2019年5月5日日曜日

巨椋池跡地訪問

一度、巨椋池の跡地を訪れたいと考えていた。
10月初めにいったんは自宅に帰り、10月22日に再度枚方に出かけた。

バスの旅の見所としては、往路、復路共に、紅葉の季節には早いが、景観は素敵だった。しかし、不思議なことに同乗者たちは富士山にさえあまり関心を持たないようだ。富士の景観としては、御殿場PAでの富士が最も壮観だった。また、富士のすそ野から立ち上がる富士裾野演習場からの富士もなかなかのものだった。

殆どの農村はその姿を変えた今、甲南PAの上り側 からの農村風景も捨てがたいものになってきた。だが、斯様な風景を鑑賞する人も少なくなったようだ。窓のカーテンを閉じて眠り、パーキングエリヤで目覚めてトイレとか食料調達に行く人が殆どだ。もしくは、スマホに耽っているかだ。
さて、巨椋池跡地探訪だが、中国からの宿泊者を送りだし、布団干しやカバー・シーツ類を洗濯したから、巨椋池跡地を見にゆくことにした。場所は、京阪電車の中書島から、南側の宇治川の更に南側辺りだと目星をつけて、GoogleMapでも調べたが、航空写真で田んぼが広がっている辺りに巨椋池と表示されている。要するに、京阪中書島で降りて、観月橋を越えて、近鉄の踏切を越えたら田んぼが広がっている筈だと考えた。
京阪 中書島で降りて、いずれ京都市バス一日券(既に購入済み)で京都市内を巡ることにしているので、中書島北側のバス乗り場を調べた。なお、中書島の港公園、琵琶湖疎水、寺田屋、中書島大手通り、アーケード通りなどは既に探索済である。が、素晴らしい場所だから、再度訪問の意思は十分にある。
路地を進むと、琵琶湖疎水の分線運河に出た。下は、観光用1石船の乗場だ。運河に沿って行くと、宇治川の堤防に出る。宇治川への放流水門があるが、そこは単に水位調整用で、宇治川港公園の宇治川への船便用の水位調整水門とは別の水門だ。いずれにしても、共に明治時代の治水工事として、琵琶湖疎水の一端としての素晴らしい文化遺産だろう。
堤防の東側に観月橋があるり、観月橋周辺は道路が交差している。堤防に沿って行けば宇治で、右は奈良、左は京都って、つまり、この道路は京都から奈良への、奈良街道だ。宇治川に沿う、京阪宇治線の観月橋駅もある。要するに中書島は、奈良、大阪、京都の交通要衝であったことが判る。観月橋から東側、上流側は宇治だ。観月橋を渡ってすぐの、細い道を南西に向かう。細い道が近鉄線と並行になった所を西に向かうと、広大な田んぼが広がる。そこが巨椋池跡地だ。景観はGoogle地図そのままだった。しかし、見栄えの悪い建物が立っていた。恐らく養護施設だろう。
後ろ、北東を振り返ると、伏見城が見える。伏見城がいかに重要地点に建っているかが良く判る景観だった。
  • 京阪電車中書島北側のバス乗場周辺
  • 京都市バス81番 京都駅行だ
    京都市バス81番 京都駅行だ
  • 乗場すぐわきの路地を東に向かう(中書島の東に観月橋がある)
    乗場すぐわきの路地を東に向かう(中書島の東に観月橋がある)
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  • 琵琶湖疎水分線と観光用一石船乗場
    琵琶湖疎水分線と観光用一石船乗場
  • 同上
    同上
  • 宇治川堤防に出る。西側を見ると、近鉄の鉄橋で、左側は京阪宇治線だ。
    宇治川堤防に出る。西側を見ると、近鉄の鉄橋で、右側は京阪宇治線だ。
  • 琵琶湖疎水分線から宇治川への水門。ここでは水位調整だけで、港公園の船を上げ下ろしするための水位調整水門とは異なる。
    琵琶湖疎水分線から宇治川への水門。ここでは水位調整だけで、港公園の船を上げ下ろしするための水位調整水門とは異なる。
  • 堤防の東側に、観月橋がある。
    堤防の東側に、観月橋がある。
  • 観月橋の付根に京阪観月橋駅がある。手前が奈良街道だ。
    観月橋の付根に京阪観月橋駅がある。手前が奈良街道だ。
  • 観月橋から東側、宇治方面を見る。
    観月橋から東側、宇治方面を見る。
観月橋から東側、宇治方面を見る。



  • 観月橋を越えたところを細い道を南西に向かう。      
    観月橋を越えたところを細い道を南西に向かう。
  • 近鉄電車の線路と並行した所で、線路を越えて東に向かうと、巨椋池跡地だ。広大な田んぼが広がる。      
    近鉄電車の線路と並行した所で、線路を越えて東に向かうと、巨椋池跡地だ。広大な田んぼが広がる。
  • 同上      
    同上
  • 見栄えの悪い建物も増殖中だ。      
    見栄えの悪い建物も増殖中だ。
  • 後方を振り返ると、伏見城が丘の上に見える。伏見城から中書島までの狭い陸地が各所に繋がっていて、撮影している場所は巨椋池の水底であったわけだ。<br />巨椋池が存在する時代には、伏見城や中書島が京都、奈良、大阪への交通の要衝であったことが判る風景だ。      
    後方を振り返ると、伏見城が丘の上に見える。伏見城から中書島までの狭い陸地が各所に繋がっていて、撮影している場所は巨椋池の水底であったわけだ。
    巨椋池が存在する時代には、伏見城や中書島が京都、奈良、大阪への交通の要衝であったことが判る風景だ。
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