2013年4月21日日曜日

ブラジルの友人がプロポリスを沢山送ってくれた!

友人は天王寺高校で一年の時に同じクラスだった。
彼は京都繊維大学を卒業後、九州の陶芸師に師事し、その後、陶芸の腕を持って海外青年協力隊で中米、次いでブラジルに行き、そこに定住した。
彼が日本に帰ってきた時には、我が家に泊まったり、その後、娘さんも我が家に来たことがあり、その際には、手土産としてプロポリスを持って来てくれた。
ところが、僕の方は、健康的に殆ど問題が無く、折角持ってきてくれた土産も、棚に入れたままになっていた。それから何年も何年も経ち、それらの有効期限がとっくに過ぎた頃に、歯の調子がすごぶる悪い時、それも、歯が次々と抜けるようになった頃に、娘が、口内炎にプロポリスが良いと使いだし、僕にも、歯の治療に使ったら?と薦めた。あまり期待することもなく使ったところ、それに、ちょうど歯には丁寧な歯磨、それも力任せの磨きでなく、柔らかく磨き、歯間ブラシも使った丁寧な磨きが良いと知った頃で、これと、有効期限過ぎの、そのプロポリスを併用すると、歯の調子がとても良くなることに気付いた。毎日、ごく僅かしか使わないが、それでも無くなって行くので、プロポリスが切れると、NETで購入して使い続けている。
僕の場合、歯医者での歯石取り治療の結果として、歯根が下がり、奥歯の一本の歯根が浮き上がり歯根に洞窟のようなくぼみが出来ている。ここに食滓が詰まり、虫歯になる恐れが生じた。そこで、僅かの綿にプロポリスを含ませて、これを窪みにいれて、外から、クッションコレクトを栓として詰める。これらの作業も丁寧に爪楊枝を使って毎日欠かさずに繰り返している。すると、プロポリスもここからにじみ出て口内全体を消毒する効果もあるのでは、と思えた。かようにして毎日、綿を入れ替えているのだが、僕の場合、これをすることで、歯の損失は極めて少なくなった。最近、食道や大腸のカメラ検査で全く異常が無いことも、プロポリスの効果ではないかとさえ思っている。

そのような使い方なので、プロポリスの使用量はごくわずかで、数か月に30ml瓶一個程度の使用量で、一本4000円程度と高価だが、コストパーフォーマンスとしては実に優れたものだと考えていた。

それと、かような素晴らしいものを、それとは知らず持参してくれた友人に実に感謝を感じ、ブラジルの友人への今年の年賀状で、何気なく、とても遅くなったのだが、持参してくれたプリポリスのことを感謝していることを記載した。同時に、年老いることで、プロポリスの効用を感じることができたようになったのだ、とも記載した。

本日、ブラジルからの小包が届き、何事かと開けてみると、なんと10本のプロポリスが入っていた。それは、その友人からの贈り物であり、彼の手紙が添付されていて、彼の体調のことが書かれていた。お互いに、あちこちにガタがきているが、まだ死の入口は見えないなぁ、とも書かれていた。
僕の年賀状には、日本では、かなり高価だが、簡単に手に入ることまでは書いていなかったので、心配して送ってくれたのであろう。なんとも、気づかいの行き届いた男である、と感心してしまった。

さて、彼への返礼に、何が望ましいのであろうか、と考え込んでいる。

ところで、プロポリスの歯に対する効果だが、他の友人にも「歯の調子が悪い」と言う人がいるが、プロポリスを薦めて良いのか悪いのか、僕の場合は体に合っているが、他の人にはどうかについては自信がない。ひょっとすると、悪い結果になる可能性もある。そのため、人に簡単にすすめることは出来ないと考え、プロポリスのことは誰にも言っていない。さて、他の人には、プロポリスの効果はどうなんでしょう。

それはともかく、僕には一生分のプロポリスの準備が出来てしまったようだ。
ただ、プロポリスは全能ではなくて、歯周病のために歯は日々痛んでゆくから、いずれ歯は無くなる。その時にはプロポリスは無用になってしまいます。

ダージリンで100gパック(600円)のTEAを買ってきた。6袋をダンボールに詰めて、海外郵便小包を調べると、航空便ではあるが、時間がかかるエコノミー航空便(SAL便)と言うのがあった。到着確認を入れて2000円程度とあったので郵便局に持って行くと、5000円だと言う。で、2000円程度のがNETに出ていた、と言うと、ああ、小型放送品ですね、と答えた。これだと、受取確認を入れて、1570円であった。5000円でOKって言わなくてよかったよ、まったく。
とにかく、女房たちが試飲しているので、なかなか良いTEAの筈で、これを友人に送れて良かった。

さて、5月末に発送したのですが、6月末になっても追跡システムで見ると、サンパウロ国際荷受所から先には進まない。郵便局に問い合わせると、自分で友人に問い合わせてくれ、との事だった。そこでAIR-MAILで問い合わせたが、その返事か来る前に、プロポリスの謝礼MAILが返送されてきた。どうやら住所がおかしいらしい、と古い手紙を調べまくって、電話番号を調べた。海外電話については過去にいろいろと苦労したことがあったので出来るだけしたくなかったのだ。が、今の電話システムは凄いものだ。何の遅滞もなく繋がって、彼の息子が電話口に出た。父親は出かけているが、紅茶包装、それに、着荷の問い合わせMAILは着いていた。と言うことで、全てはうまく運んだことになる。よかった、よかった。

2013年4月15日月曜日

屋根塗装(2)とベランダアンテナ

いよいよ開始した。
勾配30度の屋根の上の作業って、実はとてもこわかったです。夢に見るほどでした。が、実際にやり、そうして、慣れると、きっちりと考えながら行動すれば大丈夫ってことが判りました。つまり、買った作業靴には30度では滑らない性能があるので、平地で作業するのと大差なく、ただ床面が5~6m高くなっただけですから、足を踏み外さなければ問題は無いってことです。
今では常に、次の作業でロープの方向は正しく維持されるか、ロープがずれることはないか、利き腕を十分に使える段取りで考えているか、等を確実に考えて頭の中で作業計画を立て、作業中も足回りの確保は大丈夫かと、周囲を確実に把握して行動しています。
なお、塗り作業は、刷毛を確実に塗布面に押しつけて、最少量の塗料で塗れるようにと塗料の無駄が起こらないように注意しています。遮熱シリコン塗料は、15kg一缶で1万4千円もする高価なものですから・・。ちなみにシーラーは15kg缶 7,500円でしたから、塗料だけで送料込36,000円掛かっています。でもまぁ、外注すれば、壁塗りと合わせて120万円程度は掛かると想定できますから、以前の壁塗りも含めて100万円は節約したことになります。しかも、今後も使える足場とかロープ等の資材も手元に残っています。
ああ、言い忘れましたが、塗料を入れたバケツを置いた台が滑らないように工夫したことも、今回の作業の大いなる手助けになっています。その台も、木をきるとかの手間の掛かる方法でなく簡単に出来ました。全て、工夫です。

準備は既に投稿したが、このページに書いています。
ロープワークについて、
http://isabon.blogspot.jp/search?updated-min=2012-01-01T00:00:00%2B09:00&updated-max=2013-01-01T00:00:00%2B09:00&max-results=50
靴と高圧洗浄機
http://isabon.blogspot.jp/2012/12/blog-post_9857.html
天馬の配置
http://isabon.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html
と準備を終えて、大阪で30度の屋根で訓練を行った。

先ずは高圧洗浄です。
高圧洗浄は、旋回噴流でなく、緩めの直噴流にしました。軽量瓦の表面を傷めると、内部は弱そうなので、緩くして、塗装がいかれる部分が出れば、やり直しは直ぐに出来ます。
靴も30度では自立できますが、ロープがあるとより安心です。ロープが9mmと細めのため、スリングのバックマンの締りが弱いので、いつも締り具合を確認しています。
高圧洗浄機は安全装置がついているので、誤噴射を心配しなくて他の作業ができます。
天馬もロープの保持に効果的に使えました。塗装の時には塗料台をロープで支えるのにも効果的に使えそうです。
準備が十分で、不安なく作業を出来ました。
なお、購入した作業靴で30度勾配では、自立可能で、ロープに掛かる力はそれほど大きくはないので、ロープが棟押えに掛かっても薄鉄板の棟押えを損傷することはありません。しかし、屋根の勾配によってはロープがずれる場合、例えば我が家の四角錐形状の部分では、天馬が役に立ちます。我が家の写真の場合ですね。

作業では、近所の洗濯物を汚さないように、一面は夕刻になりました。
2日で洗浄は完了です。

屋根にはロープがいっぱいです。実際は20mのが3本です。
バッチマン結びがこの状態です。
一番遠く、勾配のきつい位置から天馬をみる。


天馬の所。
塗料の保持(塗装トレーの足を切り、底に、瓦の溝にはまるように巻いた新聞紙をガムテープで取り付けた。滑り落ちないので、かなり作業が楽になった。なお、バケツが水平になるように底にダンボールを置き、側面、後方にもダンボールでガイドした。ダンボールって大雑把な装置造りには役に立つ。
前には天馬に掛けるロープも付けた。長さを調節できるようにしている。
実際には、ピンと張らなくても滑ることはないので、塗る手順を最小にするような配置を自由に選べた。
一回塗りの状況です。元のいろはこげ茶色ですが、遮熱性を考慮して、最も効果的なシルバーグレーにしました。後から考えると、白系の屋根が少ないのは、汚れが目立たないようにとの事かもしれません。しかし、我が家の場合、今回の経験から、屋根掃除もそれほど難しいことは無いですから問題はありません。
最も問題は、天気です。ちょっと天気が不順になっています。
それと、屋根の上で作業すると、腰がとても疲れます。更に、常時踏ん張っているので足の疲れが尋常ではありません。
ゆっくりと楽しみながらって思っていたが、天気が不順で、雨の前にできるだけと、体力勝負になってしまった。
とにかく頑張らねば。
ところで庭のさつきは見事に咲き誇っています。
雨の日を除き、実質作業5日後の状況です。雨天の日が入るので、ちょっと効率悪いです。


その間、さつきが更に満開になった。(4月24日)
4月28日には、シーラー塗布は終了した。残量は6kgだから、15-6=9kgで終わってしまった。
上塗り1回目は、3/4は程度を終わっているから、1回塗りでほぼ15kg消費しそうだ。
シーラーの方が、塗り易いので、その差が影響したと思われる。
風が強く、午後は仕事が出来ない。今日は10時ころから暴風で、3時過ぎに風が比較的穏やかになったので、シーラーの最後の塗りを終えることができた。
残ったシーラーは2Lペットボトルに3本+僅かに入れて倉庫保管とした。他に使い道は無いのだろうか。アクリル系シーラーだから他にも使える筈だと思う。

風と雨で作業が遅れ、5月2日に漸く上塗りの1回目を終えた。
6月5日は風が強く作業中止です。ほぼ2/3を終えました。
勿論、縁切り、それと、棟押えの塗装、更に北側一階の軒先部分の塗装、等は別に残しています。
これらは、ダージリンから帰国後になります。
屋根に登ると、目が痛いほどの輝きです。
どう考えても夏場の屋根下温度は下がる筈です。



ところで、今はアヤメが美しいです。
ダージリン、デリーから帰国し、デリーの暑さで参ったもので、
3日間休養後、5月22日上塗り2回目を完了した。
明日から、瓦開きだ。
薄手で、瓦の下側溝に入る幅の金属ヘラと、木槌は準備してある。
その後は、棟押えの塗装となる。

6月1日10:30 棟押えの塗装も終えて屋根は完了した。
棟押えは、カンペハピオ ココアブラウン 鉄にも木にも 油性 0.5Lx2缶を使った。3缶余ってしまった。棟押えの接続部で隙間が大きなところはウレタンシールを注入したが、シールは(変性シリコンもウレタンも)油性塗料は望ましくないらしい。そこで、屋根用シーラーを塗装前、シール注入乾燥後も、塗布した。その上に油性塗料を塗布した。これが良いかどうかは判らない。
作業を終えて、周囲に続く屋根屋根屋根を観察したが、我が家のような真っ白な屋根は見当たらない。グーグルの写真が更新されれば、我が家は直ぐに判るだろう。楽しみだ。

ベランダアンテナは足場から外して独立構造にした。
20mm管と天馬材料を使い、針金で固縛して架台を造った。固縛は巻きつけた針金を絞ることが効果的であった。がっちりと固縛されて、アンテナは確として建っており、東向きだが、向こうのマンションの反射波をちゃんと掴んでくれる。
その後、6月21日の大風で、アンテナ架台が倒れてしまった。ところが、それでも電波をちゃんと捕まえてTV画像は崩れなった。

そこで、アンテナ位置を下のように下げて設置することにした。地デジ電波って凄く強力だと判ったです。(結局ベランダ手すりに取り付ければ十分だったのです。(2013年12月追記)
ところが、その後の経験から判ったのですが、アンテナは高い位置に置く必要が全くないのです。
つまり、手摺に固定するだけで十分でした。
更に判ったのですが、電波には垂直波と水平波があり、基本は水平波です。ある地区に水平波が放射されていて、部分的に受信が不十分な地域があると、そこに垂直波の発信局を設置するって方法です。ですから、両波兼用ではなく、その場所に応じた水平波用か、垂直波用を買えばよいのです。今のベランダアンテナはとても高性能です。(2013.12月追記)
現在の状況は下のようです。アンテナはタワーとは全く反対の方向を向いています。


さて最後の仕上げです。
足場構築も手早くなりました。組み立てて洗浄、下塗りまで余裕で一日です。


これが塗装完了状態です。瓦開き後、足場解体、ロープ撤去です。
ところで瓦開き(縁切り)ですが、ブルックⅣの場合も、セキスイから必要だと指示されてはいます。
が、ブルックⅣは吊子固定方式と呼ばれる方式で、瓦が4点で下の野木板に釘固定されています。これを無理やりこじあけることになるので、痛めそうな気もします。
http://www.sekisui-kawara.com/html/1/1_2/02.html
この本職の人も、瓦開きの必要性を書いています。
http://blog.livedoor.jp/hirosima_kyo_chan/
しかし、釘止めは、一枚の瓦については、上部2点で、下部2点の釘は下側の瓦と、上側の瓦を支える吊子を押えています。で、瓦開きをするのは、瓦の下部の隙間だから、釘には大きな力は掛からず大丈夫な気もします。ただ、きっちりと吊子が効いている場合は、吊子の爪がちょっと開くことになるかもしれません。また同時に、吊子を押える釘に影響を与えることも考えられるので、今後は天井裏の点検もひつようでしょうか。
6月23日、釧路湿原から帰り、瓦開きを終えて全て完了!です。

遮熱塗料の採用効果ですが、今のところ(7月31日)、日照の厳しい日の夜に、寝苦しいと言える夜が無いことが、その効果だと思えます。とにかく2~3年の結果を見ましょう。

2013年4月11日木曜日

なんとなく大阪へ 2013 4月3日~4月11日

JETSTARのセールがあって、成田⇔関空が片道、3000円を切れる。ちょうど都合もあって、女房と大阪に行くことにした。預け荷物無し、手荷物7kgとしても夫婦だと14kgもある。で、夫婦往復で、席の予約料を入れても10,000円で、往路成田発9:55、復路関空発で19:05だから時間も良い。ただ関空⇔枚方の金が高いが、それを考えても、桜の盛りにこれはお得である。と、近畿に行くこととした。楽しみです。
出発前日に、成田発が12:45a.mってメールが来た。前日は春の爆弾低気圧が猛威を振るい、当日はまだ激しい雨が続いた。出発は更に1時間程度遅れてしまった。大阪に近づくに連れて青空が見えて、中部空港は見事に見え、伊勢湾を越えた辺りから再び雲で地上は見えなくなった。雲が切れたら、和歌山の友が島が見え、淡路島上空をぐるっと回り、関空を右手に見ながら下降を続け、右旋回して北から関空に着陸した。
実は僕が30歳の頃、関空の計画時点に、ゼネコンを主体に海洋土木協会なるものが設立され、僕は、その下部ワーキングメンバーとして、埋め立て土砂の搬送計画を担当した。その設備で採用予定の大容量コンンベヤ(3m幅で300m/minの高速コンベヤ)の実験をも実施した。その関係から、関空を訪れる度になんとなく懐かしさを感じるのだ。
桜開花は一週間は早くなったのだが、開花後に寒さが訪れて、開花期間はぐっと延びたので、関西訪問は最適の時期となった。
が、しかし、我が関西拠点の家のメンテナンスにはまってしまい、結局、桜を見ることなく過ごしてしまった。
何にはまったかと言うと、特に家の塗装である。まずは屋根の塗り替えである。関西の屋根は概ね勾配がゆるく屋根作業が容易だ、しかし、家の幅の狭い側は勾配6分(役30度)となっている部分もある。関東の屋根は30度の所が多い。勾配30度となると、屋根面に道具類を置くと。ほぼ転がってしまい、靴底に溝が十分に切ってある作業靴だと、慣れれば立っておれる。作業は素人にはちょっと無理な勾配である。
そこで、僕はロープワークを使って30度勾配の部分を塗り替えることにしたのだ。9mm径程度のロープを使い、細いロープでスリングを自作で作りこれを、バッチマン結びとかで9mmロープに巻きつけて腰にはめて作業すれば恐怖感はほぼなくなって作業ができる。なお、屋根の洗浄は、高圧洗浄機を使えば安心して作業ができる。しかし、下塗り、上塗り塗装は、ローラで行い、最後にスレートの縁切りが必要だが、これらの作業は屋根の端まで行かねばならない。しかし、これら作業は、だんだんと慣れることができて、実に達成感が大きい。また、室内では、壁紙の上に塗装を行った。壁紙用塗料なるものがあり、これは、塗った当初はむらも見えるのだが、時間が経つと発色してむらがなくなる。ローラで押し付けて塗装するとむらも少なくなる。
つまり、屋根の塗り替えと屋内の壁紙塗装にはまってしまったことになる。
屋根作業で最も恐ろしいのは、液体が靴の下を流れた時である。高圧洗浄機の水、それと、誤って塗料容器をひっくり返し、塗料が靴のところを流れた時である。水であろうと塗料であろうと、靴の底を流れた途端に、激しくひっくりかえる。
僕も、塗料缶を転がして塗料が靴底に流れたことがある。あっと気づいた時には屋根を転がっていたが、ロープでかろうじて支えることができたのだ。
だが、十分に注意すれば、このような事態は確実に防げる。
しかも屋根上作業の達成感はとても大きい。
このような事情で、この春は、塗料作業だけの旅になってしまった。
高槻のコーナンまで自転車で往復して、油性塗料や混合栓も買って、
台所の水栓の取換とか、各所の塗料塗りも楽しんだ。
かような作業にはまる人が居るようです。
http://www.geocities.jp/ja4cam/diy.html
ただ、この人の写真の場合、とても危険なのは、自分の上流側で高圧洗浄していることと、主ロープから補助ロープ(スリング)の体に結んでいる位置が遠く、両ロープともにたるんでいることである。
洗浄は自分の水平位置または下方で、できるだけ離れた位置を洗浄すべきであり、水が自分の足元に来てはならない。更に、主ロープは自分の腰脇で張っているような状態でないと、滑った時にすぐさま支えにはならない。
これは僕の経験からも確実なことだ。そのためには、カラビナを使わないブルージック結びで、主ロープとの結び目が腰のすぐ横に来るようなスリング長さが望ましい。

2013年3月23日土曜日

雑感

ぼくがまだ現役時代に書いた雑文を3~4件投稿した。
当時は、読みやすい、と言うか、滑らかに読める文章が面白くなくなり、
ひっかかりのある文章を書き始めた頃で、読み返すと面白い。
が、今はもう書けるとは思わない。
なぜ書けないかは、これも説明が難しい。

かように気楽に生きて行くのもまずいと思うので、
イタリア語を再開し、また、英語力には磨きをかけたい。

と、思うばかりで、ほんとうに出来るかどうか。

今年は、椿、こぶし、モクレン、桜が同時に満開状態になるって奇妙な年だ。
そのことを、ここで記憶に残しておきたい。

2013年3月20日水曜日

師走

 なぜ、ここに居るのだろうかと頭の片隅で考えながら、わたしは殺風景な春日選挙事務所の折畳み椅子に座っていた。
 その日わたしは朝いちばんに、投票用紙にはもちろん春日さんの名前を書き、箱に入れてから田原さんの山林に行った。ホタルの会では、田植えとか、炭焼、それから植物調査なんぞと、いろんなことで多いに楽しんでいる。そんな遊びが会の主賓であるホタルとの付合いよりは、これはあくまで内緒だが、むしろ私には好みで、ともあれ、そんな遊びの殆どは概ね田原さんの所有地の片隅でわいわいと開催されるのだ。ところが、今年の夏に、噂では頑固と聞いているのだが我々には本当に親切であったおじいさんが突然亡くなり、遺産相続の関係でさすがの田原さんも頭が混乱していて、と言うのも、彼の所有地はもう開発計画の中に組み込まれていて、山林として残したいとの彼の意志とは関わり無く計画は着々と進み、これを阻止しようとする方策と、おばあさんとか、その他の彼の親族での財産分与がからみ合い、複雑な状況に頭がはちきれそうになっているらしい。その他にも更に事態を混乱させる事情もあり、何はともあれ、山林の樹木調査が必要だと、これも、なぜ必要かは良く理解できない点もあったが、こんなイベントは盲目的に好きなものだから、あまり考えることもなく、とにかくは調査をすることになったのだ。
 こんな時にはほんとうに便利なのだが、ホタルの会やその周辺にはいろんな特技を持つ人が多く、その一人である高校生物の先生の指導下で、朝十時から始め、昼食は駅前でうどん定食を食べて、樹木調査はまだ敷地の半分も終えていなかったが、夕方の五時になったので中断することになった。木々の幹にテ-プをホッチキスで留め、そのテ-プに油性マジックで木の番号を書込み、コンパスで胸の高さでの幹の太さを測定して記録用紙に書き込むのだが、これを成し遂げるためには数種類の道具を左右の手の親指と、人差し指、それに小指にぶらさげて、使う順序を間違えれば、道具と手がからみあって無茶苦茶になってしまうので、手順については着実に判断しながらしかも俊敏、かつ的確に事を進めのだ。なかなかテクニックの必要な仕事で、こんな仕事はごく私の性に合うようで中断は少々残念であった。
 女房が車を使っているので、と言うか、わたしは車の免許書も持っていないから、田村さんの奥さんの車に同乗して送ってもらうことになった。手にはもう道具は無かったが、長時間持ち続け、働き続けたものだから、手と頭が勝手に道具の使い方を復習していた。
「志水さん、九時から開票だけど春日さんの事務所に行く?」と田村さんが聞いた。ホタルの会にも入っている春日さんが今年の市会議員選挙に立候補して、田村さんの奥さんは推薦人にもなっているのだ。一般人が推薦者であることは、春日さんに地盤の無いことの証で、こんな時には男は屁の役にも立たず、我が家の女房殿、それに、ホタルの会の各家の女房がた総出で、できる限りの紹介をして回っているのだが、そんなことで当選するとはとても思えず、その思いは田村さんの奥さんもどうようの筈だと考えた。
 田村さんの誘いについては、そもそも、わたしが行くとして選挙事務所でどう身を処すればよいのか全く見当もつかなかった。そこでわたしは、
「あー・・えーっと、僕は朝早いですからねえ・・・」と言葉を濁した。
「そう」と、田村さんは全く気にする様子もなく、そのままわたしを我が家に送り届けてくれた。田村さん一家とは大阪で住んでいた高層住宅が偶々一緒で、わたしよりは一足先に千葉に引っ越してしまい、後からわたしも東京に転勤になり同じ市内に住むことになった。あの頃は田村さんの奥さんも若かった。みな歳を取り、それぞれがそれぞれの人生を歩んでゆくのだが、田村さん一家とは、実に人生の半分近くの近所付合いになり、特に女房同志の付合いが親密で、しかも、こちらに来てからの地域活動では亭主二人も一緒になってしまった。
 その日はわたしの誕生日ではあったが、ずっと歯の調子が悪く堅いものは駄目との事情でカレーライスとなっていた。家族全員が不思議がるのだが、子供の頃の食料事情の悪さのせいか、カレ-ライスが大好物なのだ。普段であれば体調を考えて一皿で終えるところが、誕生日でもあることからと、お替わりをしたものだから、ゲップの匂いもカレー臭気となってしまった。
 ついでに言うとすれば、歯の調子だが、通いの担当医が抜歯を薦めるのだけれども、わたしはボンドで補強することを主張し続けている。既に抜いた歯もボンドなんて便利なものが有ることを知っていれば抜かせはしなかった。ただ、どうやらその医者はボンドの処理が下手と言うか、ボンドの価値を軽視しているようで、前々回の時にはしっかりと留めるようにと苦情を言い、補助の女性がこってりと塗布してくれて三ヵ月も保ったのだが、前回は医者本人が、それも片側の歯と接続するだけで、さらには大丈夫かなと危惧する具合の塗り方で、案の状、二日で取れてしまった。その後いよいよ痛くなる按配で、先週の土曜日にはすっかり参った状態で医院を訪れた。「もっとしっかりと留めてください」と言うわたしの言葉に、担当医は口の中を覗くや否や別の女医を呼んで相談を始めた。そうして女医さんがボンドで、正確にはスーパーボンドと称するらしいが、白い二液性の接着剤で留めてくれた。その際、医者の二人が深刻に相談していたのを目撃して、その意味するところをいろいろと考えてみた。まず思いつくのは、担当医がわたしの頑固さに嫌気をさし、女医さんと替わる積もりか、それは彼女の接着の腕が良いことから、わたしには好都合で、故も無く医者に見離されたことへの個人的な誇りを抑えさえすれば満足できる状況である。次の可能性としては、その時の悲惨なわたしの口内を見せることで、抜歯を薦める仲間を増やしていたのかもしれないが、その最悪状況を招いた本人の企みとしては許しがたいと思われ、もしそうであるとすれば、二人の医者相手の答弁を考えておかねばなるまい。更に考えれば、その時の悪化状況は本当にひどくて、膿が頭の中を駆け巡るかのような耐えがたい痛さで、会社でも頭を抱えて過ごした。その時、生まれて初めての鎮痛剤を服用したが、鎮痛剤があれほど爆発的効果があることには驚いたが、痛みは嘘のように消えてしまった。とにかく、かような悪化状況であったから、口内のひどさにガンかもしれないと女医さんを呼んだのかもしれない。その点ではかなり心配はしたが、その後の経過からすれば、この線は薄れている。まあ、とにかくも、胃腸はいつも頑丈で、飲み込めるサイズに砕きさえすれば、すべてを消化する頑丈さを持っている。そんな心強い胃を持つわたしとしては、何があろうとも、スーパーボンドを主張し続けるのだと決心している。後は定期的に補強さえしてくれれば、堅いものをガリガリポリポリと噛み砕く年令は過ぎ去ったと諦めているのだから。
 などとあれこれ考えたところで、今までにもいろいろの状況で事態の推移を様々に想像したことがあるのだが概ね当たることはなくて、結局はなるようにしかならないのが結論である。とにかくそんな事情で、カレーライスの食い過ぎでパンツのボタンも閉まらないまでに腹が膨れてから、田村さんの提案のことを思い出して女房に伝えた。
 女房はちょっと気になる沈黙の後で、
「だけど・・・落選した時に、激励する人も必要・・なんやない?」と、若干の疑問符とともに呟いた。
「そうやろか?誰か、そんな人を知ってんの?」と、わたし。
「あの、野村のおじさんが立候補した時には、後で人間不信に陥ったからね・・・」
「へー、落選したんか」
「うん。かつぎあげる人にも、いろんな人が居るからねえ・・」
とまあ、こんな会話の後で、
「まあ、選挙事務所といっても、別にどうちゅうこともないやろ」と、行くことにはしたが、開票が始まるのは夜の九時からで、朝の早いわたしとしては、そう遅くまでは起きておれない。途中で帰ることにして顔だけでも出そうと決めたのだ。
 開票の始まる九時ちょうどに家を出て、女房の運転する車で春日さんの事務所へと向かった。昔からの習慣で、夜九時ともなれば就眠の支度をするのが常のわたしは、夜道のネオンを見ると寂しい気分に陥る。その一方では明日を心配することなく、かような夜更けに、ネオンに照らされた店々を歩き回ることが出来ればとの思いが心をよぎるのだ。わたしには生来放浪癖があった。しかし、就職してからは仕事を果たすべく、引き続いては、心ならずも結婚してしまい子供も次々と作り、それ故に、家庭を維持せざるを得ず、ごく実直に過ごさざるを得なかった。ひとたびそのくびきが外れればとめどない放浪が待ち構えているようで、その怖れは夜の街のネオンを見るといよいよ強くなるのだ。それでも、わたしには、いつも見知らぬ街々を、それも出来れば世界の街々を巡り回りたいとの思いが心の片隅にある。つまり、わたしの人生は怠惰であることを怖れるあまりに、実直であり続けたと表現できるかもしれない。情けないと思うこともしばしばである。
 そんな思いとは関係なく車はあっと言うまに春日事務所のある横丁に付いてしまった。事務所は数軒の店が並ぶ路地の奥にあり、自己主張を必要とするイベントには適切な場所とは言えないが、大学院を卒業してからの、アルバイトでの貯金だけで市会議員選挙に立候補したのだから、春日さんとしては精一杯の場所であったのだろう。事務所の場所などはどうでも良いことで、要は当選するかどうかだが、票として期待出来るのは大学院時代から顔を出している地元の環境グループだけで、それ以外には地盤もなく、大方の予想はほぼ無理とのことで、そんな事情が食事の時の女房との会話になったのである。
 葉書書きや電話番をボランティアで努めた女房を先にして、わたしは事務所に入った。予想通り選挙臭を殆ど感じさせない事務所で、ウナギの寝床状態の事務所には片目の達磨も無ければTVすら置いていない。折畳みの長い机が二列で、その周囲に折畳み椅子が並べてあり、奥の方に春日さんが居てお母さんらしき人が隣で、中年の男女が二人、若者と言うか、三十代の男女が四人。と、居合わせた人々を見ながら、彼らを若者と言うような歳に、わたしは既になっているのだと考えた。
 一週間前の出陣式からずっと一度も訪れることはなかったから、春日さん以外の人とは初対面で、と言って、選挙戦も終わったいまになって挨拶も無いだろうと、春日さんと、「やあ」
「やあ」と声を掛合ったままで、空いている入口側の空いた椅子に腰を下ろした。お母さんらしき人がお茶を持ってこられた。壁にはいろんな紙が、それは既に終えた一週間の選挙戦の予定表らしいのが貼ってあり、まるで工事現場のプレハブ事務所みたいな按配である。事務所の人々は、寿司の出前で夕食を取っている最中で、おそらくは、開票に備えての待機のために集まったと思われるが、それがどのような仕事を意味するのかはわたしに判る筈も無かった。いずれにしても、今ここに居る人はみな選挙に深く携わる人ばかりで、一般人はわたしたち夫婦だけらしい。つまりは、わたしの頭の中に存在する選挙事務所とは思えない様相で、多くの雑草の中の一株の雑草とあろうと、もしくは、それに似た状況との期待が、始めから脆くも崩れてしまった。
 さて、これから事態がどう推移するのかとも考えたが、こればかりは何の経験もなく、全く予測が立たず、この人数の少なさでは途中で抜けることもならず、結局は選挙結果が明らかになるまでと思えた。しかも、すぐに若者達は、開票所への出掛けて行ったので、いよいよ人数は少なくなったが、一般人の夫婦が一組と、老人が一人訪れて元の人数には戻った。
 春日さんはずっと机に向かい、なにやら領収書の整理をしているようで、漸くまとめ終わったようで、ファックス操作をしてから背伸びをした。そこで漸く新しく集まった一般人に気付いたようで、ひとりひとりに声を掛けた。
「春日さん、票読みはやっておられたんですか?」と、少々間の抜けた質問ではあるが、春日事務所を訪れた人としては、まあ、妥当と思われる質問をしてみた。
「ええ、・・電話なり、面会で会った人の反応で、毎日記録はつけているんですが、集計まではしていませんでねえ。党の方では、それを早く出せと催促してくるんですが、集計するよりも、出来るだけ確実な人に会う方が重要でねえ・・」と苦笑いしてから、
「それでも、わたし一人で確実と思える人は七百人は越えていますからねえ」と、かなり自信の有る発言であるが、わたしの目を覗き込み、そこにあったであろう不信の影を見付けたのか再び苦笑いを示した。恐らく彼の自信は誰からも疑惑の目で見られ続けたと思われた。春日さんは話題を変えるように、部屋を見回してから、
「そうか・・パソコンを持って来れば、開票速報が見られますね・・ちょっと下宿に帰ってパソコンを取ってきます」と、言うや、表に出ていってしまった。
 こんな事情で、部屋には選挙参謀と思われる中年の男女を除いては、素人ばかりで、なすすべも無く折畳み椅子に座り世間話をぼつぼつと交わすだけとなった。紙面の都合もあり話を早く進めるのだが、その頃から選挙速報が出だして、開票所に行った若者たちと、下宿に戻りテレビの開票速報を見てしまいそのまま帰れなくなった春日さんの、双方からの電話で開票速報の連絡が入り始めた。
 八千代市のホームページを見れば良く判るのだが、三十分毎に報道される開票は、各候補者が先ずは三百票を得票したかどうかが報道される。時間を置いて七百票、それから千票と、越えるべきハードルが次々と上がってゆく。つまり、運動会の紅白の玉入れの後で、ひとーつ、ふたーつと玉数を勘定するのとほぼ同じ方法なのだ。春日さんは、なんと、脱落することもなく、最初の三百票のハ-ドルを越えた頃に、田原さんが現われ一気に事務所は騒々しくなった。次のハードルを越えた頃から、伊東さんとか言う人が居酒屋で酒を飲みながらテレビを見ていたのだが、春日さんが善戦と知って来たのだと、さすがの田原さんも顔負けの騒々しい人が訪れた。二人のことはこの事務所では評判らしく、二人を中心に笑い声が大きくなってきた。そうなると奇妙なもので、春日さんが当選するのではないかとの期待が我々の話し声にさえ感じられるようになり、選挙参謀の人が、「まだ、まだ!」と、気持ちを引締める声をあげ、それがまたまた、期待を高めるような具合になって、わたしの世間話の声までが上擦るようになってしまった。
 そのまま、あれあれと思う間もなく、春日さんは当選確実と報道されて、それから、果たして本当にパソコンを持ってくる積もりであったのかは判らないが、自宅に帰っていた春日さん、それに開票所に行っていた若者たちも戻り、しかも田村さんの奥さんまでもが開票所に行っていたのだと現われて、春日さんを真ん中に、万歳三唱となり、もう時間は十二時を過ぎて、あすのことを考えればもう駄目だとわたしは女房と帰ることにした。家に帰り着くまで、カレ-臭いゲップが何度も出た。
 その他にもいろいろとあり、ほんとうに忙しい師走であったが奇妙な思いもよらぬ経験の続く、それは思い出深い年末でもあった。

赤がえるさんの謎

 この誌面をお借りして、赤かえるさんのことを御紹介することは誠に光栄の至りとするところであります。彼女との付合い・・思い起こせばそれは谷津田での去年二月の産卵調査以来で、卵塊だけはまあ存分に見たのですが、その御姿には秋になり漸く接することが出来たのです。銀輪部隊”花の会”、彼らは、いや彼女達は自転車で市内の谷津田を走りまわり野草観察を続けていたのですが、絶滅に瀕している野草を残さんと奮い立ち、谷津の休耕田を借受けて草ぼうぼうの田圃を先ずは草刈りとなったのですが、同じく谷津田を遊び場としている私もその応援に駆出されてしまいました。そこの休耕田で、ぴょん、ぴょん、ぴょんと三跳びして雑草の陰にきえる彼女を(いえ花の会のメンバーではなくて赤がえるさんなんですよ)目撃したのです。最初のぴょんの、まさにその瞬間に、私の胸はきゅううんと音をたてました。いえいえ、心臓発作ではなくて、それは、私が小学校高学年の時に”のんちゃん雲にのる”を演ずる鰐淵晴子さんを見た時の感激と同じでした。ところで、先日NHKの銀河ドラマで、彼女が・・いえ、赤かえるさんではなくて鰐淵晴子さんですが・・彼女の出演を知りテレビのチャンネルを子供から奪ったものの、鰐淵さんは最初の一回目に殺されてしまいました。NHKさん、あんまりやないか!
  さて、その時彼女は橙色のコ-トを着て・・いえ鰐淵さんではなくて、赤かえるさんのことに話は戻っています。彼女の美しくスマ-トな姿態にほれぼれとしたのです。谷津の斜面林に住む彼女は、派手なコ-トにも似合わず人見知りする質のようで、殆ど人前には現われません。それに、かなり頑固というか保守的な性格らしく、限られた場所、ほぼ水溜まり程度の深さを好み、とにかく流水には全く産卵しないなどと、まるで人が作る田圃が最適で、人の気配が失せるともに絶滅への道を歩むようです。その頑固さ故にこそ人の変わりように追付けず、静かに静かに消えて行く運命にあるようです。
 しかしながら、彼女の卵は丸く丸く見事な形状で、ひきがえるさんの長い紐をずるずると引きずり産卵したかのような下品な卵に較べれば、それはそれは遥かに芸術的な作品でありまして、派手なコ-トで人見知り、頑固で凝り性となれば、これは明らかに芸術家と決まりました。かような人物の行動把握は極めて困難で、今年も保品谷津のみならず石神谷津でも産卵調査をしましたが、彼女の行動パタ-ンについては謎が深まるばかりです。
  今年は3月2日頃から産卵を始め、谷津田の多くの田圃から、好天が続いても干上がりにくい三ヶ所だけに産卵していまして、3/2日 37個、3/3日 47個、を確認したのですが、3/16日には寒さと干水で崩壊と死滅が始まり殆ど全滅となってしまいました。いずれにしても去年に比べれば今年の産卵数は激減となっています。
  それにしても、産卵調査を進めれば進めるほど彼女に関しての謎は深まるばかりです。先ずは広々と草も無い水を湛える水溜りには産卵の気配もなく、それはなぜか?と考えてしまいます。赤かえるの産卵場所には必ずと言っていいほど後日にはひきかえるが産卵していまして、これもまた、なぜか?と呟いてしまます。
  僅かに生き延びた卵塊では3月23日には孵化が始まったのですが、小さなお玉がぴくりとも動かず堆積する様子から生存率は極めて劣悪と窺えて、生きていること自体がいかに貴重なことかと実感したのですが、その日に新たな卵塊を数個発見することになりまして、これは果たして二度目の産卵か、それとも寝坊の赤がえるの産卵なんでしょうかねえ?。  
  4月6日に様子を窺いますと赤かえるのお玉がひきかえるの卵に付着したまま動きません。ひきがえるの卵は赤かえるに取っては危険な物なんでしょうか?その後、ひきがえるのお玉はうじゃうじゃと見掛けるのですが、赤かえるのお玉は日々目撃数が少なくなってしまいます。泥の中にでも潜り込むのかと考え込んでしまいます。
 八千代の谷津を知ってから三年になりますが、谷津とその斜面林では、テレビで放映の岩跳びペンギンとかザイ-ルのボノボやマウンテンゴリラとかの、心を打つ命の躍動と戦いのドラマに勝るとも劣らない数々のドラマが演じられていることに漸く気付きました。たいして意味の無い区画整理事業と無差別な開発からすると赤かえるさんの命も風前のともしびですが、彼女はふんと嘲笑うかのように、今年も一度だけぴょんぴょんぴょんと跳ね飛ぶ御姿を披露してくれました。彼らの運命がいずれは人にも訪れる運命だと知っているに違いありません。40億年にも及ぶ命の鎖の繋がりのなかで、恐らく、遠い昔には鎖を共有していた赤がえるさんと、この私とが、今この一瞬を共に生き、すぐに無機質となるのですが、いつかは、同じ命の中に吸収されることもあるかと思えます。その時には、かえるさん、やごさんとか、やまと蜜蜂さん、どじょうさんとかになってもいいなあと、しみじみ考える歳になってしまいました。今はただ、赤かえるさんの数々の謎をもっと究明したいと、古畑任三郎さんの心境になっています。
 えっ、何ですか?はあ、なんで赤がえるの産卵調査をしているかとお尋ねですか。そう、それもまた歳のせいやと・・言う以外には答えようがありませんなあ。
 

2013年3月19日火曜日

薬園の森

 束の間の人生で何を学んだろうかと、それに何かを学ぶことが出来ただろうかと、通勤電車の吊革にすがり視線を流れ去る窓の外に向けながら、取留めなく過去の映像を追い続けることが多くなった。しかし、情けないことには、自己を明確に意識するようになってからの人生は、どう生きてゆくかに終始したようで、どうやらわたしの本質はそれ以前の、まだ意識のはっきりしない混沌の時代にあったように思える。
  疎開者用住宅地に住んでいたその頃、私はまだ小学校にも行かない幼児であったから、いろんな記憶の断片は順序脈絡も定かではなく、頭の中に広がる薄暗い領域の、所々に浮かぶ、微かに照らされる静止画像でしかない。しかも、画像に登場する人々の殆どは輪郭とか雰囲気だけが感じ取れる霧のような存在となっている。輪郭に焦点を合わそうとすれば、すぐさま霧は吹き飛び、残された映像は目鼻もなく、のっぺらぼうで雰囲気さえ感じ取れない代物になってしまい、失った雰囲気を取戻そうと、頭の中でうろうろと焦ってしまうのが常である。
 ただ中には鮮明な画像を持つものもあり、その一つは、空のリヤカーを引く母親の後ろ姿と、荷台に腰掛けているわたし自身の、いずれもが貧しそうな姿で、己の姿がまるで中空から眺めているかのように見えるのも奇妙に思えるのだが、その映像はおそらく丘の上にある古い村に買出しに行く時の光景に違いないと考えている。戦後間も無いその時期にはこんな風体の母子連れで、近くの村に買出しに行ったのだろうと、今は既にない母親の食べ物を手に入れるための苦労を考えてしまう。しかし、兄や姉達には残る飢餓の鮮明な記憶はわたしには無く、ただ、楽しかったとの感触だけが残されている。
  大阪南河内の古い村々の外れに急造された疎開者住宅は、当時はなんとも思わなかったが、今から考えると実に奇妙な位置に造られていた。和歌山との境に連なる和泉山系から、幾筋もの丘が、微かな皺のように南の低地へと続いていて、古い部落は全てこの丘の上に群がっていた。丘と丘の間は、それは永い歳月を耕され続け、川筋の疎らに連なる木々を除いては地面はただ平坦な田畑が、しかも、南と東の山々まで昇り勾配で広がっていたから地平線も無く、地面は徐々に上にと昇り、最後は紫色に霞む遙か彼方の和泉山系や金剛山系の麓へと、それから急に頂上へと至り、そこで区切れて青空となっていた。山裾までの勾配面は、梅雨頃には、ただ真っ平で鼠色の水面となり、秋の収穫時期には吹き抜ける風になびく黄金色の、ただ一枚の平面として存在していた。
  この光景を眺めた記憶もまた鮮明で、幼心には理解出来ない、それは、歳を経た今になっても往々にして心に蘇り、あれこそは感動であったと確認する心の震えを感じたものだが、更に考えれば、その住宅地は南河内の、あたかも浅い鍋の底に位置するわけで、しかも、もっと上の方には、弘法大師が開削したと言われる巨大な狭山池から流れる二本の川の一つが、真っ直ぐに住宅地に向かいながらも、住宅地のすぐ手前で西にと方向を変えて、鍋の底周辺の四分の一周を迂回してから再び南へと下っていった。つまり、さすがの川も、鍋の底に入っては抜けられないと考えたに違いない。
 
山裾からの勾配は住宅地の北側へとまだ続くのだが、そこには近鉄南大阪線の線路が嵩上げされた堤防の上を東西に走り、この鍋の底を、逃げ場の無い底にすることにとどめを刺していた。
  こんな状況であったから、一旦何事かが起これば只では済まなかった。僅かとは言え高い丘の上に設けられた村々とは違い、毎年、梅雨から台風シーズンに掛けて、川の水位が僅かでも増せば、南の縁に沿う川筋のあらゆる所から全ての水が鍋の底へと押し寄せた。つまり、住宅地は年に一度、二度と、時にはおまけの三度、更には四度と、床下浸水に侵されるのが常で、水流と共に川に棲み付く様々な生き物も水につられて押し寄せては住宅地の道を泳ぎ回ることになった。
  大人達にとっては苦労の種であったこの有り様も、わたしにはまたとない遊びの時期となり、まるで一匹の蛙になったかのような気分で腰まで水につかりながら走り回った。本物の蛙達は緩やかな水の流れに乗り流れ去り、やがては線路際に所々作られた暗渠周辺に生じる濁流に呑まれて下流へと消えて行った。轟音と見事な渦模様を造る暗渠への流れは、わたしにとっては極めて魅惑的な存在で、あたかも新しい世界への入口かのように見えたのだが、心の奥底の声がわたしも引き止めた。そのため、幸か不幸かわたしは流されること無く住宅地に残された。その頃から既に、わたしは新しい出来事に臆病であったようだ。
  春になれば周囲は麦畑とレンゲ畑で風景は占められた。梅雨前の田植えが終われば、田圃に現れる様々の虫たちを眺めて楽しんだ。とくに田金魚は体をくねらせ、掴まえどころの無い美しい色を変えながら泳ぎ回り、かぶとえびは泥の中をその奇妙な体型で這い回っていた。秋から冬にかけては霧が全てを乳色の刷毛で柔らかく覆い隠してしまうのが常であった。そうして冬には必ず雪の訪れがあり、大空を除く全ての世界が白一色で覆われた。
  それにしても、人と関わる記憶のずさんなことにくらべて、この風景とか、虫とか魚それに蛙とか蛇とか、水の流れとか、それに言葉には現せない香りとか色についての記憶の、この鮮明さはどうしたものであろうかと、これを書きながらもわたしは考える。それは彼等が常にそこに居て、その折々の変化も瞬時ではなく、またある時には繰返し繰返し訪れることで、記憶の中に焼付けられたのかと、更には、往々にしてある古い記憶の美化により、記憶が事実以上に鮮明に、つまりは記憶の再創造がなされるのかとも考えたが、わたしのこれらの記憶は、実に、幼児期も過ぎてから、ずっと変わらぬまま続いていることからすると、更には、旅先で極めて稀ではあるが同様の風景に出会うことからすれば事実そのままの姿に近かったと言えそうだ。
  とにかく、わたしはそんな、何の憂いもない四季を存分に楽しみながら暮らしてはいたのだが、いつも気にかかる存在が、住宅地の西のすぐそばにあった。遊び呆けているある瞬間に、頭を上げるとその存在は存在そのものを強く現した。今から思えば、それは、僅かに小高い丘の上に並ぶ古い農家の茶色の土塀と、その並びに続く木々の列に過ぎないのだが、数枚の田圃を挟んだ住宅地の向こうに、言葉通りの壁を形造っていた。
 
壁の色そのものが見慣れないものであったのと、木々がそれほどにも並ぶ姿が異様に思えたのだが、その存在は、いつもいつもわたしを眺め下ろしているように感じられた。しかも木立の上に聳える鼠色の建物は、周囲の風物から全く孤立して見下ろしていた。大人達はこの建物を「やくせん」と呼んでいて、「やくせん」の話が出れば必ず、「大戦中には、あの建物の上に高射砲があり、B29を目掛けて撃っていたんや」と話しは続き、それがまた、わたしには眩しいというか、無視できない存在として残った。
  こんな状況であったから、いずれはその存在を確かめることにはなったであろうが、その時は真夏の最も暑い時間になってしまった。その時間帯と言えば、虫も蛙も、あらゆる生き物が日陰に潜む時間で、そのためわたしは時間を持て余したに違いない。わたしの記憶はそこから、とても広い間隔を隔てて並んでいる家々の、土塀に挟まれた狭い道を歩んでいるところに跳んでいる。わたしは右を左を、そうして前後を忙しく観察しながら歩いていたと記憶している。たしか、道の左手には小さな、水の流れていない溝ともいえる川があった。道は途中で右に折れて溝を渡り真っ直ぐに続いていた。土塀の間にある門はとても大きくて、まるで一軒の家のように屋根があり、庭はその奥にずっと続いていた。しかし、土塀は所々崩れ落ち雑草が生えていて大きな門の屋根瓦も剥げ落ちている有り様に、遠くから見た時に感じた威厳はなく、何故かほっとする気持ちを感じたのだ。わたしの影は白く乾燥した大地の足元辺りにあり蝉の鳴声以外に聞こえるものは無かった。
 
村を抜けると僅かに道は広くなり、右の向こうには近鉄電車の踏み切りが見えていて、左手の突き当たりには、木々の茂る森と、その上には「やくせん」がいよいよ聳えて見えた。当然ながらわたしは「やくせん」への道を取った。
  やくせんとは、これはわたしが高校になってから、ふと思い出したときに地図を調べて判ったが、薬科専門学校の略称で、なぜまた、当時はあんなに田舎であった場所に専門学校を造ったのかと疑問を感じたことも覚えている。
  薬専への道の途中には石橋があった。そこまでは迷いも無く進んで来たが、橋の上でわたしはうろうろと考えた。水の流れ来る方向からすると、川はわたしの住宅地の南をかすめる川に違いないと思った。再び薬専に目を移すと、建物がすぐ傍に、しかも本当に大空に聳えていて、その周囲には建物にも劣らない高木が立ち並んでいた。なによりも恐ろしく見えたのは、薬専の建物のど真ん中に明いた黒々とした穴であった。そうして遠くから見えた薬専の建物とは、何かもっと広い領域の入口に過ぎないことに初めて気付いたのだ。しかもその入口の、歳月を経てまだらになった鼠色の表面の殆どが、濃い緑と茶色の入り混じった蔦の葉で覆われていた。
  なんとも恐ろしいこの様相に脅えながらも、わたしは建物に近付いた。穴には重そうな鉄製の、両開きの扉が付いていて、大きく開いた向こうにはもっと背の高い四角の建物が建っていた。それも一つでは無くて、奥の方へと何棟かが並んでいる。人影は全く無く、それもまた後から考えれば当然なことで、夏休みの暑い盛りに学校を訪れる人は、わたし以外に居る筈もなかったのだ。
  これはとても入って行けないとわたしは諦めた。そこで左右を見ると道は薬専の生垣に沿って両側にある。そのいずれの道も両脇には鬱蒼と木が茂り薄暗く、しかしそれでもまだ、暗く蔦に覆われた門よりはましに思えたが、その有り様は田圃の中で暮らすわたしには殆ど信じられない光景であった。その臆病さゆえに、もう帰ろうかと
思ったのだが、何故か、今も判らない理由でわたしは右への道を進み始めた。
 
恐らく、それは、やはり臆病さと共にわたしの心の特徴とも言える好奇心の故だろうと思う。そう言えばわたしは、知らない街を、そこが如何に汚らしく汚れた通りであったとしても、恐れを感じながらも歩き回るのが好きであった。旅先では少しでも暇があれば街路を徘徊した。そんな習癖がその頃から備わっていたのだろう。
  とにかくわたしは、門の建物に沿う右の道を取り、暫く歩けば薬専の敷地の角に達した。道はそこで直角に右に曲がっていた。見ると、道は敷地境界の金網柵に沿って真っ直ぐと続き、金網の内側と道の反対側に立ち並ぶ木々の垂下がる枝々に遮られて果ても見えない有り様であった。この道を行けばどんな所に行着くのだろうかと、ちらっと考えはしたのだが、もうわたしの恐怖心は限界に達していた。わたしは、何か得体がしれないものに襲われるかのように思え、後ずさりして門の方へと下がって行った。それから、どのようにして家に帰ったかの記憶はない。
  小学校も三年を過ぎた頃から絵を描くことが好きになり、、春夏秋冬の季節の移り変わりの中で二度と同じ姿を見せることの無い山々の、一瞬の姿を絵に残そうと試みた。しかし、描かれた風景は、みすぼらしく単調な形骸でしかなかった。それが何故か、どうして彼等を表現できないのかと突詰める努力があれば、新しい道が開かれたかもしれないが、例え描くことが出来なくとも、そのものが目の前に日々存在することで、その努力もなく、わたしは描くことを諦めただけであった。
  小学6年生の時にわたしの一家は、田圃の中の家から、同じ南河内ではあったが、疎開者住宅地を脱出して、もう少しまともな住宅地に移り住んだ。しかし、そのことは後から考える限りにおいて、わたしの人生の最も光輝く部分からの別離であった。その後の人生は、ときたま、例えば、女房との数ヶ月の恋愛期間とか、仕事で何事かを成し遂げた時の充実感はあったものの、日々が輝きであった頃に比べれば、色褪せたものでしかなかった。それに、これからの残された人生であれほどの輝きの時を作り出す気力も自信も無く、つまりは二度とは経験できない貴重な日々であったのだ。
 
だが、あれこれと考えてから、わたしはそのことを悲しむことも、自分に哀みを感じることも無いと考えた。なぜなら、あれほどの輝きを得ることが出来ただけでわたしの人生には意義があり、それと同時に、わたしそのものが、大地のほんの一部ではあるが、たんに動き回る微小部分として存在したに過ぎないと気付いたのである。しかも、わたしは幼児期から変わることなく、いやそれどころか、生命なるものを得る以前から、それに、これからも変わることなく大地の一部であり続けることにも気付いたのだ。