2024年7月27日土曜日

詩吟部と、鎌倉国年さん

 僕は阪大の教養時代、詩吟部に所属していた。
何故か判らんが、科も違う澤井隆って男と友達になり、彼が詩吟部に入ると言うんで追いていって、それまで入る気も無かったのにそこに入ったのだ。
当時、僕は大声が出るので、詩吟部には向いていたと思う。部室の裏の池の向こうで、応援団がか細い声でフレーフレーと応援しているので、こちらからも同じ応援を返信すると、翌日になって、応援部から応援を頼んできた。応援の応援だ。しかし、僕自身は人前に出るのが嫌で断ったし、他の仲間も断ったようだった。
今日、古いファイルを整理すると、詩吟部の会誌があり、名簿を見て澤井隆のことも思い出した。社会人になり、ある時に、ネットで彼の名前を検索すると、川柳の同好会の中で彼の名前を見つけ、書かれてあったアドレスに連絡して、僕の友人である澤井であることも確かめた。しかし、それ以降全く連絡していない。
あれからもう何十年も経って、彼の名前で検索することにしたが、最近は当時と違って、人名で検索することは難しくなっている。そこで、澤井隆+川柳で検索すると、やはり名前は出てきたが10年以上前のものである。今も活動しているか否かは判らない。
名簿を更に見ていると、鎌倉国年って、これも同期の名前があった。確か、彼とは自転車で天橋立まで行った記憶がある。余り親しくは無かったのに、僕が当時自転車に良く乗ることを知ったのか、突然声を掛けてきて、天橋立に自転車で行こうと言ってきた。恐らく、僕が自転車で紀伊半島を一周したって話を伝え聞いたのだろう。それを、僕も何とも思わずに了解して、約束の日、自宅南河内の藤井寺から大阪市内を縦断して待ち合わせ場所まで遠出した。そのまま、二人で天の橋立に向かった。天の橋立に着いて、どうするかと思ったら、彼は路脇の公衆電話に入り、詩吟部の先輩で京極さんって人に電話した。が、京極さんは都合が悪いとのことで、宿泊はあきらめて、そのまま大阪に帰った。今頃になり地図で見ると凄い距離を往復したものだ。でも当時は全く疲れを感じなかったのだ。鎌倉君との同行と言うか、親しい付き合いはほぼそれ一回だったと思う。
ところで、その周辺の京極家って有名な家だったのだろうと、今になって思う。
さて、鎌倉国年って検索すると、鎌倉工業の鎌倉国年って出て、どうやら会社を作り、その後、何冊か本を出すとかで活躍していたらしい。彼のブログも見つかったが、2015年頃を最後に途切れている。その後の消息を調べたが、全く把握できない。
それにしても、澤井も鎌倉も、なんか大学の学科とは違うところで頑張ったんだなと思う。
もうちょっと早く調べるべきであった思ったが仕方が無い。
ところで、詩吟部会誌の中に挟まったPR誌に、鎌倉君の随筆があった。そこに「学生に言うのだが、学生が勉強しないのは、会社員が給料をもらいながら働かないのと一緒だと」との文章があった。
この文章は、日経の随筆でも見かけたな、と奇妙な感覚に陥った。
確か、日経新聞の春秋ってコラムで見たのだ。
ってことは、今の春秋のコラムの作者は彼ってこと??

さらに、詩吟部名簿をよく見ると、鎌倉国生さんは、僕より1年下だ。一年下の男が上級生に自転車旅行を誘うだろうか。彼が天橋立で連絡を取ろうとした京極さんは部の重鎮だったから、そんな上級生に宿泊を頼もうとするなんて、1年生がするだろうか?
ところが、名簿に年代別に部の部長の名前が記載されていて、京極さんの3年後で鎌倉さんが部長になっている。つまり、鎌倉さんって、言うならば、上昇志向と言うか、組織をそのように見つめる人の様だ。となると、天橋立の京極さんに電話したのも納得できる。僕が天橋立行きを先導していたなら、ユースホステルのような施設を予約したであろう。
とにかく、僕と共に宮津に自転車旅行したのが鎌倉さんであったと断言できない。
なお、天橋立は宮津市にあり、昔の宮津藩の藩主が京極家であったのだ。

ところで、僕が紀伊半島を一周した件だが、これは前にも書いたと思うが、大学1年の授業で、万葉集の権威であった犬養先生の講座を取ったが、初回から教室が人でいっぱいで廊下に溢れる程になり、それが嫌で、一回だけの受講でやめた。しかし、噂で、先生のレポートは何を提出しても通すと聞き、さてっと思い、夏休みに紀伊半島を一周して、旅行記を提出しようと思いついたのだ。実際に実行して、旅行記と言うか一日走行記録に近いものを提出したら、犬養先生は通してくれた。有難いが恥ずかしくもある。それに、そもそも万葉集の犬養って重要人物の講義を受けるなんて、そんなチャンスを捨てるなんて勿体ないではないか。そのことに後になって気付いたわけだ。
前に、三菱重工でジェット旅客機のエンジン担当した殿村兆史のことを書いたが、その彼の勧めで犬養先生の講座に出たのだが、彼は授業を最後まで受けて、レポートは枕詞についてであったらしい。さすがに勤勉な男だと感心した記憶がある。
ちょっとした事から記憶がどんどんと広がって行く。

ところで、日経新聞の春秋の著者だが、その都度変わる内容や文体からすると、どうやら、複数の人が携わっているように思える。

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