2022年7月27日水曜日

神は妄想である リチャード・ドーキンズ

 神は存在しないことを延々と述べている。その中には哲学的な考察があると思えるが、僕のような無神論者には無意味な説教だし、神を信じる者は、本の名前を見ただけで手に取ろうとはしないだろう。神を信じる者の中には著者を暗殺しようと試みるものも居るかもしれない。だが、それでも、神をどっぷりと信じる以前の人々には、この本には啓発的な価値があるかもしれない。
宇宙は神が作ったものではなく、存在すべく存在して、人は神が作ったものではなくて、作られるべくして作られた、と言うのが、僕の考え方だ。僕の存在は誰に感謝するべきものではなくて、ただ存在するに過ぎないのだ。重要なのは、宇宙はどのように生まれたのか、人はどのように生まれたのかを研究し推論することだろう。
なお、その巻初に、カール・セイガンの著書 惑星へ  について言及しているが、僕の小学校の同級生 岡明人 がこの本を翻訳している。たいした奴だ。

また、本書にも書いているが、旧約聖書を読むと、彼らの神なるものは意地が悪く、扱いにくい存在だ。”フェニキア人” なる本によると、砂漠の悪環境下で生き延びるために、さような性格の神になったらしく、フェニキア人は生贄も行っていたらしい。キリストが愛を唱えるまでの元の宗教は、一神教特有のやっかいな宗教だったようだ。フェニキア人の宗教またはそれと同系統の宗教がユダヤ教で、旧約聖書はその世界の話を記載していて、キリスト自身はその宗教をほぼ否定したのだが、彼の後継者は、旧約聖書もまたキリスト教の聖典としてしまい、旧約聖書の厳しい教えがキリスト教の根幹の一つとなってしまったようだ。例えば、キリストを神の子とするか、それとも神自体とするかで、闘争が起こり、ユダヤ教の厳しい神エホバを信じるキリスト教一派も生まれたりしたわけだ。

ところで神が世界を作ったのではないとすれば、いかなる成り立ちがあるだろうかと、僕が推論するのは下記だ。
先ず、無限なるものは存在しないとすれば、宇宙は有限の筈で、宇宙が存在する現実からすると、何も存在しない虚無は不安定で、虚無が崩れることでエネルギーが虚無の中に放出されるのだろう。我々の宇宙は、そのエネルギーが振動体なる微細物から構成されているのがが我々の宇宙で、しかし、エネルギーが他の形態で存在するのが、ダークエネルギーとかダークマテリアルとして、エネルギーの存在そのものとして計測されるわけだ。神の存在の余地はない。

脳は世界をどう見ているのか ジェフホーキンズ

 人間の脳は、主として器官との接続または制御に使われる脳幹と、それを取り巻く、厚さ2.5mmでしわしわの新皮質から成り立ち、人間としての高度な感覚・制御は新皮質内に立ち並ぶニューロンが行う。哺乳類としての進化の過程で、そのニューロン系は、同じ構造のものが次々と増加してきたわけだ。その機能は、すべてを座標系で認識しているとのことだ。思考も、座標系で行っているらしい。つまり、最初は外界の認識をするために生まれたニューロン系が、徐々にその活動範囲を増やしたのだが、その過程で、同じニューロン系が複製されて、異なる目的に使われるようになったらしい。
人、それにその他の生き物も、すべてを座標にて認識し、予測し、思考していることになる。
人は、しっかりとした、正しい座標系を持つ、もしくは、作り上げることで、知的に高度な思考を持つわけだ。

2022年7月25日月曜日

電機品の故障時注意 IHヒーターでの経験

 大阪拠点で、ゆで卵を温めようと電子レンジに入れたのだが、温めているとバーンと爆発した。その後、電子レンジが動作しなくなった。これは参ったと、amazonで電子レンジを最速購入した。故障した方は、娘の友人の旧品を送ってもらったもので、有能な機械だが、そのせいで、とても重くて頑丈な作りで、捨てるにはもったいない代物だったので、僕の居室の物置台として使っていたが、先ごろ、やはり始末しようとドライバーや鉄切鋏なども準備して分解作業に取り掛かった。カバーのネジ2~3本を外したが、念のためにと電源線をソケットに差し込んで試運転した。すると、なんと、正常に動作し始めた。機械内部の遮断機が落ちていたのだろう。結局、大阪拠点には電子レンジが無駄に2台あることになる。新しく買った軽い方は、コロナ後の運転再開時に客室に入れるのもありかと思う。
それにしても、電気装置は故障時には、取説には記載はないが、機内遮断機が切れることに留意しなければならないと気づいた。
そういえば、かなり以前だが、冷蔵庫が故障して買い換えた時も、電源プラグ自体の入り切りチェックをすべきであった。電話相談したがその点は指示されなかった。ひょっとすると、今年5月のエコキュートもそうであったかもしれない。そんな時にはどうしても焦って先へ先へと手配してしまうのだ。
2口IHヒーターを1年半前に40000円で購入して、自分で交換したが、昨日1口が動作しなくなった。
自分で手配、取り換えと思ったが、前回の取り換え苦労(とても大きくて重くて、それを狭い場所に嵌め込まねばならない。)を思い出してゾッとしたものの、購入手配とかの段取り始めようとした。が、念のためにと、200V系のON/OFFを試そうと考えた。
ただ迂闊に電源盤の200V遮断機を切ると、同回線のエコキュートに悪影響が及ぶと思い、先ずはエコキュートの電源遮断をどうするかと考えた。エコキュートの取説を読むと、長期の休止時の時に電源遮断する場合の方法が書かれていて、それに従って、電源を切り、それから、電源盤の200Vの元となる遮断機を切った。その後、逆の手順で電源を回復すると、エコキュートは無事に再起動できて、なんと、IHヒータの二口ともに動作を始めた。これで4万円もの倹約に成功したことになる。が、前の冷蔵庫や前のエコキュートその物と、その他にも、過去には何十万円も損しているかもしれない。こんなことには、とてもくよくよする性格だ。
これからは失敗しないと考えるが、人生の中で余りに遅い気づきだ。



今回は、2口 IHヒーターの一方が

2022年7月10日日曜日

安倍元首相が暗殺される

 安倍首相が暗殺されて、メディアはそのことで騒がしい。今日の日経社説にはテロに屈してはならないと投稿されていた。しかし、今回の殺害は、政治的テロとは言えない代物だ。そもそも安倍に何らかの政治的信念はなく、あるのは忖度的政治だけだから、彼が首相を辞任した時からは、政治的には彼を暗殺することに何の意味もない。
彼が達成した成果として何かがあるのだろうか。プーチンと何十度も会ったが、何の成果もなく、ただプーチンの親友と呼ばれて喜んでいただけで、トランプとも同様の関係だった。プーチンにもトランプにも利用されるだけの関係だった。高速鉄道受注目的の外遊でも、大型建設工事での外遊でも全く成果はあげなかった。国内でも、アベノミクスは現在では完全に失敗だと思われるし、黒田日銀総裁との共同作業で、日銀は身動きの取れないほどに国債を引き受けている。経済も政治ももうどうしようもなくなってしまった。結局は大量の安倍のマスクに200億もの金を何の効果もなく倉庫に貯めただけの政権だったと言えるだろう。
そんなの、誰にでもできるわなぁ。僕ならもっとましなことをできたであろう。つまり彼の死は、彼の為した悪徳を清めることもできず、僕の死と同様に単なる個人の消失とこれに伴う変化でしかありえないと言えるだろう。
更に、別の報道では、最近では安倍首相は統一教会との関係をもはや秘密にするどころか堂々と行動するようになったらしい。自民党の天下でありまた、己の天下だと考え始めたのだろう。天に代わる一撃を犯人が行ったようにさえ思える。

その後の情報では、犯人の母親が統一教会に全財産を寄付して破産し、このことを恨んだ犯人が統一教会に取り込まれたか統一教会を取り込んだかの安倍元首相に報復したとのことだ。統一教会はいろいろとかなり以前から問題な宗教団体で、これと関係するなどとは政治家としてはあってはならない状況で、身辺に甘い安倍首相の弱点が再びトラブルを生んだとも言えそうだ。

統一教会で上映された安倍首相のビデオを見ると、「統一教会さんは世界平和について多大な貢献をされている。そのような教会の活動を心から応援している」と述べている。
安倍氏の立場からすると、政治献金をする統一教会から会合への祝辞を依頼されて、協会が宣伝する活動のご利益の内で、最も無難な平和活動に的を絞った祝辞なのだろうが、だまされる信者にすれば、安倍元首相が協会の活動にお墨付きを与えたに等しい。このお墨付きで財産を奪われた親族としては許すことはできないだろう。つまり、今度の事件は、とても政治的な出来事とは言えない。

安倍元首相は、この他にも大物詐欺師との親交とか、森掛問題とかの問題も多く、それらは、官僚たちの忖度でなんとか切り抜けたが、かような問題で自滅に陥った。いうなら、天罰が漸く下されたのような感じがある。
更に、政府は新興宗教がもたらす国民の悲劇にもっと関わる必要があるのではないだろうか。マスコミもまた、その方向からの報道を要すると思える。

安倍殺害の翌日は自民党の圧勝であった。つまり国民の意思が日本の現状を良しとしているのであろう。自民党に投票した人々は、世界の中で日本の地位がどんどんと低下する現状をよしとしているわけだ。僕は日本の未来を心配しないことにした。

マスコミや一般人の安倍元首相への賛美の声は大きい。ところが、日経新聞の記事を見れば、日本の退潮を危ぶむ記事が日々多くなっている。それらの記事での退潮の時期は明らかに 安倍政権及び黒田日銀総裁 の期間と一致しているのだ。この矛盾が日本の根本的な問題と思える。つまり日本のマスコミの警告や一般人の認識は遅すぎて、しかも、ピント外れなのだ。

その後の報道では、安倍首相の子飼いの参議院議員が、統一教会の票で当選したとのことだ。その議員は統一教会の賛助員となっており、恐らく安倍元首相も同様であったと思える。暗殺者の目標もあながち的外れではなさそうだ。オウム真理教騒乱後、次の解体目標は統一教会とされていたのだが、自民党の圧力でそれはならず、恐らく暗殺者と同様の数多くの家庭崩壊が日本では起こっているようだ、今回の暗殺事件で、自民党議員の安易な統一教会利用は抑制されることだろう。これは望ましいことだと思えるがどうだろうか。

自民党の青山参議院議員によれば、彼はある派閥の領袖から、「統一教会の票を回そうか」との提案を受けたが拒否したらしい、他の参議院議員が同様の提案を受けたと聞き、その領袖に直接会いに行き、統一教会の票を使っては駄目だと進言したが、領袖はじっと見返しただけだったとのことだ。ある領袖が安倍でなければ、青山は「安倍さんでないある領袖」と言ったであろう。このことからすれば、安倍は、統一教会の恐ろしさを全く認識していなかったのだろう。プーチンやトランプの恐ろしさを認識できなかったと同様だ。結果として、統一教会の恐ろしさではなく、統一教会が招いた悲惨さの余波を彼自身の命で受けたわけだ。常識人であれば、統一教会の票を使うなんて極めて危険だと思うものだが、彼にはその常識さえなかったらしい。その異常さが森家計問題とかを引き起こし、忖度官僚が出世するとかの異常事態を生み出したと理解できる。

その後も、続々と、多数の自民党議員と統一教会との暗い関係が暴露されている。自民党員はもう遣りたい放題になっている。結局は自民党に投票する国民のなせる業だから、どうしようもないことだから、僕には、犯人の悲嘆を誰も受け止めない状況で、犯人の一撃は強烈な意思表示とさえ思える。

オーム真理教の時と同様、マスコミはいつも遅れ遅れだ。事件から2週間は過ぎているのに、まだ事件の本質には気づいていない。暗殺は暗殺、統一教会は統一教会と、両者の関係についての報道は全くない。

なお、自民党議員で多数が統一教会との深い関係があるようだが、その殆どが安倍派とのことだ。暗殺犯人はなかなか鋭い感覚で目標を選んだことになる。また、彼の一撃が、政権与党とオカルト教団との異常な関係をあぶりだしたとも言える。

日本、危うい先進国の座 成長源は雇用・規制改革に

参院選勝利 岸田政権の宿題(2)

 (更新) [有料会員限定]日本が参院選さなかの6日、経済危機に陥ったアルゼンチンをめぐるパリクラブ(主要債権国会議)の会合が急きょ中止になった。返済猶予などの交渉を担ってきたグスマン経済相が2日に辞任を表明し、交渉の相手すらいなくなる混乱劇。国際金融市場でにわかに緊張感が高まった。

果たして、遠い南米の問題なのか。失われる競争力、下がる通貨、膨らむ債務、そしてインフレの影。根っこの課題は今の日本に重なり合う。「市場が債務問題に敏感になれば、日本も無縁でいられない」。通貨当局者の一人は言う。

9年半前、政府と日銀は互いの役目を確認するアコード(政策協定)を結び、日銀は大規模な金融緩和を始めた。政府は金融緩和に伴う低金利と株高に頼り、財政再建や成長戦略は後手に回ってきた。

将来不安や生産性の低さが放置されたまま経済の活力が生まれるわけはない。主要国がそろって金融緩和の修正に動く中、日本だけが金融緩和をやめられない袋小路に迷い込んだ。

金融緩和の副作用

副作用はあらわだ。金利がほとんど付かない円の価値は対ドルで24年ぶりの安さに沈む。ロシアのウクライナ侵攻による資源高と相まって、5月は海外から原油を買うのに1キロリットル8万7603円と1年前の2倍かかった。物価高の悪影響は家計を直撃する。

5月の経常黒字は前年比で9割少ない1284億円。企業の海外からの稼ぎを輸入コスト増加が打ち消し、経常収支は赤字に近い。国全体で資金が不足し、経済・財政運営に制約がかかりかねない経常赤字はすぐそこに見えている。

国際通貨基金(IMF)によると日本の2021年の国内総生産は4兆9374億ドル。円安の影響もあって、大規模緩和前の12年から21%減った。この間、主要7カ国(G7)で縮んだのは日本だけ。2兆7430億ドルの差があった世界4位のドイツが7115億ドル差に迫る。米マーサーの21年の調査で、日本の大企業は部長の年収でシンガポールや米国だけでなくタイやマレーシアに劣る。

低迷する生産性

やるべき一手は「人への投資」を通じた生産性の向上だ。日本生産性本部が経済協力開発機構(OECD)加盟国を対象に調べた就業者1人当たりの労働生産性をみると、日本は20年に28位に甘んじた。00年の20位から順位が落ちた。

反転に向けた宿題は山積みになっている。社会人のリスキリング(学び直し)、デジタルなど成長分野への労働移動、兼業・副業の促進。出し惜しみせず政策を総動員し、活力をもたらせるかが問われる。

呼応する形で、企業にこびりついた新卒一括採用や終身雇用などの旧弊も改めたらどうか。働き手のやる気と能力を重んじる会社が評価され、次の成長につなげる循環を描きたい。医療や介護に代表される岩盤規制も壊したらいい。

安倍晋三元首相の経済政策アベノミクスは雇用を増やし株価を上げた。参院選で勝利した岸田文雄政権の責務は、経済の地力を強める抜本策になる。

財政の拡張を唱える安倍氏の存在を前提に、全体のバランスをとるのが岸田政権の経済運営の基本だった。安倍氏がいなくなり、そのバランスは不安定になり、経済運営のかじ取りはむしろ難しさを増す。

ノーベル賞経済学者クズネッツ氏は「世界には4種類の国がある。先進国、途上国、日本、アルゼンチンだ」という言葉を残した。途上国から先進国になった日本は特別な国。途上国に転落したアルゼンチンもまたまれだ。かつてアルゼンチンがたどったように、日本の先進国の座が危うくなってきた。(江渕智弘)

2022年7月9日土曜日

志水勇の高校時代とそれから・・・

 僕の出身高校は天王寺高校で、同校は大阪府下でも屈指の進学校であった。当時の私学は大学受験に特化していないので、天王寺高校には優秀なのが集まっていたのだ。ところが僕は中学校では全く優秀ではなかった。僕は天王寺中学校に越境で入学したのだが、当時の天王寺中学校は一学年が14クラスもあるような巨大学校で、その一つのクラスの中での僕の定期テスト成績はクラスで10番程度だから、普通に考えれば、天王寺高校に受けることができる成績ではなかった。僕は定期テストで頑張る性格ではなく、それに、定期テストの成績に一喜一憂する性格でもなかった。兄や姉とは年齢が離れていて、両親は小学校卒だから勉強の仕方を教わることもなく、他の多くの学生が、教科書を解説する虎の巻とかを買いその内容を相互に話し合うのを不思議な思いで眺めていた。定期テストもそれほど集中することもなく過ごしていたのだが、1年の後半になり、中学を終えると高校への入学テストがある、と気づいた。そうすると、中学での3年間の勉強が試験に出てくると気づいたときに、その内容は膨大な量になると恐れを感じ、これは何とかせねばならないと思ったのだ。そこで先ず、自宅の藤井寺から阿部野橋までの30分の通学時間を漢字帳の記憶に費やした。しかし帰路は一緒に帰る友達で、北野とか国俊とかが居たので勉強はできなかった。学校での学習では学習帳面の半分、そこに授業中に記載した内容から自分で作った問題を書き、答えは織り込んだ部分に書くようにした。更に、学業ごとに繰り返し学習を、予定を立てて学ぶことにした。
3年になり実力テストが行われるようになると、結果は知らされないのだが、クラス担任以外の先生が授業中に、それとなく、僕の名前を口にするようになった。が僕としては何の話をしているのかと不思議に思った。3年の中ごろに進学校の希望を話し合うことになり、僕は、何の気もなく、天王寺高校です、と言ったら、担任は何の反対もせず、天王寺高校に受験することになった。天王寺高校を受験するのは、クラスでも優秀で毎回の定期テストで1と3番の2人で、それに場違いな僕が加わったことになる。優秀な2番の女子は越境受験を拒み別の高校に行った。なお、実際は、1番から3番の生徒は入れ替わりつつクラスを制していた。僕は彼ら上位集団とは全く関わりない位置にいたわけだ。

ところで、僕は中学で越境していて、天王寺高校では籍を戻すだけで受験できたのだ。話は逸れるが、天王寺中学校と天王寺高校は不思議なことに学区が異なるのだ。

受験当日は中学校に集まり、そこから受験高校に行くのだが、僕はどこで受験するかにも全く関心がなく、優秀な二人とその一人の母親にくっついて受験に行った。幸いなことに高校は家から中学までの中間なので学生定期をそのまま使えたのだ。
どんな試験内容かは記憶がないが、試験には合格した。

最初の授業の日に、なぜか朝寝坊して遅刻してしまい、教室に入ると、担任が、「最初の日に遅刻とは度胸があるなぁ」といったが、気の小さい僕にしては、おそらく我が人生での唯一の遅刻であった。
通学は、自宅のある藤井寺から準急で阿倍野まで行き、鈍行で一駅こぼれぐちまで戻り駅から徒歩で10分と、日々通学したが、ある日、高橋って背丈が僕と同じ程度の男が話しかけてきて友人となった。後に聞くと、背丈が同じ程度なので、その後の様子を観察しようと話し掛けたとのとのことだ。いい加減な話だ。その後、中谷って背の高くひょうろながいのが接近してきて仲間になり、次いで、高橋の知り合いである奥田が仲間になった。しかし奥田は、他に交友グループが多く、演劇部で活躍するなどとかなり活動的で、僕らは、彼の交友グループの一部にしか過ぎないって感じの付き合いで、どちらかと言えば、彼の必要に応じて付き合わされるような関係であった。かような付き合いも、2年になって文系か理系かの組み分けで、僕は就職が簡単だろうと理系を選び、高橋と中谷は文系を選ぶことで別クラスになり、顔を見れば話し合う関係ではあるが共に行動することはなくなってしまった。奥田は理系を選んだが、2組ある理系の他の組になったので、奥田との付き合いも同様な状態になった。ただ昼食時は食堂に行くのでほぼ一緒になるのだが、高橋はいつも掛うどんを注文するので、僕も彼と合わせたが、とても腹が減り、家での夕食は腹いっぱい食べるようになった。高橋は家庭の事情で節約しているのだろうと考えた。修学旅行にも行かないと言うので、僕自身も特に行きたいとは思っていなかったし、高橋に合わせることにして、皆が修学旅行に行った間は、運動場の片隅で2人で時間を過ごした。

そんな付き合いがあるものの、2年生以降の僕らの付き合いはかなり希薄になった。
勉強については、中学校の時に恐怖を感じた以上に大学受験に恐怖を感じた。受験科目が多くなるのと夫々の科目の学習量が高校受験に比べて格段と量が多く質も高いからだ。先ず目標は、世界史が不要な阪大の工学部機械科を選び、中学校とは違って参考書が必要だと本屋で調べて、数学は矢野健太郎の参考書として、物理の高校で学ぶ内容は、要するに運動方程式、運動量保存則、エネルギ保存則だけのことで内容が単純なので教科書のみの学習として、化学は複雑なので参考書の化学精義って本を購入した。英語は単語は豆単の内容を全て覚えることとして、副読本として眠れぬ夏の夜、を自分なりに翻訳し、日本史は教科書の隅から隅まで覚えることにした。2年間で試験範囲の3回は繰り返し勉強することとして予定表を作った。当時TVの放映は夜の十時までだったので、学校から帰れば直ぐに睡眠し、食事時間を挟んで夜の十時まで眠り、それから、3時ころまで勉強して、6時ころには起きて学校に行った。なお夕食は前述のように、昼の小食を補って腹いっぱいに食った。
学校には7時前には着いて、時には門扉がまだしまっていたので、乗り越えて入ることもあった。冬には誰よりも早く着くので、当番の代わりにストーブを燃やした。毎朝、その日の当番が用務員の所に石炭を取りに行くのだが、僕が勝手当番で石炭を取りに行ったある日、用務員が[あんたのクラスは昨日ストーブの後始末ができていない」とグズグズと文句を言い出したので、僕は無視して石炭を放ったらかしで教室に戻り、当日の当番は、登校してからストーブが燃えていないので石炭を取りに行き、かなり叱られたと帰ってきてから愚痴った。

ところで、勉強ばかりだと体力が落ちると、毎日、我が家の勝手口の高い門梁で懸垂をやり続けたので、筋肉が盛り上がり腹筋には割れ目ができた。僕の体力はこの行動で一生分を作れたようだ。

1年生の定期テストの成績は、学年の最後尾近かったが、これを続けることで、定期テストも若干は改善を始めたが、余り変わりはなかった。が、3年に入っての実力テストでは60番程度になり、貼りだされる100人の氏名リストの中に入った。しかし、皆も頑張りだしたのか、2回目は貼り出された順位表の最後尾、つまり100番になり、たまたま居合わせた高橋に笑われた。しかし、秋の全国模試では、結果掲載紙に僕の名前も載った。12月には勉強予定の全てを終えたせいか、最終実力テストでは、科目ごとに返却される点数を加えてゆくと、早々と700点になり、今回はそんなに簡単だったのかと、運動場で出会った小学校時に同級だった特別秀才の岡明人に尋ねた。しかし、岡明人でも700点を超えていないとのことで、結果に期待したが、上位常連の中野光子に次いで2番となった。しかし、なぜか僕が2番になったことを誰も話題にする様子はなかった。ところで、岡明人は1浪で東大に入り、その後、朝日新聞で科学担当で宇宙関係の翻訳本をだしたりしている。彼と小学校で同級だったことが僕の自慢だ。ところで、中野光子は小柄で可愛い子で京大の化学科に進んだと思う。なお同学年では女子が優秀で、中野と、確か、中野とは違って親分肌の多田女史が上位常連だった。

同じころに鉄棒での懸垂テストがあり32回を記録して、筋肉の塊の俵って男に次いで校内2番となった。これも誰も話題にすることはなく、ただ昼休み出会った高橋が、ゴマ化したのじゃないかと言うので、鉄棒の所に行って、28回を懸垂したがあとが続かず残り4回は勘弁してもらった。
1月からは、日常生活を通常に戻して、ほとんど勉強もせずに毎日を過ごした。余りにのんびりと過ごしているので、兄の嫁さんは彼女の家族に、勇さんは絶対に入試は滑るわ、と話していたそうだ。
入試は化学での失敗があり、結果発表までは、くよくよと過ごしたが、予想に反して入試発表の掲示板には僕の番号があり一旦は家に帰ったが、本当に間違いなかったのだろうかと、再度、淀屋橋の大学掲示板を確認に行った。
高橋は大阪市立大学の経営学科、奥田は同大学の理学部、中谷は京都産業大学、にとそれぞれ進学した。ごくまれに連絡することはあったが、ほぼ無連絡で大学を過ごし、それぞれがそれぞれの道をたどった。ただ、1年の夏休みに紀伊半島を小学校や寺で眠らせてもらって一周して、この旅行記を万葉集解説で有名な犬養先生に提出した(これで単位をくれた)が、それを聞いた中谷も、翌年に自転車で紀伊半島を一周した。後述するように、最近中谷に会ったが、その時に、その時泊めてもらった寺にお礼に行くと言っていた。割り切りが得意な中谷にしては律儀な話である。

僕は、特にやりたいことも無いので大学院に入り、それから、くそ住重に就職した。くそ住重の貧弱で不公平な人事評価システムのため出世はできなかったが、ただ仕事としては、自分で何でもできるセクションであったことが性格にあっていたし、誰にも負けない成果を挙げ続けたと思う。

高橋は商社の蝶理に就職し、中谷はインテリア会社に就職したが、1年ほどでやめて、陶器つくりの道に入り、子弟システムの中で勉強して、その後、海外青年協力隊でエルサルバドルに行き、それから、世界中をうろつき、最後にブラジルで相方を見つけて定住した。広い土地を買い、のぼりがまを作り、家や展示場も自分で造るなどがんばっていた。中谷はなぜか割り切りが早く、自分の目的とすることから外れていると判断するとさっと方向を変えるタイプで、僕はその点では失敗したなと思っている。しかし、割り切りが早くて失敗する可能性も高いから、一般的にはいずれが正しいとも言えないだろう。高橋はどちらかと言えば僕に似ているが、社会では、特に今のサラリーマン社会では僕のように長期的な目的を大切にする者は必要とされないようで、その点では高橋の方が社員生活は性格に合うようで、しかも、環境的には恵まれていて、引退時には退職金条件も大幅に良好で、聞いてみると、退職後の年金金額も彼の方がかなり多く、「くそ住重に企業年金がないはずはない」と、僕の言うことを信じられないようだった。そんな高橋に、「くそ住重では、退職優待金もないどころか、肩を叩いたのに本人が知らない間に、自己都合で退職させられていた」、等とは恥ずかしくて言えなかった。が、よく考えると、誰にも負けないほどに利益を上げ続けた僕には何ら恥じることはなく、恥じるべきは、くそ住重(くそ住友重機械)の方だと気づいた。まともな人事評価システムもなく、肩叩き退職を自己都合退職に捏造して、早期退職優遇もなく、おまけに、企業年金もない。歴代の社長は実務能力はなく、それ故に、作業改善手法にのみのめり込んでいる。そこで、くそ住重のことは大声(太文字)で言うことにした。

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ところで奥田だが、物理学の博士課程まで行き、電気工業大学での教職に就き、それに本人も言うように、人の心の機微を知り理屈も立ち、人生を謳歌していたようだが、詳しいことは知らない。ただ、僕が大阪で務めているときには、2~3年に一度程度は電話が掛かってきて、葛城山に昼寝に行こうとか、玉手山の遺跡を見に行こうとか、貴志山の地下道散歩に行こうとか、訳の分からん申し出があり、僕はついて行った。

さて人生も最終局面になった3月ごろにブラジルの中谷からメールがあり、心臓の頻脈を抑えるカテーテル手術に日本を訪れるとのことで、帰国時の平野区役所での手続きを調べてほしいとのメールがきた。一年ほど前に、中谷のライフワークの陶芸類を厚い本にまとめたのを送ってくれたし、その前には、ブラジル産プロポリスを大量に送ってくれたし、これは良い恩返しだと、早速、平野区役所に電話して詳しく聞いた。中谷が海外青年協力隊で現地に居ついた、と最初に言ったのも効いて、丁寧に教えてくれた。中谷のように日本国籍があれば、住民届を区役所に登録すれば、すぐに、健康保険証(中谷の場合は後期高齢者)発行手続きが始まり、保険証が届く以前には、発行申請書で病院を受けることができるとのことで、昨年の年収は0として治療費の上限は決まるとのことだ、と大阪市での上限額も聞き、中谷に返信した。中谷からはコロナで手続きが掛かり8月ごろになるだろうとの連絡がきた。
それならば、大阪で会えるだろうと、その前に大阪の拠点を整理しておこうと4月7日から14日を大阪で過ごし、除草と、ついでに壁の塗り替えを終えた。
ところで中谷の症状は、頻脈を抑えるためにペースメーカーを埋め込み、投薬も行っているが、特に投薬効果が衰えてゆくので、心臓の頻脈発信部をカテーテルで焼却する手術で、殆どの治療が無料のブラジルでは、この手術は国民医療保険の対象とならず、べらぼうな費用が必要とのことで、日本なら、国民健康保険の上限額で済ませ得るのだ。
4月末になり状況確認をメールしたら、2日後には出発して4月末に着く、実家が今は空き家になっているので、そこに滞在するとの連絡がきて驚いた。
日本に着いてから電話連絡があり、日本に着いたが1週間はコロナで自宅待機だと言う。大阪では北大阪医療センターに行く、と言うので、医療センタだと紹介で無いと受診できないと伝えたものの、一週間後には連休に入ってしまい、保険証の発行が遅れるなと心配になった。
一週間後に連絡があり、医療センタに行ったが、やはり紹介が必要だとのことで、帰り道を歩いているときに偶々通りがかった医院が紹介してくれることになったことや、平野区役所での保険証発行手続きも終えたとのことだった。運のよい奴だ。

その後連絡があり、6月9日に入院し、6月10日手術の予定とのことであった。そこで手術前に会おうと、5月19日から大阪拠点に行くことにした。

何十年ぶりかで会うので、一週間を予定していった。僕の大阪拠点で会うことにして僕が大阪に着いた翌日5月20日に中谷が大阪拠点にやってきた。初日はあれこれと昔話に興じ、二日目は枚方の古い街並みを見て回った。ただ彼は手術前で、コロナにかかることも恐ろしく、それ以上に外出することは控えた。僕としては、何をするでもなく一緒におれば良いと思うのだが、割り切りの早い中谷は、一緒に居ることの限界というか、もっと別の経験が必要だと思うのか、彼の実家に帰ると言い出した。止めても聞かないだろうとあきらめて送り出し、僕の予定の一週間の残りは、拠点の整備に費やした。
その後、中谷は6月10日には手術して、翌日には無事退院した。ブラジルへの帰国は8月10日だと言うので、帰国前に再度会うことにして、高橋にも声を掛けることにした。僕の都合で、7月2日から一週間を予定したが、高橋は都合で2日から4日までとなった。中谷と連絡すると、やはり2日程度と言う。どうやら、陶芸仲間とか陶芸地を訪問することを予定に入れているようだった。梅雨明けが例年より早く予想外に暑くなると思えたが、その2日間はたまたま曇りと小雨で過ごしやすかった。いつものように東海道昼間バスで往復したが、はじめはバス旅行も楽しいと言っていた高橋は、バスの中で酒缶とかビール缶を間断無く飲み続け、これはアル中だと思えた。しかも、旅の終わりごろには、「住重たる財閥にも務めた志水が、なぜバスなんかを使うのか?」と彼としての本音が飛び出した。
2日目には中谷も来て、3人で回顧話に耽った。それで初めて知ったのだが、二人は、天高が嫌で嫌でたまらなかったらしい。特に高橋は特に嫌だったらしく、大学に入り心底ほっとしたとのことで、会社に入ると更に楽しかったと言う。話を聞くと、どうやら、二人は、定期テスト型性格で、その時その時に力を注力するするタイプで、僕のような実力テスト型人間ではなかったようだ。
2日目は、高橋は大阪市内をぶらつきたいと単独行動で、僕と中谷は宇治の平等院に出掛けた。翌日には、ふたりはさっさと帰ってしまい、僕はまた一人で、拠点の整備作業を終えて千葉に帰った。この姿勢もまた、定期テスト型人間と実力テスト型人間の違いだろうと思った。
なお中谷に、新幹線の1/4の費用でゆける高速バスといずれを選ぶ?と聞くと、中谷は、そりゃバスだろ、と答えたので、高橋のバス旅行に対する意見は、新幹線に慣れたサラリーマン風の感覚なのだろう。
恐らく、3人で会うのは、人生で最後の機会だなと思う。
ところで、天高の最終実力テストで1番だった中野光子については、中谷によると中学で同級生で、家は薬局を営んでいて、中谷が腎臓病を疑われたときに、薬を段取りしてくれたらしい。また高橋によれば、「いや、中野は東大医学部に行った」と言い、僕の記憶との差異があった。なお、僕もまた中学校で腎臓病を疑われ、夏休みの特別授業を家で過ごした記憶があり、それは、思春期の排出物のせいではないかと話し合った。そういえば、中野光子も腎臓病との噂があったなとも話し合った。
7月半ばになり、中谷から電話があり、帰国を早くしようかと計画したが、航空便が満席で、結局は8月10日頃になる。また会うかと聞いてきた。が、割り切りの中谷は、どうせ2日程度しか居ないだろうし、夏の盛りで、しかも急増するコロナ禍では、外をうろつくことも出来ないだろうと、その要請は受けなかった。
なお、最後の出会いであろうと、中谷の希望で数冊の本と、陶芸に必要なmgを測れる質量計を中谷に提供した。

天王寺高校同期の関東在住者の幹事をしている西野Tさんによると、上記の中野光子さんの名前はひらがなで「みつ子」、筑波在住、科学技術庁の研究所にいて、東大は工学部で、東京の同期会にはよく参加しているとのことで、また、多田宏子さんは、京大の理学部物理学科。名古屋で大学の教授をしていた、とのことであった。また西野氏は京大の数学科らしく、おそらく、天高の実力テスト上位の常連であったのだろうと思える。残念ながら僕は男子学生のことには思いが至らなかったようだ。そう言えば、難波って名前がよく成績順位表の上位にでていた記憶がある。
なお、京大 数学 西野 で検索するとこれが出た。能ある鷹は爪を隠すですな。
https://www.math.kyoto-u.ac.jp/alumni/bulletin1/ueda.pdf

なお中谷は、8月14日にブラジルへの帰国の途に就いた。運のよいことに、13日に台風で日本の交通路は乱れたが、14日は台風は去り平穏で、無事にブラジルに着いたことと想定する。また、その後連絡もあった。


2022年4月15日金曜日

2022年(令和4年)の畑

 4月7日から4月14日まで大阪の家のメンテに行っていたので、その間に、ホウレンソウは殆ど枯れてしまった。ホウレンソウは寒さや乾燥に弱いのだ。仕方がない。冷蔵庫での芽出しからも再スタートだ。
4月15日に農業会館で苗が売っていないかと行ったら、ピーマンとキューリの苗が、一株88円で売っていた。ピーマン6株、キューリ4株(合計880円)で購入した。昨年はもっと大きな苗が一株60円であったが、それを待てば、ひょっとすると買い遅れる可能性もある。

14日からまた寒くなったので、段ボールに入れてカバーをして、さらに、エヤコンの下で20℃温風を浴びせている。15日は日差しがあったので、15日に買った分も同様にして、屋外に置いた。

翌日4月15日に再度農業会館に行くと、88円苗の、ナス、ミニトマトが売っていた。60円苗を待ち買いそびれるのがこわいので、ナス6株、ミニトマト2株を購入した。(合計704円)
14日購入分と合わせT、1584円だ。

さて、購入したものの、植付には早すぎるし苗も小さ過ぎる気がする。暖かい日に、、大きなカップに植え替えて、夜は保温しながら大きくなるのを待つ積りだ。
4月16日は、午前中は日差しも暖かく、全ての株を大きめのポットに移し替えて、夜に備えてカバーも充分に施した。

4月22,23,24日で、苗植えを終えた。ミニトマトを除き、根切を施し、出来るだけ網カバーを施した。キューリの一個が元気をなくしたが、草木灰を施すと不思議なほどに元気を回復する。24日夜には小雨が降り、大方の作物は元気だ。
24日には、ナガナス、しゃきっとキューリ、ピーマンのポット播種を終えた。ピーマン以外は光が苦手なようだ。
本来なら、植付も播種ももう少し後なのだが、今年は温暖化効果が出ていると思える。オクラは梅雨前がベストだったと思うが、早めの播種を試してみようとも思うが、畑に余裕が出来るのを予測しなければならない。先ずはグリンピースがいつ終わるかだ。

道路側1列目
タマネギ、ニンジン、ブロッコリー4株、キャベツできそこない、つるいんげん、ミニトマト
と、前にツルナシインゲン、


1列目のミニトマト2株+つるインゲンで、前に、つるなしインゲン列、その向こうが人参


1列目のニンジン部分

道路から2列目 できそこないキャベツと玉ねぎ

タマネギ、ニンジン、キューリ1株、イチゴ



鳥よけ網のイチゴ

道路から3列目 ジャガイミ、キューリ3株、ウスイのエンドウ

ジャガイモ列の真ん中に、キューリ3株



道路から4列目 手前葱のあと地 と スナップエンドウ


スナップエンドウの向こうは、ナス6株とピーマン6株

ピーマンの網掛の向こうは、ニンニク 収穫あと地と収穫前

ニンニクの向こうは、網掛ホウレンソウ

2列目 弱弱しいキューリとホウレンソウ

4月末の嵐で、グリンピースが痛んだ。横棒がずれることと、密集植をしていないことがまずかった。
ポット播種は、キューリが2本芽生えたがそれ以外は全滅だった。やはり早すぎるようだ。
ナスの種は再購入したが、ピーマンの種はダイソーにはなかった。

2022年3月1日火曜日

房室ブロック 救急車で済生会習志野病院に運ばれた。

 2月15日(火)と翌日に、AmazonPrimeStudent で無料ビデオを朝の3時まで見続けて、15日には自転車で思いっきり図書館に予約本を取りに往復し、夜はまたビデオ鑑賞で3時までおきていて、16日には、午前中いっぱい農作業をした。疲れることもなく、家に帰り、コタツに座った途端に、ぐらりと倒れてしまった。そのまま眩暈と貧血で立てなくなってしまった。体温に異常なく咳も無い。コロナではないなと思いながら、大きく息を吸うが、立てる力がでない。めまいがして貧血状態だ。食欲も全くない。おかゆを少なめの一碗食べるのがせいぜいだ。食欲が無いのと体を立てることができないのだ。その日は風呂に漸く入り、寝床についた。
17日、18日、19日と全く回復しない。風呂に入る気力もなく、めまいと貧血で布団を上げることさえ出来ない。
腹式呼吸をすると、若干気分が良くなることを発見して、NETを調べると、特発性間質性肺炎が最も該当するようだ。ひょっとすると肺がんだろうか。常々、マスクの中にメタノール水溶液の消毒不織布を使ったのがまずかったかと、NETで見ると、メタノールは発がん性が高いらしい。とんでもなく危ないことをしていたのだろうか。それに、長期間パソコンにへばりついて胸を圧迫しつづけたのもまずかったか、等とくよくよと考えた。
20日(日)になり、病院に行くにも体力がなく、救急車を呼ぶより仕方ないかな等と話していたが、腹式呼吸で若干症状が改善するので、もう少し様子を見ようと考えた。が、午後になり2階に上がったが、降りてくるのも眩暈がして、これは駄目だと、119番に自分で電話した。症状を話し、病院には近いのでサイレンは不要ですと言ったが、救急車はサイレンを鳴らすことが義務付けられてると断られた。
救急車が着いて、僕は自力で搭乗してベッドに横になった。女房も同乗した。救急隊員は血圧を測定したが、異常はなく、脈拍が低すぎるとの見解であった。若い時に激しい運動をしたので心臓が大きく、脈拍が低いのでしょうか、等と話したが、脈拍40では低すぎるとの答えであった。救急隊員は受け入れてくれる病院を電話で探したが、八千代医療センターも徳洲会、島田台も駄目だとのことで、余り遠いのは困るから、いったん救急車を降りて自宅に戻ると言うと、戻りたいのを拒否できないが、脈拍が低いのが心配だと言う。更に病院を探して、済生会習志野は受け入れるとのことで、場所は京成大久保の近くだと言うので、僕としては土地勘もある。それなら余り遠くでもないと了解し、救急車は発車した。
到着して救急口から大勢で受け入れてくれた。直ぐに血液採取と心電図を測るとのことなので、長袖の下着を脱ぎ、下は全て脱衣するようにと指示された。
心電図を取ると、直ぐに担当医が、「房室遮断です」と言い、心臓の説明を始めた。「心臓は、上側の心房2個と、下側の心室2個で構成されているが、心房からの心室への信号がブロックされている。貴方の場合、信号の2/3~1/2しか伝送されない。ペースメーカーを入れるのがベストでしょう」とのことであった。
そのまま、救急エリアの部屋に運ばれ、尿管を差込まれ(死ぬほど痛い)、点滴を受けたが、エヤコンがゴーゴーとなる騒々しい部屋であった。ただ点滴で体はかなり楽になったので案外眠れた。隣のベッドの、超高齢の婆さんが、水ちょうだい!水ちょうだい、と繰り返していたが、その幼い口調に噴出してしまった。眠りの邪魔には全くならなかった。
翌日月曜日、救急で対応した循環器科の竹田先生が来て、再度、病状についての説明があった、手術後一週間の入院が必要だと言う。手術しないと症状が変わりそうにないので、急いで手術して欲しいと言うと、では、午後に遣りましょうとなった。後で判ったが、この竹田先生って年がら年中、病院にへばりついているような先生と思えた。
月曜は女房の都内でのハイパーサーミヤ治療で、火曜は徳洲会北習志野での点滴治療だが、先週末に都内での治療はキャンセルした。点滴治療はキャンセルしてはならないので、女房だけで行かせることにした。女房一人で車で行くことは可能だが、受診手続き・手順・予約設定とかの細々が不安だ。自分のことより、それが心配でたまらなかった。
手術後一週間入院だと、次の月曜日のハイパーサーミヤにも同行できないことになる。それはまずいので、術後の経過を見て先生と相談することにした。
点滴のおかげで、久しぶりに充分に眠れた。しかし、身に着けるのはパンツと前が閉じられない手術着上衣だけだ。そこまで疲れていると騒々しいクーラー音も気にならないほどに疲れていたのだ。
手術室に運ばれ、麻酔は肩甲骨辺りの局所麻酔で、ペースメーカーを入れる部分を一生懸命に掘っていた。その後、リード線を静脈に入れて先端を心臓の適所近辺に入れて行った。その後は、リード線先端の位置決めで、あっちこっち移動してはその位置に信号電流を流し、心臓の動きを確かめていた。まるで電気工事士の配線作業であった。なかなか最適反応が得られず、結局は、適度の位置を選択したようだ。
かくして切開口が縫い合わされ、僕は7階病棟の755号4人部屋に運ばれた。肩は緊迫布で巻かれ、特に左手はがっちりと縛られている。その状態で夕食だが、まだ麻酔が効いているせいか久しぶりに夕食を完食できた。
食後、横になったが、麻酔が覚め始めて痛みが出てきた。眠りに入れたのだが、痛みはいよいよ激しくなり、夢の中でうなり声を挙げながら、しかも、重い荷物を左肩に背負いながら、長い螺旋階段をよいしょよいしょと上がってゆく夢が延々と続いた。
手元に携帯を置いていたので、家に連絡すると女房が出てきた。持ってきてほしい品物を言い、病院の位置を教えようとするが、女房は拒否反応である。普段に地図の見方を教えておくべきであった。それを何とか説得して納得させた。その後、うとうととしている間に女房は何とか病院に着いたらしい。女房が荷物を持ってきたらしく、見える棚には袋入りの私品が納められている。しかし、そこに行くだけの気力はない。余りに痛いのだ。
僕のベッド上での状態は、前をはだけた手術着の上衣、と、5日間ほど履きっぱなしのパンツだから、ほぼ裸状態で、尿管と点滴管をぶらさげている。点滴は可動支柱に取り付けられているが、尿袋はベッドに括り付けられているから動きようがない。荷物袋に何が入っているかを確認するには、移動できるようにならねばならない。尿管を外せば移動できるだろうと看護婦さんに頼んだが、人手不足のせいか、若しくは先生の指示なく決定できないせいか、誰も外そうとはしない。そこで、尿袋を注意深くベッドから外して点滴支柱の下部のほうのハンガーに取り付けた。下部ハンガーの位置を尿袋としての機能を失わないように高さも調整した。これで漸くベッドから抜け出て、我が荷物の内容を調べることができた。
荷物の中にスマホ充電器を見つけてほっとした。自分の下着、寝巻と、貸寝巻も見付けたが、尿管が邪魔して履き替えができない。半裸状態を抜け出すには下着や寝巻パンツをはかねばならない。つまり、尿管を抜くことが必須条件だ。
竹田先生の回診があり、尿管を抜くように頼んだ。更に、女房のハイパーサーミア治療で月曜日に都内に行くので、金曜日には退院したい、と主張した。「あなたの場合、何を最優先するかですね」と言うので、「女房が最優先です」と答えると、「貴方の生死にかかわりますよ」と言うので、「それでも、女房を優先します」と答えた。だが、先生は引き下がらない。「両方を成り立たせるには、ハイパーサーミアの日程を1日遅らせれば良いだけです」と言う。これには反論できず、ハイパーサーミアのクリニックと連絡します、と答えた。
医新クリニックと連絡しようとしたが、楽天スマホでは接続できない。試したが、接続出来る時が少ないのだ。これでは確実な日程変更ができない、と焦った。(後で気づいたが、病院のWIFIに接続して、楽天リンクで電話すればよかったのだ)
医新クリニックは、神田の岩本町にあり、東葉線から東西線直通で、日本橋で銀座線に乗換て、二つ目の神田で降りて、徒歩15分程度だが、問題は、乗換通路や最適な地点への地上への通路だ。出口をちょっと間違うと自分の位置を見失ってしまう。現役時代に僕も東京の地下鉄では何度も経験した出来事で、女房にはその際のリカバリーが難しくパニックになるだろう、と心配だ。
そこで日本橋、神田での丁寧な駅の地図と、通路の地図を書くことにして、紙がないので、先生の治療説明書の裏を使った。蛍光塗料は看護士待機所に借りに行った。天皇誕生日で休日なのに、看護士待機所には大勢の看護士らしきメンバーがいたが、夜に入り解散する直前のようで、なんとなく見知らぬメンバーばかりであった。以下に記載するように、患者が急死したことへの対応なのだろうかと思った。
僕のベッドは、755室の通路側で、窓側の2つのベッドは、21日(月)に二人とも退院していった。退院にしては二人とも元気がなさそうで、彼等の退院後、彼等のベッド周辺の家具類も新品と取り換える等大げさな部屋替えで、それが終わると2人の新人が入院してきた。カーテンで仕切られてこれらの状況は耳で聞く限りだが、1人の奥さんが、業者に「この御恩は一生忘れません」と言っていた、これらから判断するに、彼等は保険適応の養護施設に入れず、病院を一か月ごとに移動する方策を取っていて、それを斡旋する業者が居るものと思えた。そうして、退院した2人は、別の病院に移ったものと思われる。
しかし、奥さんが感謝していた方の患者は、天皇誕生日の夕に容態が急に悪化して、どうやら酷い下痢に見舞われ、夜には、755室トイレで看護士が彼の下の世話と体の清掃をやっていて、つまり、重病である筈の彼を、とても清潔ではあるもののトイレの土間に横たえて体を洗うってことは、既に亡くなっていると思えたが、そのご、医者や看護婦・看護士が忙しく立ち働いていたが、そのままベッドに置かれたままで、周囲が静まった夜に、ベッドごとどこかに運び出されて戻ることはなかった。
自分が丸太状態になった場合の末路を見るようで悲しかった。
なお、23日には竹田先生の指示か、男の看護士さんが来て、尿管を外してくれたので、行動はいよいよ自由になった。
2月24日になり、下着の不足もあり(実際は十分にあったが気付かなかった)女房に来るようにと電話で頼もうとしたが、携帯の音が小さい小さいと怒鳴られまくった。彼女の携帯操作をすれば調整できるのだが、僕にどなりまくるわけだ。とにかく来るようにと言ったが、道を忘れたと言う。娘にカーナビセット頼めと連絡した。
午後になり、女房が来たので、作った地図を手渡し、携帯の音量調整法も教えた。面会はコロナの関係で厳しいので、病棟受付を通さず、待合室前のエレベータ付近で待ち構えて待合室で打ち合わせた。カーナビセットは娘は出勤だったので、お隣の春田さんの息子さんがしてくれたと言っていて、道も、大体判ったと言う。聞くと、確かに判り易い道だ。
神田への地下通路地図を手渡したものの、余り理解できていないようなので心配が募った。
ついでに22日の徳洲会での治療を聞くと、点滴療法は無かったと言う。血液・採尿検査後の診断で、足の方が問題だと内科に回されたと言う。
退院してから領収書を調べたら、確かに、点滴治療は抜けていて、足回りの超音波テストが入っている。なぜ、点滴療法が抜けたのかと、同行できなかったことが残念でならない。
医新クリニックのハイパーサミア治療の日程をいかに調整すべきかと考えていたが、突然ある考えが沸いた、つまり、女房は日本橋までは確実に行けるから、日本橋で地上に出てタクシーを使えば、僕が居なくても混乱なく行けると気づいた。そこで、日曜日に女房に面会に来させて、その段取りとか医新クリニックの住所などを教えようと電話したが、「病院では玄関で入館を禁じられる」と女房が来院を渋った。電話を切り、受付の看護士さんに聞くと、休日は救急口から入館できて、7階の受付まで来られます。面会は原則としては午後2時からです、と言う。実際には午前中でも待合室に家族が来ている。それに女房にしても、一昨日には僕の面会できているのだ。病院入り口で入館を断られる筈がないのだ。どうやら女房は、2年前に僕の鼠径ヘルニヤ手術の時のことが突然蘇ったようだ。当時は確かにコロナ対応が極めて厳しかったのだ。
再度電話して、今は以前よりずっと緩和していると、看護婦さんの言葉をそのまま伝えて、日曜日の面会をなんとか納得させた。
もうその頃は、下着もちゃんと着け、貸付寝着を上を二枚重ねで、下に、遠隔心電機を納めてまぁまぁきっちりとした服装で、主に、ベッドは薄暗くて病人ぽい(病人そのものだが)ので、8階の図書館で本を読みながら過ごしていた。
眩暈も貧血も全くなく、血圧は、朝夕は、100/60程度で、昼間は、120/60程度と実に理想的で、脈拍はきっちり60であった。以前の血圧が125~135、で起き抜けにはしばしば、140代であったこととの相関性が理解できなかった。血圧の高いのは血管が硬化することが主因とすれば、なぜ妥当な脈拍で血圧が低く収まるのかが理解できないのだ。
まぁ、とにかく、状態は良くなったようで、タオル絞り法などの血圧対策は不要になったってことだ。入院して運動もせず、血圧状態が改善するとは変な話だ。
女房の病院への道も覚えやすかったようで、簡単に着き、神田医新の住所を書き渡し、混乱したら地上に出てタクシーを使うようにと強調した。これで迷子になることは無いだろうと、ほぼ安心した。
28日(月)退院日となり、朝から荷物の整理を始めた。9時半になり、竹田先生とペースメーカ社員とで、僕のペースメーカーのチェックを行い、機器説明書とか証明書が渡され、3月18日に退院後外来診察と言い渡された。看護婦が来て、請求書が渡されて1階に行き支払いを終えた、支払金額は、後期高齢者家庭で入院時の限度額、56700円であった。
支払を終えて、外に出るととても穏やかで温かい日差しであった。久しぶりの歩行で直ぐに疲れを感じたが、家に帰っても女房は神田医新クリニックに行っているのだから、急ぐ必要は無いと、電車で還ることにして、ゆっくりと京成大久保駅に向かった。大久保から勝田台に出て、東葉高速電鉄の勝田台駅に向かった。駅に着いて、列車の発車時刻を見ると、11時17分であった。

あれ、どこかで聞いたような列車時刻だな、と考えると、なんと!どうやら、いつも僕と女房が神田医新クリニックに向かう時の列車らしい。そこで、僕はいつも乗るドアーの所で待ち構えることにした。一緒に神田に向かえば良いのだと、考えた。列車が最寄り駅で速度を緩めて、いつものドアーの向こうに女房の姿を見つけて、僕は、心底ほっとした。

翌々日の3月3日には、目出ししておいたジャガイモを植え付けた。3kgものじゃがいもを植付けるのは初めてのことだった。
それにしても、と思う。僕の場合、房室ブロックがより厳しかったら簡単に死んでいたであろう。気絶してそれで終わりだろう。そう言えば、若い時に、水処理SJEの大学後輩が、夜遅く帰路の大阪地下鉄駅の椅子で死んでいるのが発見されたし、同期の石原は、息子に仕事を譲って直ぐに南洋のどこかの島で潜水を習っている間に死んでしまった。たった一つの信号線の不調でも人は容易に死ぬのだなと実感した。
他方、かようにグタッと一瞬でくたばるのも良いかもしれない。今まで普通に生活していて、突然、肩の重みそのものが耐えがたいほどに重く感じて、体が崩れてしまうのだ。そこで鼓動が40回/分程度で収まれば、つまり、房室からの信号の2/3が伝達されるのなら、細々と命をつなげるが、それ以下にまで低下するなら一瞬で死んでしまうわけだ。恐ろしいような嬉しいような、いずれに表現すればよいのだろう。