なぜ、そうなるのか良く判らない。兄や姉名前をひょうだいとする投稿に追加記入すると、検索に載らない場合もある。ただ、志水勇のブログで検索する場合は、検索項目が少ないので必ず検索に載る。
最近は、普通人の名前で検索しても、殆ど検索には乗らないが、本人の名前をブログ名としている場合には検索名に載る。本人が納得しているとみなすのだろう。
特別な検索機関だと、検索会社と特別契約して、検索に載るようになっているだろうと推察する。



2023年4月23日日曜日

阪大機械工学科昭和37年入学同窓会

 同窓会が焼津で行われたが、人と時間を合わせて行動することが苦痛で、それに酒を飲まないし、飲み会も好まないので欠席した。ある時期から、自分の好む生き方に徹することにしたのだ。同窓会後、幹事さんから、”同窓会仲間の近況” なる冊子が送られてきた。最近は電子データでの送信が通常だが、久しぶりに印刷物データで、それに、同じ年齢の仲間達の各々の生活が垣間見られて感動した。その感動を幹事さんに伝えるべく下記を送信した。
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幹事様 「同窓会近況」を受取りました。 from志水勇

「同窓会仲間の近況」を受取りました。
皆さんの人生後半の過ごし方がとても参考になりました。
特に最近は、全てを電子データとするなかで、印刷媒体で作成されるとは大変だったろうと推察し、また内容が面白くてとても感動しました。実直そうな元古さんの性格が良く表れた作品です。
本当にご苦労さまでした。 

と言いながら、一人行動が好きな僕は参加しなくて申し訳ありません。
記載したように、人との約束時間に縛られるのが極端に駄目です。
新聞の随筆を見ていると、さような人が時々居ます。
と、言うわけで、感謝と感動を申し上げるわけです。
ところで、僕は単独行動が好きで、それも一泊4000円以下にしか宿泊しません。
でも、コロナ騒ぎで行けず、しかも円が安くなって、どう再開できるかめどがつきません。https://4travel.jp/traveler/isabon/album

また、海外でのゲストハウスの安さに感謝して、海外からの旅行者への安い施設を大阪の我が拠点を民泊としたのですが、これも、コロナ騒ぎで再開の目途がつきません。
それから、「志水勇のブログ」で検索すれば、僕の生活・日常を紹介するブログが出ます。ご参考に。

 貴方の幹事期間の物故者を入れると、同輩の物故者総計は、10名余になったようですね。25~30%が行ってしまったようで、いずれ我々の順番が訪れます。
それまで頑張りましょう。
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上記幹事さんへの連絡後、僕のメールを同窓会メンバーに紹介することについての了承のメールがあり、これを了承した。
また、物故者の人数と氏名についての表が添付されていた。それによると、1年生の夏休みにワンゲル活動で亡くなった桑原孝一郎さん以来、16名となっていた。
当初クラスの総数を再確認したら、60人弱だったので、やはり、30%程度は亡くなっていることになる。こうなると、いつ自分の番となるか、これだけは仕方がないことなので順番を待つだけだ。
それに、どうせそんな状態だからと、自分をさらけだすことにも平気な気がしてきた。
その心境もまた、送られてきた同輩たちの記述にも現れていたと思えた。

2023年4月8日土曜日

僕の蓄財法

 先に書いたが、重要なので、本項目として再投稿する。
僕の優しい姉と兄
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

金銭的には、僕ら夫婦は浪費しない堅実生活で、結婚後、大阪吹田の住宅公社高層住宅を700万程度で購入し、頭金は半金で残りは住宅金融公庫での借金で購入して、その後、枚方の家を3000万円で購入し、その半金は、吹田の住宅の売却金額1700万円から借金残額分を返却して、残りで購入頭金として支払い、半金はやはり住宅金融公庫から借金とした。当時、住宅金融公庫の金利は比較的低かったのだ。同時にその頃、奈良の学園都市辺りで開発予定地を安く購入して、開発終了後に宅地で返却されるとの事業  (換地事業)があり、女房が新聞の片隅で、不動産会社の宣伝を見つけ、投資しようと提案した。そこで、これは将来の住宅用として購入しようと考えた。が、金が無いので、会社から宅地のみ購入として400万円を借金して月々返却とした。この土地には転勤で結局住めなかったが、開発後の還付土地は、好条件の敷地で80坪もありかなりの高額で売れた。素晴らしい土地だったので残念ではあった。ぼろ儲けであったが、金持ちたちはもっと大掛かりに投資して桁違いに儲けるのだろうと思う。
枚方の家屋は、一年も住まずに転勤となったので、これを賃貸しで年金生活終了頃まで収入を得られて貯金も増え、今は、賃貸しせずに大阪での拠点にしている。
千葉の社宅に入っている頃、バブル直前に千葉の家屋を、新線が出来るとの情報で、3000万程度で購入した。新線は、結局退職後になって漸く通ったが、それが終の棲家となりそうだ。バブルでかなり値上がりしたが居住用なので売ることはできなかった。なお、この家の購入費は、奈良の売却金から出し、半金は、会社から家屋購入として借金した。奈良の土地への会社融資は、土地購入との条件だったので、千葉の家屋は、家購入との条件で借りられたのだ。
僕の時代は、買って売り、買って売りで資産が増える時代だったのだ。で、結局、僕は親からの援助はなく、家と、それに僅かだが資産も得ることが出来て質素ながらも日々の生活には十分となっている。ただこれらの土地資産投資は殆どが女房の発案であったのだ。

しかし、最初の吹田の公団高層住宅購入は僕が独身時代に契約して、結婚後に完成して入居した。つまり僕のプランであった。この住宅とその後の女房の提案や蓄財で資産を増やすことができた。そもそも、高層住宅の購入は、同じ課の先輩の永井さんが彼の土地購入で宅地調査に奈良の西大寺に行くのに連れて行ってもらい、僕も投資に目覚めて土地家屋を買おうとしたが、
姉は既に好立地の土地建物を買ってもらっていたにも拘わらず、親の財産が減らされては困ると、横から口出しして、高層住宅に申し込むよう勧めたのだ。僕は給料が入るので公団の借金を払えて、更に、これを売ること、それに会社からの借金を加えて、枚方の好立地を買えることが出来、奈良にも良い土地を持て、更には千葉の家も買えた。
借金については、僕の小遣いは、月額1万円で、酒は飲まず毎日弁当持参で、しかも、出張が多くて出張手当で十分に間に合っので、こつこつと貯蓄は増えた。こつ、こつ、こつ・・・
母親は、僕が他の子供たちとは違い、自力で資産を増やしていることが自慢であったようだ。が、これを他の兄や姉どころか知人たちにまでに嬉しそうに言うことで、それがむしろ、兄や姉の僕への反感を高めたようだ。
それもあってか、姉は、母親を預かっていると公言しながら、実際には僕に預けていたのだが、我が家を時々訪れ、その際、母親の資産の全てを預かっていて、しかも、我が家が母親を預かっていることで我が家に一銭の金を入れるわけでも無いのに、母親から何らかの援助を得ていないかと女房に探りをいれていた。(それでも当時僕は姉を信頼できる姉と信じていた)

大阪の拠点も千葉の家も、購入後相当経っているので資産的にはかなりの減額となったが、住むにも遊ぶ拠点としても申し分ないものとなっている。
大阪拠点遊びの費用は、概ね、所有株の配当金で賄っている。

今になって思うが、女房の親族が信頼できる仲間であったのに対して、僕の親戚は全員がほぼそうではなかった。
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
女房の親戚については、女房の姉を、我が女房が9年間にわたり認知症での施設入院の面倒を見たが、彼女の遺産は全て女房の親族に等分に配分したことで、信頼もえている。
http://isabon.blogspot.com/2013/02/blog-post_25.html

どうせ、金をいくら持っても、その金で延ばすことのできる寿命は、出来たとしても僅かなことなのに、僕の兄や姉は、自分で稼ぐよりは親の金を奪い合っていた。というか、僕のもらうべき分を奪い合っていたと言うべきか。
その姿を見て、その子供たち、つまり僕の甥も同様に育ったようだ。

少なくとも、僕の子供たちにはさような姿を見せたことはない。僕の親族たちは、尊敬され親しまれることの方が人生の価値があると思わないのだろうか、と不思議だ。

あっと、突然思い出した。僕はFXにハマった時があったが、この時はぼろ儲けであった。その金で、女房と世界各地を個人旅行したのだ。僕の場合は、世界旅行と言っても民宿泊りの貧乏旅行だが。でも、例えば、スイスやマダカスカルの夫々10日以上の旅では夫婦で100万円近くを使った。下記の旅行記では所要費用も細かく書いている。
https://4travel.jp/traveler/isabon/album
http://isabon.blogspot.com/2012/05/2007-928.html
ところがその後、税務署にFXの儲けがばれて、同時に、僕の蓄財の儲けもばれて、税務署に踏み込まれ、その年の税金は総額1000万円も支払う事態になった。泣く泣く税金を支払ったのだが、儲けからすれば当然の税金ではあった。だが、その後リーマンショックでFXも大きな損失を被ったが税金は返してくれない。しかたなく、こつこつとFXで資産の取返しを続けて、何年か前に漸く、元は取り戻せた。
こう見えても、税務署には痛い目に合わされてるんだよ。

どうやら、長姉も長兄も亡くなったらしい。

 ひょっとした知り合いの情報から判ったが、長兄 志水秀夫は数年前に亡くなったようだ。
長兄は僕より8歳年上で、80代半ばで亡くなったと思える。
この知り合いからの情報で、この兄の不可思議な行動に関する疑念が一つ判ったと、僕は確信する。それに、そのことから、 僕の兄弟姉妹は、どいつも嘘を平気でつけるのだと再確信した。彼らは皆、本当にクズだなと僕は再認識した。結局、僕の兄も姉もくずなんだと確信したわけだ。  全くもって、韓国ドラマの上を行く連中である。これらの、くずの行動で心を萎えさせても意味が無いから、連中の事はここに書くだけに留めて後は忘れることにする。

ところで、更に4歳年上の姉 粟野泰子についてはGoogleMapからの情報で、ほぼ同時期に亡くなったと思える。12歳上だから90歳程度と思える。
共に連絡はないが、僕への仕打ちからすると連絡できる筈はないだろう。

長姉や長兄については、一年に一度か、あの時の怒りの思いを思い出して、グーグルStreetで、彼らの住居の様子をみることがあった。
34.56812,135.591843  僕の育った家
僕の優しい姉と兄
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

長兄の住居、つまり僕が育った住居はだんだんと寂れてゆく様子ではあるが変わりなく、と言うか、金は有り余っているのに使わないってけちな志水家の性格そのものを表している。
と言うか、高級住宅地の中の200坪超の家なんて、掃除も維持も大変なのだろう。僕の高校時代の夏には、水まき担当で、井戸の水を何度も何度もバケツで運んで大変だった。
姉の吉祥寺の住居は、変なことに、表札が奇妙な変化を見せた。当初の表札は、(粟野/Y) となっていて、この家は粟野姓の姉が両親に買ってもらった家を売り、その2億円で買い替え節税で買った家で、姉の娘の一家であるY家と共に暮らしているわけだ。姉はその家の他に、調布の団地のマンション、更には、都内のかなり大きな喫茶店の経営権も買ってもらったのだが、それらは売って自分の財産にして、更には母親が親父から相続した1億円もいつの間にか、自分の家族に生前贈与してしまった。他方、長兄は、親父の家と会社と工場の経営権と親父の家、それに、相続時には秘密にしていたが、ずっと後に判ったのだが、会社で買った工場より広い土地を相続したわけだ。二人とも、それらの遺産相続書は全く見せてくれないのだが、そんなわけで、姉も兄も、僕には全く連絡はない。
僕の他での経験からも、大体において、悪いことをした連中は、自分が悪いことをしたとは全く感じないどころか、逆切れするようだ。要するに、まったくプライドが無いってことだろう。若しくは、それが彼らのプライドの表し方なのだ。
僕は最後まで残された工場の土地の1/3を漸く相続できたのだが、その後知ったのだが、先に書いたように長兄は実家の外に、会社が購入した工場よりも広い土地を相続していた。僕が漸く相続した工場の土地については、その売却は姉の息子と僕が対処したが、長姉のプライドの無さは、息子に遺伝したようで、売却金額の姉の分は自分の口座に、堂々と入金した。これらの経過については、詳しくはこちら。
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
こんなバカげた状態なのに、僕は親父の死ぬまでの面倒と、母親については、これは余りに不公平だと気づくまでの間、母親が僕の家での滞在を居心地よいと好むので、かなりの期間の面倒を見たのだが、今になって考えると余りの不公平について、当時は、自分の金は自力で稼いだからと余り不公平さを感じなかったわけだ。
話を元に戻すと、その姉の家の表札だが、何年か前にGoogleStreetを見ていると、表札が、
(粟野/Y) から(粟野/Y・粟野) と変わっていた。つまり、表札の変化から判断するに、姉の息子一家が越してきたようなのだ。母親から姉の息子の家の購入にも金を出したと聞いていたし、名古屋で勤めていたから、どうも合点がゆかなった。だが、姉の娘夫婦は共に慶応医学部卒の医者で忙しく、娘夫婦に代わり息子家族が歳を取った姉の面倒に同居したのかなとも思ったが、あの大きさの家に、3家族は多すぎるし、さらに、それをわざわざ表札に示すこともないだろうと奇異に感じた。
ところで、姉の医学部大学院卒の娘と早稲田大学卒の息子の、教育費、それにそもそも家族自体の生活費も両親が負担していた。教育費どころか姉の娘の慶応医学部在籍に相応のブランド品にも金を出していた。他方、僕と言えば、まともに稼いでる僕が子供たちの教育費、養育費を両親に頼むなんて、そんな恥ずかしいことは出来んだろう。
それから何年かしてGoogleStreetを見ると、今度は表札が、(Y/粟野)と変わっていた。つまり、当初は、(粟野/Y)と姉の姓が上位で、次に、(粟野/Y・粟野)と、下位に姉の息子家族が加わり、今回は、(Y/粟野)となり、娘一家の姓が上位になっている。つまり姉が亡くなったってことだろうと推測される。
以上のことから読み取れることは、姉に死期が近づき、介護のために息子一家が移ったとしても、わざわざ表札を変えるとは考えられないから、家の相続税を減らすためとか、姉の息子が相続権を持つため、それに、ついでに、恐らくは姉の悪行の証拠書類を消すとか、全く仕事に携わらないながらも貯めこんだ多額の資産をどう処置しようか等の相談のために、息子が一時的に同居したと思える。外面に拘る姉にすれば、自分の悪行をあの真面目な娘一家にはしられたくはないための処理だろうと想像する。
僕の脳裏に浮かぶのは、悪徳代官と悪徳商人が暗い行燈の下で、「お主もやるのお!いっひひひ」と舌なめずりしながら相談する姿だ。
それはともかく、長兄は85歳程度で、長姉は90歳程度で亡くなったことになる。
でも、僕の彼らの悪行とか平気でウソをつく性格についての記憶は、僕が死ぬまでの、まだ数年以上は残ることになる。できれば後、10年以上と、できるだけ長く残したいものだ。
それには彼等のことは余り考えないことだ。何が嬉しくてあれほど金に拘っていたのだろうかと思う。

ところで、母親との別れだが、母親は我が家が居心地が良いとほぼ住み付いたのだが、母親の言うには、長姉の家族全員の前で、「一億程度の財産があるが、姉に管理を任せる」と言ったとのことだった。ところが十年ほどもしたある時、姉が母親の財産はほぼ無くなったと口を滑らした。それで、僕は母親の言う、「管理を任せた」とは「全て譲る」と言ったのだと気づいた。母親の心情としてはありうる嘘だ。
東京には姉の家族が広い家に住んでいる。それに、姉は、かような時にも、母親の金を一銭も僕に預けることのない性格なのだ。姉の家族に金を譲り、住むのは狭い僕の家で、その費用も全て我が家持ちとはありえない、と姉に母親を引き取ってもらった。僕が電話で引き取ってくれと言うと、姉は母親の金で買ったと言う3ナンバーのワゴンで来て、何の説明もなく、母親と、僕が買ってやった分も含めての母親の荷物をさっさと後部に積んで自宅に戻った。
ところが、母親と共に、姉の息子が重そうに運び込んだ仏壇には”父親と、死別した僕の姉兄”の位牌と写真が納められていたが、それら仏壇や仏具は放ったらかしで帰ってしまい、今も仏壇は我が家に残っている。  仏壇と同様に、姉の家族が我が家を訪れる際には、彼女の衣服、靴、等には貧乏に見せるための我家訪問TPOなるものがあったのだろう。

母親が連れ去られてからかなりして、その仏壇を整理しようと持ち上げたら、なんとプラスチック製のやたらに軽い安物だった。我が家に安物の仏壇と共に母親を送り込んだってことだろう。こんな安物に祭らせながら本願寺本山に祭るって姉の奇妙さが姉の心情だと理解できた。

その後、母親は何とか僕の家に戻ろうとしたようだが、姉は財産を持ち去られてなるものかと、これを母親が死ぬまで阻止し続けた。我が家の夫婦とは違い、姉には母親への愛よりも金が全てだったせいか、母親の面倒にはかなり苦難している様子が窺えた。結局は、母親専用のお手伝いさんを雇っていたらしい。我が家には母親への手当は出さないが、自分はお手伝いさんへの費用は惜しまないらしい。
長姉としては、吉祥寺マダムとしての活動が忙しく、我が家と女房を、無料介護施設、無料介護士として重宝していたのだが、断られたので仕方なく2人も介護人を雇ったと言うわけだ。僕の母親への愛情さえも捻じ曲げて利用する人間だったわけだ。
長男も同様に、親父の看病の時にも、苦労する母親を助けるのには親父の家も自分の家族を使わず、「俺の息子は受験で親の面倒をみれない。お前見てくれんか」と言って僕の家族に任せたのだが、長男の女房殿は、我が女房が両親に尽くしている間にテニスに熱中していたらしい。姉はそれを実に見事に学習したらしい。財産だけはちゃっかり戴くのも長兄の真似か?いや、そのずっと前からずっとそうだった。 
僕には、なぜ長男も長女も、両親に対してそんなに冷酷でおれるのか理解できない。僕と女房には、親父や母親の面倒をみることは、苦労も多いが、昔話を聞いたり、手を繋いでやり一緒に散歩したりと、それ以上の楽しみが多かった。

母親の介護と母親の意向に悩まされたようだが、母親の死によって、姉は人間性以外の全てを得たことになる。しかし、姉は自分の死後、残された相続書とか資産通帳類などの資料で、特に、娘一家にはその人間性を知られまいと心配したであろうと、想像する。性格の似た息子に後処理を頼むために最後に節税を兼ねて同居したのだろう、と想像する。
ただ、一緒に住んでいるいる以上は、娘一家も姉の僕への仕打ちや、その醜悪さにはほぼ気づいてはいる筈だが、わざと目を背けているわけで、姉としてはその醜悪さをあからさまに見せるのは息子だけに留めたいのだろう。

僕は小手先の悪行には負かされるが、じっくりと考えるので真実を推測していると思う。
韓国ドラマなら、最後には悪役の本性は露見するが、実際の社会ではそうはならないのだ。
そこで僕が暴露するわけだ。
が、ほぼ、意味ないけどね。

それにしても、義兄と義姉のトラブルで、僕は死んでから軽蔑されるなんて嫌だなぁ、と思ったものだが、我が実姉と実兄は、軽蔑されるどころか、彼等への軽蔑をネット公開されているわけだ。ほんとに嫌だなあ。
http://isabon.blogspot.com/2013/02/blog-post_25.html

僕は人間関係に疎いが、とても記憶が良い。過去のあの場面この場面も細かく覚えている。それだけではなくて、突然ある場面を思い出すことがある。そんな場合には、その場面が意味する、今までは気付いていない裏の内容にも気づくのだ。姉と兄については、特に、そのような事が多く、それも、二人があたかも善意であるかのようにふるまうのだが、実際には悪意があるというか、打算的な意味合いがあったと気づくのだ。実に巧妙ではあるが、勘の良い人に取っては、その打算的な意図が露骨であるような行為なのだ。そのような場面を思い出す度に怒りがこみ上げてきて、結局は自分の命を削ってしまうわけだ。兄や姉のような人間とはできるだけ触れないことが幸せに過ごせる方策だろう。

それに、これを書いていて突然判った。
母親からの援助漬けの姉やその息子、それに、父親の事業を継いだ兄は、母親が僕の自立・蓄財を褒めることで余計に僕への反感を強め、僕が母親から僅かでも援助を受けていないか監視し、父親の遺産もできるだけ、それに、預かった母親の金を一銭でも僕に渡すものかと決めたのだろう。言うならば、寄生虫のプライドを刺激してしまったってことだ。その彼らのやり口に怒っても無意味だと自分自身に決めることにした。ただ、可哀そうなのは母親だ。というか、僕は母親が本当に好きだったので、彼女を見限ったことを本当につらくも寂しくも思うのだ。しかし、結果は母親の選択でもあり、僕の事は了解してもらうより仕方がないだろう。姉の見栄で父母共に京都本願寺に葬られたらしく、そんなとこまで行く気はないから父母への挨拶も一生することはないだろう。
ところで、なんで本願寺の本山なんかに祭るのかな?寄生虫のやることは、わけわからん。
要するに見栄と見映えなんだろう。特に娘の結婚先Y家への見栄だろうと思う。
僕たち夫婦が看取った女房の姉は、近くの墓所に祭り、そこは夫婦の散歩道に組み込んで、散歩の旅に挨拶している。彼女は僕たち夫婦の生活の一部になってるってわけだ。

ところで、吉祥寺の表札の変化については僕の推測は単純すぎると思える。別案も考える。

姉の娘の旦那Yさんは、父親が亡くなった時に、東中野の広い住宅を相続していた。姉も大阪藤井寺の買ってもらっていた家が2億円で売れ、吉祥寺に買い替え購入するまでは、そこに同居していた。
東中野の家を訪ねた時に、Y家の母親に会ったことがある。きりっとした美人の母親で、僕はとても好感を感じた。しかし、誇り高く見栄っ張りの姉としては、元々他人に対しては見栄っ張りで、娘夫婦の家に同居する事や、そこに母親を引き取ったことで、余計にY家母親への対抗意識を高めたに違いない。
母親が姉に1億円を譲った後、母親もそこに引き取られた。僕が海神アパートの社宅生活の時に一度会いに行ったが、母親は薄暗いベッドの部屋でテレビを見ていた。その記憶があり、僕が千葉に家を買ってから、その薄暗い部屋には住まわせたくないと、母親を預かることにしたのだが、今考えると、姉はわざとそんな母親の姿を僕に見せたのかもしれない。
通常、母親の様子を見せるなら、もっと住み心地の良い状態を見せるのが普通の神経だろう。わざとそうすることで、僕に引き取らせようとしたのだろう。ぼくは簡単に引っかかるのだ。

それはともかく、姉の娘夫婦は共に医師で、しかも、娘は大学病院の教授で共にかなりの収入がある筈だ。しかも、ちょっと雑多な住宅地の中だが広い土地・家屋を所有している。狭い家に2家族も住む必要もなく、収入も多く快適な家に建て替えればよいだけのことだ。金は充分に有るのだから、姉の動産も吉祥寺の家も弟夫婦に譲れば良いだけのことだ。Y家は、志水・粟野に比べれば気持ちの大きな家系であり、姉の財産に執着するとは思えない。ただ、姉の動産には、僕から奪った分があるのが問題だが、その点は姉は娘夫婦に知られないようにと、その息子と行燈のしたで密談したことだろう。
さらに、娘の旦那の兄は弁護士である。以前に書いた、僕を痛い目に合わせた、姉御用達の悪徳沢田弁護士の手を借りるまでもなく、正しい節税についての情報は簡単に手に入る。
その結果が表札における表記変化の真実に近そうだ。ただ、急遽、姉の息子を同居人として節税するには無理があるが、その程度の作戦は仕方ないかも。
遺産協議書では共同相続として相続税を少なくして、名義書き換え時に姉の息子の所有として、ほとぼりが冷めれば、表札も姉の息子単独になるのだろう。
僕の推測のいずれが正しいかは、表札の変化を見ていれば判ることだ。

●その後の予想
https://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html



2022年8月4日木曜日

僕の大学院生活とそれから

 ときどき思い出すことを書き続けて、はっと気づいた。
課長の価値観と僕の価値観が全く違うので、彼や彼と同様の考え方の上司の意図が理解できなかった理由に漸く気づいたのだ。
僕は大学院で、流体力学の教授村田進先生の下でテーマを与えられた。横断流送風機は、今では殆どの電車車両で使われている天井に車体の方向にずっと伸びているエアコンに使われている送風機で、送風機内での流れは羽根車に関して非対称で、回転する羽根車の上から入り下から出る。当時はまだ、その送風原理が解析し始められた時期で、その流れ特性を解析するのが僕のテーマだった。過去に提出された僕の先輩が書いた論文を元に、送風機の内部案内羽根が設けられた場合の性能を解析及び実験するテーマだった。
僕の先輩は、案内羽根の無い場合の流れを解析していたが、その計算方法は案内羽根のある場合には全く適用できなかった。僕の大学院生活は、これを先ずは解析することを村田先生から任されて始まった。その最初の一週間を研究室に籠って考えたが、何としても解けなかった。そこで、村田先生に相談したら、「うむ、やってみよう」と答えた。何と、翌日にはⅹ複素面での水平線を複素変換して円形のファンになる式を提示してくれた。そこで複素平面にて流れの式を作りこれを逆変換すれば平常面でのファンの流れ式が出来る。確か、流れ方程式は積分式になり、これの解析は難しいので、数値計算することにした。一般に流体方程式を式解析できるのは極めてまれなケースなのだ。当時、阪大には、テープに穴あけをして全くの機械語で解析する電算機があった。テープへの穴あけから電算機の操作まで全て自分一人でやるのだが、複雑な式と数多くの数値を入力しての数値計算は、穴あけも含めて全て自分でやるのだが、穴あけを一か所だけ間違っただけで、これを修正することで解析は出来た。が、これはあくまで力仕事だ。なお、僕が卒業してから、小川助教授が積分式を解いたのだから驚きだ。僕の大学院2年目は実際に機械装置を使っての性能実験で、村田先生が三井三池製作所に実験用送風機の製作を依頼済みで、三井三池の九州工場に行き、一週間程、送風機の図面を書き、その後装置が研究室に着くと、それを設置するのだが、架台材料の切断、架台の製作と取付けを独力でやった。更には実際の送風機性能実験、送風機内の空気の流線測定、それに、真夜中の騒音測定、更に、煙を使っての流線測定等、全てを一人やった。実験室では、ドクターコースの先輩たちや同輩達も同様に、各人が頑張っていたから、それが当然なのだ。
要するに、全てを単独でやり遂げるのが僕の受けた教育だった。
大学院マスターコース後は、村田教授や小川助教授の、特に流体力学解析能力にはとても及ばないと、ドクターコースは諦めた。ただ今になって気付いたが、数学も英語能力と同様に、継続しつづければ、ある時には、突然理解の峠を越えて、そのような式も解けるようになっていただろうと思う。そこまでは学ばなかったことを悔いている。
つまり、大学や大学院での授業での貴重な講義を、完全に理解し操れるまでに繰り返しての勉強が必要だったのだが、途中で、ここまでで試験は通るだろうと怠けたのが駄目なのだ。実は、高校ではとことん勉強したが、大学の授業内容は、そのレベルでは駄目だったのだ。
この大学院生活に比べて、会社での仕事は、技術解析も含めて、全てが力仕事で、僕が単独で出来ないことはなかった。誰に相談せずとも出来る仕事ばかりであった。ただ時間的期限はあるので、その分を、時間を惜しんで頑張って突き進めば良いだけで、誰に相談する必要もなかったのだ。しかも会社での仕事で、微分方程式を解いたのは一回だけで、回生制動についての計算では、制動力が回転数に比例するリニアーな外力の解だから容易に解けたし、ただ、実を言うと、新居浜で水平式クレーの引っ込み停止での吊り荷の挙動は、コリオリの座標変換が必要で、この解析は同期の馬場洋一郎の助言を得た。


 

2022年7月28日木曜日

我が家のエコ的生活

 貸農園で野菜を育てるだけでなく、生ごみの全てを貸農園に埋めている。それどころか、家の選定枝も細かく裁断して埋めている。太い枝は細かく切って一部の庭に敷き広げている。
つまり、我が家のごみは、有価物の選別だけではなくて、焼却ごみ量は最低限になっているわけだ。農園での肥料は、ジョイフルホンダの無料の米ぬかだけで済ましている。年間1万円の貸農園代で、無農薬、自然有機肥料の野菜を育て、発生するごみ量は最小なんて素晴らしい生活だと思う。なお、大阪拠点でも生活姿勢は同じである。
でも、誰も褒めてくれない。

2022年7月27日水曜日

高校の同級生の高橋に読ませたい。

 

シニアも青春18きっぷ 節約旅行、ユースホステルも活用

シニアサポーター


定年退職したら、学生時代のようにお金をなるべく使わず、気ままに旅行をしようと思っています。まずは国内旅行から始めるつもりですが、高齢者も利用できる格安の宿泊施設やお得なチケットなど、節約旅行のコツや注意点を教えてください。

東京都内に住む会社員の男性(56)は「若いころはリュックサックをかついで気の向くままに旅をしていた」という。年齢と共に会社での責任が重くなり、子育ても忙しくなって旅行する機会も減った。老後は「バックパッカー」に戻りたいと思うが、久しぶりの節約旅行には不安も多い。

時間がある人に好都合

節約旅行といえば、全国のJR線の普通列車やBRT(バス高速輸送システム)、JR西日本宮島フェリーが1日あたり2410円で乗り放題になる「青春18きっぷ」が有名だ。「青春」と銘打っているが、利用に年齢制限はないので、シニアの節約旅行の強い味方になる。

新幹線や在来線特急には乗れないため、移動に時間がかかるが、時間がたっぷりあるシニアにはかえって都合が良い面もある。1枚のきっぷを5回使う方法や、5人で1回ずつ使う方法もある。夏季は8月末まで販売する予定で、7月20日から9月10日まで利用できる。

宿泊代の節約も大切だ。日本各地にあるユースホステルは、ユース(若者)だけでなくシニアも利用できる。1泊4000円程度と格安で、一緒に泊まった旅行者と情報交換できるほか、その地域ならではの体験プログラムを用意しているところもある。

会員でなくても利用可能だ。相部屋ではなく個室を備えているユースホステルも増えている。日本ユースホステル協会によると、最近は高齢者の利用が増加傾向にあるという。

民泊で地域の魅力体験

一般住宅の空室に泊まる「民泊」も、宿泊費を抑える手段の一つだ。専用ウェブサイトやアプリで予約し、長期滞在から複数人での滞在など、さまざまなニーズに柔軟に対応しているところもある。一般住宅の空室だけではなく、ロッジやホテルの一室に泊まるなど、選択肢も広がっている。

民泊施設でつくる住宅宿泊協会の上山康博代表理事は「空き家や別荘、文化財などが民泊施設になっている例もある。長期滞在して、その地域をじっくり楽しみたいシニア層には非常に良いのでは」と語る。

農山漁村に宿泊して、滞在中にその地域ならではの食事や体験などを楽しむ「農泊」も、ホームステイ型の民泊として選択肢の一つとなりそうだ。上山氏は「新しい人間関係の構築にもつながる」と話す。

旅行業界も熱い視線を送る。KNT-CTHD傘下のクラブツーリズムは75歳以上の利用を想定したツアー「大人のゆるり旅」のサービスを拡充した。添乗員のほかに一定の介護の資格を持つスタッフが同行したり、テーブル席やベッド付きの部屋を確約したりといった配慮をしている。

軽い上着で体温調節

シニアは旅の装いにも細心の注意が必要だ。アウトドア用品などを扱うモンベル(大阪市)によると、シニアには軽量でコンパクトに収納できるウインドブレーカーがおすすめだという。屋外での防寒や、冷房がきいた車内でも体温を調節できる。

大きなカバンの中にコンパクトに収納できるリュックサックや小型のポーチなども、大きな荷物を置いて歩き回る際に重宝する。夏場の旅は熱中症対策にも気をつけたい。直射日光を避けるため帽子をかぶってこまめに水分を補給するほか、塩分や糖分を補給できるあめも役立つ。

新型コロナウイルス禍が長引き、旅にも感染症対策が必須だ。クラブツーリズムはワクチン接種証明書や陰性証明書、身分証の提示をツアー参加の条件にしている。個人旅行でもこれらを持参したほうがいいだろう。都道府県が実施している独自の「県民割」などは、ワクチンの接種を条件としている場合も多い。

政府は旅行者に「新しい旅のエチケット」の順守を呼びかけている。できるだけ混雑する時期・時間帯を避け、周りの人と一定の距離を保つことや、公共の場ではマスクをつけ、会話を控えることなどが、コロナ時代の旅の常識となっている。

2022年7月9日土曜日

志水勇の高校時代とそれから・・・

 僕の出身高校は天王寺高校で、同校は大阪府下でも屈指の進学校であった。当時の私学は大学受験に特化していないので、天王寺高校には優秀なのが集まっていたのだ。ところが僕は中学校では全く優秀ではなかった。僕は天王寺中学校に越境で入学したのだが、当時の天王寺中学校は一学年が14クラスもあるような巨大学校で、その一つのクラスの中での僕の定期テスト成績はクラスで10番程度だから、普通に考えれば、天王寺高校に受けることができる成績ではなかった。僕は定期テストで頑張る性格ではなく、それに、定期テストの成績に一喜一憂する性格でもなかった。兄や姉とは年齢が離れていて、両親は小学校卒だから勉強の仕方を教わることもなく、他の多くの学生が、教科書を解説する虎の巻とかを買いその内容を相互に話し合うのを不思議な思いで眺めていた。定期テストもそれほど集中することもなく過ごしていたのだが、1年の後半になり、中学を終えると高校への入学テストがある、と気づいた。そうすると、中学での3年間の勉強が試験に出てくると気づいたときに、その内容は膨大な量になると恐れを感じ、これは何とかせねばならないと思ったのだ。そこで先ず、自宅の藤井寺から阿部野橋までの30分の通学時間を漢字帳の記憶に費やした。しかし帰路は一緒に帰る友達で、北野とか国俊とかが居たので勉強はできなかった。学校での学習では学習帳面の半分、そこに授業中に記載した内容から自分で作った問題を書き、答えは織り込んだ部分に書くようにした。更に、学業ごとに繰り返し学習を、予定を立てて学ぶことにした。
3年になり実力テストが行われるようになると、結果は知らされないのだが、クラス担任以外の先生が授業中に、それとなく、僕の名前を口にするようになった。が僕としては何の話をしているのかと不思議に思った。3年の中ごろに進学校の希望を話し合うことになり、僕は、何の気もなく、天王寺高校です、と言ったら、担任は何の反対もせず、天王寺高校に受験することになった。天王寺高校を受験するのは、クラスでも優秀で毎回の定期テストで1と3番の2人で、それに場違いな僕が加わったことになる。優秀な2番の女子は越境受験を拒み別の高校に行った。なお、実際は、1番から3番の生徒は入れ替わりつつクラスを制していた。僕は彼ら上位集団とは全く関わりない位置にいたわけだ。

ところで、僕は中学で越境していて、天王寺高校では籍を戻すだけで受験できたのだ。話は逸れるが、天王寺中学校と天王寺高校は不思議なことに学区が異なるのだ。

受験当日は中学校に集まり、そこから受験高校に行くのだが、僕はどこで受験するかにも全く関心がなく、優秀な二人とその一人の母親にくっついて受験に行った。幸いなことに高校は家から中学までの中間なので学生定期をそのまま使えたのだ。
どんな試験内容かは記憶がないが、試験には合格した。

最初の授業の日に、なぜか朝寝坊して遅刻してしまい、教室に入ると、担任が、「最初の日に遅刻とは度胸があるなぁ」といったが、気の小さい僕にしては、おそらく我が人生での唯一の遅刻であった。
通学は、自宅のある藤井寺から準急で阿倍野まで行き、鈍行で一駅こぼれぐちまで戻り駅から徒歩で10分と、日々通学したが、ある日、高橋って背丈が僕と同じ程度の男が話しかけてきて友人となった。後に聞くと、背丈が同じ程度なので、その後の様子を観察しようと話し掛けたとのとのことだ。いい加減な話だ。その後、中谷って背の高くひょうろながいのが接近してきて仲間になり、次いで、高橋の知り合いである奥田が仲間になった。しかし奥田は、他に交友グループが多く、演劇部で活躍するなどとかなり活動的で、僕らは、彼の交友グループの一部にしか過ぎないって感じの付き合いで、どちらかと言えば、彼の必要に応じて付き合わされるような関係であった。かような付き合いも、2年になって文系か理系かの組み分けで、僕は就職が簡単だろうと理系を選び、高橋と中谷は文系を選ぶことで別クラスになり、顔を見れば話し合う関係ではあるが共に行動することはなくなってしまった。奥田は理系を選んだが、2組ある理系の他の組になったので、奥田との付き合いも同様な状態になった。ただ昼食時は食堂に行くのでほぼ一緒になるのだが、高橋はいつも掛うどんを注文するので、僕も彼と合わせたが、とても腹が減り、家での夕食は腹いっぱい食べるようになった。高橋は家庭の事情で節約しているのだろうと考えた。修学旅行にも行かないと言うので、僕自身も特に行きたいとは思っていなかったし、高橋に合わせることにして、皆が修学旅行に行った間は、運動場の片隅で2人で時間を過ごした。

そんな付き合いがあるものの、2年生以降の僕らの付き合いはかなり希薄になった。
勉強については、中学校の時に恐怖を感じた以上に大学受験に恐怖を感じた。受験科目が多くなるのと夫々の科目の学習量が高校受験に比べて格段と量が多く質も高いからだ。先ず目標は、世界史が不要な阪大の工学部機械科を選び、中学校とは違って参考書が必要だと本屋で調べて、数学は矢野健太郎の参考書として、物理の高校で学ぶ内容は、要するに運動方程式、運動量保存則、エネルギ保存則だけのことで内容が単純なので教科書のみの学習として、化学は複雑なので参考書の化学精義って本を購入した。英語は単語は豆単の内容を全て覚えることとして、副読本として眠れぬ夏の夜、を自分なりに翻訳し、日本史は教科書の隅から隅まで覚えることにした。2年間で試験範囲の3回は繰り返し勉強することとして予定表を作った。当時TVの放映は夜の十時までだったので、学校から帰れば直ぐに睡眠し、食事時間を挟んで夜の十時まで眠り、それから、3時ころまで勉強して、6時ころには起きて学校に行った。なお夕食は前述のように、昼の小食を補って腹いっぱいに食った。
学校には7時前には着いて、時には門扉がまだしまっていたので、乗り越えて入ることもあった。冬には誰よりも早く着くので、当番の代わりにストーブを燃やした。毎朝、その日の当番が用務員の所に石炭を取りに行くのだが、僕が勝手当番で石炭を取りに行ったある日、用務員が[あんたのクラスは昨日ストーブの後始末ができていない」とグズグズと文句を言い出したので、僕は無視して石炭を放ったらかしで教室に戻り、当日の当番は、登校してからストーブが燃えていないので石炭を取りに行き、かなり叱られたと帰ってきてから愚痴った。

ところで、勉強ばかりだと体力が落ちると、毎日、我が家の勝手口の高い門梁で懸垂をやり続けたので、筋肉が盛り上がり腹筋には割れ目ができた。僕の体力はこの行動で一生分を作れたようだ。

1年生の定期テストの成績は、学年の最後尾近かったが、これを続けることで、定期テストも若干は改善を始めたが、余り変わりはなかった。が、3年に入っての実力テストでは60番程度になり、貼りだされる100人の氏名リストの中に入った。しかし、皆も頑張りだしたのか、2回目は貼り出された順位表の最後尾、つまり100番になり、たまたま居合わせた高橋に笑われた。しかし、秋の全国模試では、結果掲載紙に僕の名前も載った。12月には勉強予定の全てを終えたせいか、最終実力テストでは、科目ごとに返却される点数を加えてゆくと、早々と700点になり、今回はそんなに簡単だったのかと、運動場で出会った小学校時に同級だった特別秀才の岡明人に尋ねた。しかし、岡明人でも700点を超えていないとのことで、結果に期待したが、上位常連の中野光子に次いで2番となった。しかし、なぜか僕が2番になったことを誰も話題にする様子はなかった。ところで、岡明人は1浪で東大に入り、その後、朝日新聞で科学担当で宇宙関係の翻訳本をだしたりしている。彼と小学校で同級だったことが僕の自慢だ。ところで、中野光子は小柄で可愛い子で京大の化学科に進んだと思う。なお同学年では女子が優秀で、中野と、確か、中野とは違って親分肌の多田女史が上位常連だった。

同じころに鉄棒での懸垂テストがあり32回を記録して、筋肉の塊の俵って男に次いで校内2番となった。これも誰も話題にすることはなく、ただ昼休み出会った高橋が、ゴマ化したのじゃないかと言うので、鉄棒の所に行って、28回を懸垂したがあとが続かず残り4回は勘弁してもらった。
1月からは、日常生活を通常に戻して、ほとんど勉強もせずに毎日を過ごした。余りにのんびりと過ごしているので、兄の嫁さんは彼女の家族に、勇さんは絶対に入試は滑るわ、と話していたそうだ。
入試は化学での失敗があり、結果発表までは、くよくよと過ごしたが、予想に反して入試発表の掲示板には僕の番号があり一旦は家に帰ったが、本当に間違いなかったのだろうかと、再度、淀屋橋の大学掲示板を確認に行った。
高橋は大阪市立大学の経営学科、奥田は同大学の理学部、中谷は京都産業大学、にとそれぞれ進学した。ごくまれに連絡することはあったが、ほぼ無連絡で大学を過ごし、それぞれがそれぞれの道をたどった。ただ、1年の夏休みに紀伊半島を小学校や寺で眠らせてもらって一周して、この旅行記を万葉集解説で有名な犬養先生に提出した(これで単位をくれた)が、それを聞いた中谷も、翌年に自転車で紀伊半島を一周した。後述するように、最近中谷に会ったが、その時に、その時泊めてもらった寺にお礼に行くと言っていた。割り切りが得意な中谷にしては律儀な話である。

僕は、特にやりたいことも無いので大学院に入り、それから、くそ住重に就職した。くそ住重の貧弱で不公平な人事評価システムのため出世はできなかったが、ただ仕事としては、自分で何でもできるセクションであったことが性格にあっていたし、誰にも負けない成果を挙げ続けたと思う。

高橋は商社の蝶理に就職し、中谷はインテリア会社に就職したが、1年ほどでやめて、陶器つくりの道に入り、子弟システムの中で勉強して、その後、海外青年協力隊でエルサルバドルに行き、それから、世界中をうろつき、最後にブラジルで相方を見つけて定住した。広い土地を買い、のぼりがまを作り、家や展示場も自分で造るなどがんばっていた。中谷はなぜか割り切りが早く、自分の目的とすることから外れていると判断するとさっと方向を変えるタイプで、僕はその点では失敗したなと思っている。しかし、割り切りが早くて失敗する可能性も高いから、一般的にはいずれが正しいとも言えないだろう。高橋はどちらかと言えば僕に似ているが、社会では、特に今のサラリーマン社会では僕のように長期的な目的を大切にする者は必要とされないようで、その点では高橋の方が社員生活は性格に合うようで、しかも、環境的には恵まれていて、引退時には退職金条件も大幅に良好で、聞いてみると、退職後の年金金額も彼の方がかなり多く、「くそ住重に企業年金がないはずはない」と、僕の言うことを信じられないようだった。そんな高橋に、「くそ住重では、退職優待金もないどころか、肩を叩いたのに本人が知らない間に、自己都合で退職させられていた」、等とは恥ずかしくて言えなかった。が、よく考えると、誰にも負けないほどに利益を上げ続けた僕には何ら恥じることはなく、恥じるべきは、くそ住重(くそ住友重機械)の方だと気づいた。まともな人事評価システムもなく、肩叩き退職を自己都合退職に捏造して、早期退職優遇もなく、おまけに、企業年金もない。歴代の社長は実務能力はなく、それ故に、作業改善手法にのみのめり込んでいる。そこで、くそ住重のことは大声(太文字)で言うことにした。

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ところで奥田だが、物理学の博士課程まで行き、電気工業大学での教職に就き、それに本人も言うように、人の心の機微を知り理屈も立ち、人生を謳歌していたようだが、詳しいことは知らない。ただ、僕が大阪で務めているときには、2~3年に一度程度は電話が掛かってきて、葛城山に昼寝に行こうとか、玉手山の遺跡を見に行こうとか、貴志山の地下道散歩に行こうとか、訳の分からん申し出があり、僕はついて行った。

さて人生も最終局面になった3月ごろにブラジルの中谷からメールがあり、心臓の頻脈を抑えるカテーテル手術に日本を訪れるとのことで、帰国時の平野区役所での手続きを調べてほしいとのメールがきた。一年ほど前に、中谷のライフワークの陶芸類を厚い本にまとめたのを送ってくれたし、その前には、ブラジル産プロポリスを大量に送ってくれたし、これは良い恩返しだと、早速、平野区役所に電話して詳しく聞いた。中谷が海外青年協力隊で現地に居ついた、と最初に言ったのも効いて、丁寧に教えてくれた。中谷のように日本国籍があれば、住民届を区役所に登録すれば、すぐに、健康保険証(中谷の場合は後期高齢者)発行手続きが始まり、保険証が届く以前には、発行申請書で病院を受けることができるとのことで、昨年の年収は0として治療費の上限は決まるとのことだ、と大阪市での上限額も聞き、中谷に返信した。中谷からはコロナで手続きが掛かり8月ごろになるだろうとの連絡がきた。
それならば、大阪で会えるだろうと、その前に大阪の拠点を整理しておこうと4月7日から14日を大阪で過ごし、除草と、ついでに壁の塗り替えを終えた。
ところで中谷の症状は、頻脈を抑えるためにペースメーカーを埋め込み、投薬も行っているが、特に投薬効果が衰えてゆくので、心臓の頻脈発信部をカテーテルで焼却する手術で、殆どの治療が無料のブラジルでは、この手術は国民医療保険の対象とならず、べらぼうな費用が必要とのことで、日本なら、国民健康保険の上限額で済ませ得るのだ。
4月末になり状況確認をメールしたら、2日後には出発して4月末に着く、実家が今は空き家になっているので、そこに滞在するとの連絡がきて驚いた。
日本に着いてから電話連絡があり、日本に着いたが1週間はコロナで自宅待機だと言う。大阪では北大阪医療センターに行く、と言うので、医療センタだと紹介で無いと受診できないと伝えたものの、一週間後には連休に入ってしまい、保険証の発行が遅れるなと心配になった。
一週間後に連絡があり、医療センタに行ったが、やはり紹介が必要だとのことで、帰り道を歩いているときに偶々通りがかった医院が紹介してくれることになったことや、平野区役所での保険証発行手続きも終えたとのことだった。運のよい奴だ。

その後連絡があり、6月9日に入院し、6月10日手術の予定とのことであった。そこで手術前に会おうと、5月19日から大阪拠点に行くことにした。

何十年ぶりかで会うので、一週間を予定していった。僕の大阪拠点で会うことにして僕が大阪に着いた翌日5月20日に中谷が大阪拠点にやってきた。初日はあれこれと昔話に興じ、二日目は枚方の古い街並みを見て回った。ただ彼は手術前で、コロナにかかることも恐ろしく、それ以上に外出することは控えた。僕としては、何をするでもなく一緒におれば良いと思うのだが、割り切りの早い中谷は、一緒に居ることの限界というか、もっと別の経験が必要だと思うのか、彼の実家に帰ると言い出した。止めても聞かないだろうとあきらめて送り出し、僕の予定の一週間の残りは、拠点の整備に費やした。
その後、中谷は6月10日には手術して、翌日には無事退院した。ブラジルへの帰国は8月10日だと言うので、帰国前に再度会うことにして、高橋にも声を掛けることにした。僕の都合で、7月2日から一週間を予定したが、高橋は都合で2日から4日までとなった。中谷と連絡すると、やはり2日程度と言う。どうやら、陶芸仲間とか陶芸地を訪問することを予定に入れているようだった。梅雨明けが例年より早く予想外に暑くなると思えたが、その2日間はたまたま曇りと小雨で過ごしやすかった。いつものように東海道昼間バスで往復したが、はじめはバス旅行も楽しいと言っていた高橋は、バスの中で酒缶とかビール缶を間断無く飲み続け、これはアル中だと思えた。しかも、旅の終わりごろには、「住重たる財閥にも務めた志水が、なぜバスなんかを使うのか?」と彼としての本音が飛び出した。
2日目には中谷も来て、3人で回顧話に耽った。それで初めて知ったのだが、二人は、天高が嫌で嫌でたまらなかったらしい。特に高橋は特に嫌だったらしく、大学に入り心底ほっとしたとのことで、会社に入ると更に楽しかったと言う。話を聞くと、どうやら、二人は、定期テスト型性格で、その時その時に力を注力するするタイプで、僕のような実力テスト型人間ではなかったようだ。
2日目は、高橋は大阪市内をぶらつきたいと単独行動で、僕と中谷は宇治の平等院に出掛けた。翌日には、ふたりはさっさと帰ってしまい、僕はまた一人で、拠点の整備作業を終えて千葉に帰った。この姿勢もまた、定期テスト型人間と実力テスト型人間の違いだろうと思った。
なお中谷に、新幹線の1/4の費用でゆける高速バスといずれを選ぶ?と聞くと、中谷は、そりゃバスだろ、と答えたので、高橋のバス旅行に対する意見は、新幹線に慣れたサラリーマン風の感覚なのだろう。
恐らく、3人で会うのは、人生で最後の機会だなと思う。
ところで、天高の最終実力テストで1番だった中野光子については、中谷によると中学で同級生で、家は薬局を営んでいて、中谷が腎臓病を疑われたときに、薬を段取りしてくれたらしい。また高橋によれば、「いや、中野は東大医学部に行った」と言い、僕の記憶との差異があった。なお、僕もまた中学校で腎臓病を疑われ、夏休みの特別授業を家で過ごした記憶があり、それは、思春期の排出物のせいではないかと話し合った。そういえば、中野光子も腎臓病との噂があったなとも話し合った。
7月半ばになり、中谷から電話があり、帰国を早くしようかと計画したが、航空便が満席で、結局は8月10日頃になる。また会うかと聞いてきた。が、割り切りの中谷は、どうせ2日程度しか居ないだろうし、夏の盛りで、しかも急増するコロナ禍では、外をうろつくことも出来ないだろうと、その要請は受けなかった。
なお、最後の出会いであろうと、中谷の希望で数冊の本と、陶芸に必要なmgを測れる質量計を中谷に提供した。

天王寺高校同期の関東在住者の幹事をしている西野Tさんによると、上記の中野光子さんの名前はひらがなで「みつ子」、筑波在住、科学技術庁の研究所にいて、東大は工学部で、東京の同期会にはよく参加しているとのことで、また、多田宏子さんは、京大の理学部物理学科。名古屋で大学の教授をしていた、とのことであった。また西野氏は京大の数学科らしく、おそらく、天高の実力テスト上位の常連であったのだろうと思える。残念ながら僕は男子学生のことには思いが至らなかったようだ。そう言えば、難波って名前がよく成績順位表の上位にでていた記憶がある。
なお、京大 数学 西野 で検索するとこれが出た。能ある鷹は爪を隠すですな。
https://www.math.kyoto-u.ac.jp/alumni/bulletin1/ueda.pdf

なお中谷は、8月14日にブラジルへの帰国の途に就いた。運のよいことに、13日に台風で日本の交通路は乱れたが、14日は台風は去り平穏で、無事にブラジルに着いたことと想定する。また、その後連絡もあった。


2022年1月31日月曜日

物流事業について

 僕が40代後半にになった頃、僕が所属する東京の搬送技術部は解散になった。社内外交に疎い僕がその情報を得たのは、物流部門への移籍を告げられてからであった。それまでに、社内事情に長けた連中は皆、新居浜とか大阪の良い場所に逃げ散っていて、そのため、東京の搬送技術部の備品、資料などの整理処分も最後までやる羽目になった。
物流部門は、畑中さんと永井さん、共に阪大の先輩だが、彼等が大阪コンベヤに居る頃に立ち上げたのだが、それは、僕が入社後数カ月で、新居浜から転勤してきてすぐの頃だった。
僕が転勤した数日後に、畑中さんが僕を連れて、浜松の住友セメントに、コンベヤ設備の納入打合せに連れて行った。ベルトコンベヤなるものを全く知らないままに同行して、打合せから帰ると、畑中さんは、その案件のファイルを全て僕に渡して、「明日からは僕は自動倉庫(物流機器)に従事する。後は任せる」と申し渡した。
仕方なく、大阪梅田の旭屋に行き、ベルトコンベヤの計画と管理、などのコンベヤに関する本数冊を購入して勉強を始めて、一週間後の打合せには僕一人で行った。打ち合わせに出た住友セメントの課長が、怪訝な顔で、「畑中さんは?」と聞いたので、「僕が引き継ぎました」と答えたのだが、課長の顔を見る勇気はなかった。
その後直ぐに、永井さんが研究所から移動してきて、畑中さんの部下として、2人で物流設備を始めた。
当時、僕は八戸の長距離コンベヤを担当しだしたのだが、八戸鉱山の石灰石が製鉄所の要求品質に合うかどうかの検討が始まり計画推進が一時中止となった。その結果、僕の仕事がしばらく中断した。その中断期を見てと言うか、利してというか、永井さんが声を掛けてきた。永井さんは、急遽米国に出張することになり、自動倉庫の計画図を製作図に落としてほしいとの事だった。製作図の作成には外注さんを一人付けるとのことで、断ることも出来ず仕事を始めた。自動倉庫機器の計画図はA1サイズ一枚だけで、そこからは推定しながら製作図に落とさねばならず、しかも、納期はすぐそこであった。
2カ月ほどかかったが、毎日、12時ごろまで残業して、土日もなく働いて漸く図面の出図を完了した。つまり、物流事業部の最初の自動倉庫は僕が設計したことになる。
それから、20年ほどして、行く場所もなく物流に配流されてしまい、なんと、SEとして客先とあれこれ商談するエンジニヤとなってしまったが、最初の経験から物流施設の建設計画には直ぐに慣れてしまった。転籍の最初は新入社員と一緒に物流教習会に参加することから始まったが、直ぐに客先との交渉や基本計画、受注作業を一人でするようになった。有難かったのは、池内さんや和田さんが、物流のコンピュータ化を見事に推進し、それに、亀田さんや谷口さんが自動倉庫の標準化コスト低減化を十分に実施していたことで、それに、僕が搬送事業部で習熟した重機械の技術を応用することで、特殊な自動倉庫を客先に提言できて、高利益で受注できたことだ。前にも書いたが、住重初の冷凍自動倉庫、世界初の再生物受け入れ用自動倉庫、自衛隊弾薬自動倉庫、造幣局用紙幣用巻紙自動倉庫、等が僕が受注した案件で、変わった設備を容易に実現化できることが僕の強みであった。
ただ、物流事業創設者の畑中さんや永井さんが既に居なかったことには寂しさを感じた。

2013年2月27日水曜日

志水勇のライフワーク

ここはず~っと僕の自慢話だ。
以下に述べるように、困難な仕事を、しかも、赤字をださないようにと必死で努力して、実際にこれを達成したのだが、後に述べる中谷部長や丸山部長、佐薙係長は別にして、それ以外はどっちかと言えば、住友重機械特有の陰湿なパワハラで扱われ、褒められることは全く、全然なかった。会社の待遇や肩叩きのやりかたも、全く評価なしだったのだから、少々自分で自慢しても良いだろうと思う。
僕については、下記も詳しいです。
僕の優しい兄と姉について
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
姉と兄の現状
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_8.html
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html
僕の高校時代
http://isabon.blogspot.com/2022/07/blog-post.html
僕の蓄財法
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_2.html
志水勇の老い
http://isabon.blogspot.com/2025/10/blog-post.html
志水勇の旅行記
https://4travel.jp/traveler/isabon/album

調べてみると、GoogleMap機能が更に進化している。僕のライフワークを調べてみた。
八戸の長距離コンベヤである。港への鉄道、道路横断部分で、StreetViewでは、港の施設周囲を見ることができる。
N40.528439E141.549804
この鉄道を越えるコンベヤは、見事な懸垂曲線に設計した。今でも、StreetViewをみると、当時の感動を思い出す。就職して最初の仕事だが、正しい計算を忠実に行った結果は、常に正しい結果になることを知った経験だった。これ以降、可能な限り計算をすることで、設計根拠を確実にする癖ができたと思う。

八戸鉱山第3駆動室や第5駆動室か,八戸鉱山No.4長距離駆動室で、検索もできる。
地下をコンベヤが走っていて、今では5か所ある駆動室は全て住宅地の真ん中になってしまった。
つまり、設備の殆どは住宅地帯の地下を、しかも8kmにもわたって設置されているのだ。
 大学院を出て就職したばかりの若造の僕が誰に指導されることもなく、全長8km(総計5本のコンベヤ)の設備全体のみならず各駆動室の計画・設計をした。鉱山の地下-200mから地上まで石灰石を運ぶ斜坑コンベヤを含め、全設備が今でも日本最大級の設備である。
設計だけではなくて、据付期間中に訪れた時には、なぜか、最長コンベヤの試運転で、最先端の駆動室で、たった一人で号令・指令を発する役までさせられた。
(おそらく、現場の連中が面白がってそうさせたのだろう。だが、設備に自信があったので、何のためらいもなく大役をこなせた)
 苦労して設計したが、あれで良かったのだろうか、と今になってもふと思うことがある。客先の立場で考えると、これだけの巨大設備を大学卒業歴然な僕に任せることを良く納得したものだと思う。しかし、結果的には、今でも住金鉱業が黒字で稼働しているのだから、あれで良かったのだ。
それにしても、今になって振り返ると、恐ろしいことをたったひとりでやっていたのだ、と思う。

ところで、就職前には大学院でこれを研究した。
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/201002099477760499
僕は、同名の修士論文を出したが、僕の卒業後、後輩の西原さんが全体をまとめて機械学会誌で発表してくれた。おかげでインターネットに名前が載ったのだ。送風機からベルトコンベヤへと、華麗なる転身をしたわけだ。

八戸鉱山や港の船積機はここに出ている。
http://www.geocities.jp/walkmantm/sub26.html
ここに申し込めば見学できるらしい。
http://www.iceee.jp/sisetudb/prev.php?id=367
ここでは、「石灰鉱山として、工業都市八戸の発展の基礎を築いた、とアナウンスで説明していたのが印象的だ。」と書いている。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201208170000/
この人のブログでも紹介している。大山顕って人のブログらしい。
http://portal.nifty.com/kiji/111021149088_4.htm
この僕の設計した岸壁へのコンベヤや岸壁の船積み設備類ってすごいでしょ。
ただ、岸壁のセメント用エアーフロー積込み装置(世界最大能力)は僕が設計したが、石灰石用のシップローダーは新居浜の設計部署の製品だ。エアーフロー積込機は、長距離コンベヤや岸壁施設が出来てから、かなり後で追加したもので、サイロの下からエヤーでセメントを流し出して、大能力のバケットエレベータで上にあげてから空気の流れでセメント用船積機にセメントを供給する。これらのシステムは予算が厳しくて、たった一人で計算し、計画図を書いてこれを外注さんに詳細図を書いてもらい設計した。結果は利益を上げることができた。
長距離コンベヤの終端で岸壁につなぐコンベヤの様子やセメント用シップローダも紹介してる。
http://portal.nifty.com/kiji/111117150708_3.htm
岸壁へのコンベヤのこのカーブ!すばらしいでしょ?
http://portal.nifty.com/kiji/111117150708_2.htm
うれしいなぁ。
ここでは皆さんが、感動してくれている。
http://togetter.com/li/215888
八戸石灰長距離コンベヤの思い出
https://isabon.blogspot.com/2022/08/blog-post_55.html

住金鹿島第3焼結設備は、Googleで見える筈だが、場所が判らない。
幅広のハウスガーダースパンが50m程度もある凄い設備なんだが、他の設備も大きくて判らない。
ここは焼却設備だが、No3か、どうかもっと調べよう。
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次は、僕が受注ワークに参加し、搬送設備のプロマネをした米国ガルフ湾の石炭ターミナル
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この時は、SITEの選択をするお客さんのセスナに乗せてもらった。かなり急降下とか上昇をしたので、他の同行者は気分が悪くなったが、僕は楽しく朗らかになった。以降、お客さんは僕を親切に扱ってくれた。

バングラデッシュのは、何箇所か写真は見ることができる。
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かように進化するなら、ときどき調べねばならない。

ここは、僕が受注した、世界で初めて、ごみ受入れに自動倉庫を使った施設です。
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http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200902155708973063
ここで梁瀬さんは、リサイクル施設全体のまとめ者で、僕が自動倉庫をプランして梁瀬さんの所属する事業部から受注したのだ。その後すぐに、僕は自動倉庫部から肩叩きに会い、梁瀬さんのところで働くことになった。

これも受注したなぁ。柳瀬さんの下で受注した設備だ。多分、消耗品予備品価格が安かったのが大きな要因で、営業力も良かったのかな。
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これも受注したが、その他プラに切り出し設備が評価されたけど、僕の本意ではないレイアウトに上司がまとめてしまった。受注よりは、受注後の設備設計で頑張って不本意なレイアウトを何とか稼働できる形にまとめた。
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これらの他にも、住友重機械最初の冷凍自動倉庫とか、造幣局の紙ロール自動倉庫とか、かなり特殊なタイプの受注にも成功した。僕は特殊なタイプの自動倉庫を、特殊なタイプなだけに高利益で受注し続けた。
環境施設部の外注となってからは、住重の名刺を持って、毎年20億円程度の再資源化施設を受注し続けた。

35歳ごろからは、どんなシステムが与えられても、プランし計画して見積することが出来るって自信が出来たし、実際にそれを実現した。受注には至らなかったが、実に様様な、夢のようなシステムさえ構築できた。そんな人間って企業には必要と思うのだけど、あっさりと首を切りよった。住友重機械ってほんとに馬鹿な会社だと思う。それも、同じ大阪大学卒で仕事は出来ないが首切りだけが上手な日納義郎って、とんでもない社長に追い出されたって馬鹿げた話だ。日納は造船科卒だがその技術では能力が無く、首切りって最も安直な方法で力を発揮したわけだ。彼の功績で住友重機械は回復不能なまでに技術力を失ったのだ。

僕が最も自慢すべきは、1年間程度休日出勤して、たった一人で、ベルトコンベヤの設計プログラムを開発したことだ。コンベヤ能力・速度条件等と、主要点のレベルを入力すれば、コンベヤの詳細仕様や構成部品仕様を設計レベルで出力できるプログラムであり、また、発電所や製鉄所のコンベヤ群をたった一人で短期間に見積もりできるプログラムを開発した。今思いだしても、凄いシステムを開発したものだと思う。鉄工品の設計プログラムも開発して、これらのプログラムを使うことで、東京の見積もりグループに移動した時には、港湾設備、製鉄所、発電所などの、数十億、数百億円レベルのコンベヤ設備群を一人で見積もりできるまでになった。プログラムは実施設計レベルの出力を行うので、受注後も簡単に設計できたわけだ。当時僕の所属していた住友重機械工業の運搬機事業部は、新居浜事業所に本部があり、世の中は新居浜を中心に動いているとの考えで、出先であった僕の所属する東京部門から若手を全て新居浜に移したので、数百億の見積もりでもたった一人でやることになったが、そのプログラムのおかげで十分に対処できた。これらのプログラムは、コンベヤ部門を任されたときには他社や外国にも技術的にもコスト的にも追随させないことを目的に開発したのだが、ついには東京部門が閉鎖され、僕は自動倉庫部隊に移動となった。その時点で、会社のコンピュータ内のは全て消去してしまい、プログラムそのものは自宅に持ち帰った。かくして、住友重機械は、昔も今も、労働集約型企業のままで存在する。

と言うことで、新入社員の時から海外の文献も自費で収集し、その後も国内外の施設の資料も鋭意収集したり、いろんなプラントの見積もり・実施に従事したことで、僕はバラ物搬送に関しては世界的な技術を有すると自負し続けたのだが、その後76歳になり、集めた資料の整理が必要となった。本についてはamazonで売ることにして、収集資料類は資源回収にごみとして出すことにした。かくして技術は消え去って行くのだが、恐らくそれは僕だけではなく、日本中の技術者の資料は同様に消え去るのだが、政治家や評論家、それにマスコミは、自分では口で言うだけで何をすることもなく、日本の技術力の低下を嘆いている。そんな姿を見るたびに、おまえは一体何をしているのだと馬鹿馬鹿しくなってしまう。

以下は旅行案内みたいになった。
ローマの僕の好きな安宿 FlaminioVillage
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RomaNomentanaの宿は、外側に建物が並び、内側は広い公園のような庭になっている。
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この角のBARが今はTratoriaになっていて、とてもおいしい。価格もReasonableである。
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Napoliの素敵な宿は、ここの木の扉の中だ。
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Capriの青の洞窟はここ。陸からの路がある。
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皇帝ティベリウスの邸宅跡はここだが、ここに至る道が素敵だった。
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ジョホールバルで僕の宿泊したホテル近くにジャスコがあったが写真が見える。
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近くに日本食レストランもあったのだ。
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シンガポールのこの美食屋が広くなっていてうまかった。
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KUANTANで宿泊したPAN HOMESTAY でとても良かった。
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なお、2017年に至り、東京都知事 石原慎太郎や、その側近たる浜渦とかに、東京都100条委員会での尋問が為されたが、彼らの言い分は、当時は彼等の決断は周囲から絶賛されたとんことだ。が、それから10年~20年で、今は社会から明らかに責められている。彼等に比べて、僕の造り上げた設備は30年後、40年後の今でも称賛されているわけだ。