2024年7月26日金曜日

追悼 加島正一さん

 加島正一さんは、僕の女房の次兄だ。女房の兄弟姉妹は、10人で、内一人は男子だが生まれて直ぐに亡くなっている。残った兄弟姉妹の中で、男子は二人で、次男の正一さんは、叔父の養子となった。その叔父は、更にその叔父が満州で働いていて成功を収め、そこの元で働いて、彼もまた大きな財産を得たらしい。戦後は満州で得た金で別府に大きな家を得たのだが、それからは切り売り生活で、正一さん自身は、その富の恩恵を受けることなく育ったようだ。その後、その父親は、加島の長兄の恩恵で暮らし続けたらしい。親戚が集まると、その叔父は満州での成功話しばかりするので、親戚一同からそのような席で彼と隣になるのを避けていた。たまたま僕が同席すると、僕をその叔父さんの横に座らせるのだが、僕としては、彼のそのような成功話はとても面白かった。とにかく、加島の男子は豪放磊落な雰囲気だが、実は周囲に気配りしてるって社会性の高い連中である。
正一さんも同様で、大声で笑いながらも、地理とか地方の名産とか見どころなどに、細かく気づかう気持ちの良いひとであった。
加島兄弟姉妹会の旅行では、必ず参加し、時には、奥さんの英子さんを伴ってきた。氏は、東工大卒業後、大気社に入り、東京勤務であったようだ。僕の同期の、松井さんとは、会社でも同期だったようだ。僕とも学年は動機だが、彼の生まれが早かったので、僕には義兄となるわけだ。
彼の亡くなるまでの経過は、僕が、女房の妹、つまり義妹に送ったメールに詳しく書いた。
そのメールには、葬儀の様子も記載した。正一さんの奥さん、英子さんとしては、ひっそりとした葬儀を希望したのか、僕が住友重機械を嫌うのとは別の理由で、大気社には連絡しなかったようで、会社の同期生達は弔問に訪れなかった。
ところで、葬儀の日はとても暑い日で、しかも、葬儀のある小田急相模原は、東京都心を横断して更に遥か彼方で、しかも葬儀用礼服での旅路である。老齢の夫婦には果たして耐えられるのかと心配したが、乗り継ぎ4回は簡単で、接続も良く、車内は冷房が効きすぎているほどであった。おかげで、東京を越えて彼方への旅も容易だと良く判った。ただ、出発が通勤時間と重ならないようにと、出発を早めにしたのがつらかった。が、年寄りはどうせ早くに目覚めるのだ。礼服については上着を手に持ち、重要物はショルダーに入れて肩掛けにして、それほど気になるほどでもなかった。

正一さんの葬儀の件ご連絡

本日7/25の10時からの正一さんの葬儀に参列しました。

場所は、小田急小田原線の「小田急相模原駅」の駅北側のサンホール2Fのファミリーホールでした。

八千代中央から東葉高速ー東西線ー千代田線ー小田急線で、3時間掛かります。

でも、乗り継ぎは、どれも同じホームの向かいとかで、ただ、東西線から千代田線は、地下道を数分歩くのが最も苦労って道中でした。時間に合わせると通勤時間にがっちゃんこなので、早めに出たので、暑さは避けられましたが、到着は8:30過ぎで速すぎたのです。が、午前中の葬儀は正一さんだけでしたので、葬儀室にも入れてくれて、お棺に眠る正一さんを見ることができました。加島一族の骨格そのものでしたが、一回り痩せた顔に涙がでました。

生前の正一さんの写真もホールに展示してあり、生前の正一さんの豪放な話しぶりを思い出して懐かしく思いました。

その後、英子さんと息子さん、英子さんの弟夫婦、正一さんの東工大時代の友人が参列され、我々も居れて7人の参列するご葬儀でした。

英子さんと息子さんに、正一さんの闘病経過も聞きました。

10年前に前立腺がんを発症して、全摘出したのですが、時間を置いて再発し、更に、血液がんと他の臓器への転移もありましたが、有能な先生で、何とか抑えられたのですが、血液が不純な物質を心臓に運び、これが沈殿して、心臓の機能に障害は発生したとのことです。機能を維持するためにペースメーカーも入れて体力維持できていたのですが、先日は腹痛との障害が出て入院し、元気を取り戻し退院予定した矢先に心不全が生じ、7/18に亡くなったとのことです。

2019年、歌子さんの遺産相続の折に、書類受け渡しで、慶応病院のある信濃橋で会いましたが、その折は闘病最中とのことでしたが、元気に見えました。しかし、更にその後病気は進行したのでしょう。

最後の九州旅行は、車で周遊したのですが、2本の杖を使いながらの周遊だったようです。それから一か月半での逝去ですから、かなり難儀な旅を強力な精神力でこなされたのでしょう。こんなとこが加島の血筋でしょう。

葬儀では英子さんの感謝の言葉と経過報告もあり、また、生前の写真の映写もあり、気持ちの良いご葬儀でしたが、自然と、涙が流れてきました。里美さんは、正一さんや加島兄弟会のことを話すたびに涙声になっていました。

焼き場へもご一緒したかったのですが、当日は4時半に生協が品物を届ける日で、それでは間に合わないので、出棺の車が出るまで見送りしました。正一さんのお棺には花を満杯に入れて出棺しました。

なお、兄弟姉妹会から5万円をお香典として出しておきました。会のお金だからお返しは不用とも言い添えました。

以上、ご報告です。

志水勇

加島英子夫人の送る言葉

陽だまりの様な面影をいつまでも忘れません
夫はとても博識なひとでした。
歴史や政治の番組が始まれば、自分なりの見識を語っていた姿が記憶に鮮やか。
いろいろな物事を知っていたからこそ、人との繋がりの大切さもきちんと理解していたのかもしれません。大学時代の知り合いや会社を通じて出会った方、共にスポーツを楽しむお仲間など、思えば夫はたくさんのご縁に恵まれていたものです。
私たち家族との絆も大事にしてくれました。夫として私に寄り添い、父親として我が子の進む未来を見守り続け・・・・
夫婦として手を取り歩んだ五十二年の歳月を振り返れば、胸が温かくなります。
それは共に過ごした日々が幸せだった証なのでしょう。
面影を偲べば別れは惜しまれますが、今日までずっと傍にいてくれた夫へ伝えたいのは感謝の一言です。

「ありがとう」この五文字に万感を託し去り行く背中に捧げます。
夫 加島正一は令和6年七月十八日満八十一歳にて生涯を終えました。お世話になった皆様へ生前のご厚情に深く感謝申し上げます。
令和六年七月二十五日(葬儀) 



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