2020年12月22日火曜日

ときどき思い出すこと(4)入社6か月後大阪に移動してから八戸長距離コンベヤ建設

 畑中さんから引き継いだ住友セメント浜松工場の長距離コンベヤは、無事客先との打ち合わせを終えて設計製作の段階に入った。さすがに自分だけでは製作図までは書けず、岐阜羽島駅近くの郷鉄工所に設計込みで発注した。郷鉄工には既に畑中さんがほぼ手配していたのでそれだけは助かった。

鉄骨構造物の殆どを製作した時点で、据付工事の手配を終えようとしたが、その時点で客先側の用地買収が難行して、製作品を郷鉄工に預けたまま、用地買収が完了するのを待つことになった。それにしても数千万円の仕事を入社一年の社員に任せるとは酷いなぁ、と思った。客先である住友セメントの白井課長は僕を相手にはもっと心配であっただろう。

だが、次の仕事はもっと酷かった。八戸の本格的な長距離コンベヤであった。浜松工場のコンベヤは何本かに別れていてその全長は1km程度であったが、八戸のコンベヤは、6本のコンベヤで総延長は8kmもあった。こちらは佐薙係長と僕での対応で、佐薙さんは概ね客先との価格交渉や人間関係が主で、その他の全ての作業は僕であった。渡された計画書に従って、全体レイアウト図を作り東京に行き、客先ビルでの打ち合わせに臨んだが、客先は住友石炭と住友セメントの上層部が一堂に会して、その前で僕が技術説明したのだが大勢の年寄りを前に足が震えた。企業生死をかける大型プロジェクトのプロマネが、大学卒そのままの若造で客先も驚いただろう。特に、そのプロジェクトの責任者菊地常務は不安であったろうと推察できる。若造のプロマネが、自筆であろうと推察できる稚拙な図面や計画案を説明するのだからこれも酷い話だ。
幸いなことに、設備群は、地下100mから地上に、爆破された石灰石を地上部まで運ぶ斜坑コンベヤと、山元から八戸鮫港の港湾設備と、住友セメント八戸工場に石灰石を運ぶコンベヤとで構成されて、斜坑コンベヤ、それに、長距離コンベヤも騒音対策のために全て地下収納で、地上配置のコンベヤフレームが殆どで、7か所のコンベヤ接続部だけに架台がある比較的簡単な構造で、全てを自分で計画図を書き、その計画図に基づいて、詳細図は、竹中係長傘下の2人の外注さんに書いてもらうことになった。
本格的な長距離コンベヤの日本における実績は住友セメントの秋吉鉱業所での設備で、住友石炭がエンジニヤリングして、全長12kmで5本のコンベヤを、住重・産機工業、日本コンベヤ等5社が1社で1本ずつ担当して納入したが、八戸のは僕一人で全コンベヤを処理することになる。なお、秋芳鉱業所の住重分は畑中さんが主として担当していて、その計算手法を住重技報に報告していた。これを参考に、更に、コンベヤ設備の先進国であるドイツの文献も自費で集めて勉強した。環境条件も厳しく、騒音や散水システムの勉強も必要となった。これらの勉強はその後の仕事でも多いに役立った。
ほぼ計画の目途がついた時点で、土建建築担当の鹿島建設が現地事務所を建てて現場工事を開始するので、機械設備との摺合わせのために現地で対応しろとのことで、真冬の八戸現地に出向となった。現地での総合ミーティングで各コンベヤの駆動室の大きさが大きな問題となった。駆動室も地下に設置されるので、巨大な空間が必要となり土建上の、特に建設コストが問題になるのだ。実は大阪での計画で、苦労したのが駆動室の寸法であった。特に重要なのは、減速機の様な大物を撤去、搬入する経路だが、いろんな寸法決定要素を設定して、各駆動室ごとに決めたのでかなりの厚さの計算書になった。最初の総合ミーティングで、突然その点が指摘されたが、予想していなかったので、かなりの枚数の生原稿の計算書をそのまま検討書として、その事務所にあったコピー機を使い、大量にコピーして配布して説明した。その詳しい検討状況に納得した様子で、何の質問‣指摘もなく了解された。
しかし、この件は今でも時々思い出して、ひょっとすると、経験を積んだ今なら、もっと小さな駆動室に出来る可能性があったかもしれないと、悩むことがある。地上から見るとそれほどではないが、地下に入るとそれほど大きな駆動室なのだ。但し、秋芳長距離コンベヤも地下の駆動室は同様に大きいのだ。

かくして、その他に大きな問題もなく、現地対応は一か月程度で順調に終えて大阪に帰ったが、間もなく、本件は一時中止となった。産出する石灰石が高炉には品質的に合わないのではないかとの根本的な問題が生じたのだ。

そのため、力が抜けている時に、永井さんが仕事を頼んできた。自動倉庫用スタッカクレーンの計画図を書いたが、米国に出張するので、その製作図を全て頼むとのことで、その説明の数日後には米国に出発してしまった。残されたのは、1番の製図用紙に書かれた計画図一枚であった。ただ、新居浜のそう開工務店からの若いのを一人付けてくれたのが救いであった。わざわざ新居浜から出張で呼ぶとは高くついたことであろうが、仕方が無かったのだろう。その若者は、バックパックで世界旅行をしていたとかの、なかなかタフな男で使い甲斐があって本当に助かった。
電気関係は茂田井さんが担当であった茂田井さんは新婚直ぐで、とても幸せそうであった。
他方、僕の方は、それからは、朝8時に出勤して夜の11時に退社して、土曜日曜関係なく計画図の製作図起こし、製作工場への出図に明け暮れた。夜の12時頃に家に帰り飯を食って寝るだけの生活であった。土曜が半ドンの時代に、残業が月200時間なんて超人的であった。
こんなわけで、我社物流部門のスタッカークレーン第一号機の設計は、僕の手で為されたと言えるだろう。その後永井さんは帰ってきたが製品は殆ど出荷されていて、そのまま据付現場に行き、僕には「昇降台の在荷検出、オーバーサイズ検出を機械式で作って欲しい」と言い残して行った。計画を始めたが、畑中さんが入社新人を連れてきて、面倒を見るようにと言った。なぜ僕が物流の新人の林君と内藤君の面倒を見るのかが判らなかったが、八戸の件が中止のままなので良しとした。
2人に指示して機械式検出器を作ったが、現地に送ると永井さんから電話が掛かって来て、「機械式ではガチャガチャで無理だったから電気式にした」との連絡があり、そうだろうなと思った。ついでに、僕の実施設計の不具合点も指摘してきた。一つはポールと走行台の接合部に穴は不要だとのことで、僕としては重量軽減のために穴が開いていると誤解したのだった。もう一つは、厚肉鋼管を昇降用巻胴としていたのだが、ワイヤーの巻き数が多すぎて、昇降台を下げてもロープの巻が残っているとの、2点であったが、文句を聞きながらも、あの短期間の設計で良く出来たものだと安堵した。
この最中に、新人の林君が、会社の検診で結核だと判り入院したと聞き、当時「片町線」と称された田園地帯の真ん中を走る鉄道沿線で、四条畷辺りの田んぼの真ん中に建てられていた療養所に見舞いに行った。彼が復帰する頃には、物流部隊は東京に移動していたので、林君はそのまま東京に行き、その後彼と会うのはずっと後年に東京で通勤中に出会っただけである。どうやら彼は我が家の近くに住んでいて、我が家が駅から15分だと言うと、遠いなぁと言っていた。物流は給料が良かったのだろうか?

スタッカークレーンの仕事を終えた頃に、八戸設備計画が再開して、長距離コンベヤと接続する港湾施設や住友セメント八戸工場内の施設が追加発注となり、その方は、中途採用の芝野君が部下になり、それも、従来設備なので、僕は長距離コンベヤに専念し、従来設備はほぼ佐薙さんが面倒を見てくれた。

その頃、コンベヤ部に管理課が出来て、山崎課長らが移動してきた。その部下に宮崎さんなる住友石炭から移動してきた人が居て、八戸の担当になり据付の面倒をみてくれることになり、僕の負担はかなり軽減された。しかも彼は長距離コンベヤに関して有名な吉田龍夫さん
https://core.ac.uk/download/pdf/39334449.pdf
と一緒に働いていたとのことであった。
当時、僕は、長距離コンベヤの制動時の張力分布、特に、制動時に駆動プーリー部でのベルトのスリップをどうすれば良いのかと悩んでいたが、たまたま僕の席に寄った宮崎さんに聞くと、「制動前後でベルトの長さが一定であるとすれば良い」とアドバイスしてくれて問題は解けた。発電制動時のコンベヤ挙動は入社後初めてで最後の初級微分方程式で解けたし、で長距離コンベヤの解析はほぼ終了した。吉田龍夫さんの解法は、その機器の特性からフーリエ級数で張力変動を解析しているが、面倒過ぎて実施には不向きと解読はあきらめた。

この頃から住金鹿島の一期工事が終了近くになったようで、松木親衛隊の抱えていた若手社員や同和設計の外注さんが我々外様社員にも使えるようになった。
松木親衛隊は手持の社員や外注の仕事を確保するために無理な受注をするようになったようで、敦賀セメントの工場内搬送設備を受注した。その設備では通常は購入するバケットエレベータやチエーンコンベヤ類も自作としていた。が、斯様な低レベル機器で専業メーカーに勝るのは少々無理もあり、かなりの赤字となったらしい。その頃、八戸設備の管理を担当していた宮崎さんが同時に敦賀の設備も管理していて、僕に、八戸の利益を敦賀に回してすまんね、と言ってきた。
八戸の黒字は敦賀への補填で困ることもなく、佐薙さんが利益の出し過ぎだと事業部長に怒られたそうである。僕としては最小限の人員でプロジェクトを推進すれば、かなりの黒字を達成できるとの自信が出来た。実際に、生涯を通じてこれを推進して、どうしても受注をと無理した案件でも工夫してこれを実行できたと思う。


他方、土居課長と松木親衛隊は、さすがに世間の動向を見ていて、その後は、石炭火力設備、更には韓国への賠償案件としての高炉設備へと進出して利益をあげて行った。
が、行け行けどんどんの時代の終了と共に、その神通力は衰え、トルコの設備では大赤字を出して、その後はいよいよ時代に取り残された。他方、畑中さんの物流設備は今でも生き残るどころか、時代の寵児として多いに頑張っている。
僕はと言えば、既存搬送施設の設計製作のコンピュータ化の夢は、住友重機械の社風には合わず、時を得ぬままに終ってしまった。しかし、異動して行った先の物流施設部でも、環境施設再資源化施設でも、その技術を応用して、しかも生涯受注総額は100億円近くで、利益は少なくとも10億近くの利益を挙げることが出来た。それが僅かながらも慰めになっている。






2020年12月19日土曜日

ときどき思い出すこと(3)入社後住友重機械で僕の経験したパワハラなど

 僕が大阪コンベヤ課に配属された時、何かの折に、何歳か年上で亀田さんなる神戸大学工学部卒の人が僕の配属前に居て、土居係長に激しく怒鳴られながら居たとの噂を聞いた。その次に、北海道大学工学部卒の神野さんも居たが、彼もまた、土居課長に怒鳴られながら仕事をしていた。幸いなことに、僕は土居係長の下ではなく、畑中技師の部下として配属され、その後、畑中さんの新規事業への移動に伴って佐薙係長の部下に配属された。が、亀田さんに関する噂や、神野さんへの対応を見て、土居係長には心の底に反感を感じていた。しかし、神野さんが怒鳴られる様子を見て、なぜ反論しないのだろうと、その意気地の無さを軽蔑する一面もあった。がしかし、自分がその立場になった時、土居課長(彼はその時点では課長になっていて、自動的に僕は彼の部下になってしまったのだ)の傍若無人な叱責には、まともな人間は反論できないことを思い知った。それは実際にそれを経験して判るのだが、理由にならない悪意に満ちた理解不能な叱責は、反論することに恐怖を感じるものなのだ。
その観点で、神野さんの受注実績や実施実績を見ると、その仕事は、軽快ではないが、実直で確実で信頼の出来るものであった。亀田さんについては、彼の実績はしらなかったが、彼は最終的には畑中さんや永井さんの物流部門に引き抜かれ、特に、自動倉庫のコストダウンに従事した。僕が物流部門に移動してから、物流施設の見積もり業務をした時に、亀田さんのコストダウンや標準化の結果・成果が極めて効果的であったことを知ることになった。亀田さんの技術力に感服したものだ。土居課長にぼろくそに貶されたとしても、実際には素晴らしい技術力を持っていたようだ。
これらの経験から、僕が住友重機械に入った頃には、住友重機械に就職した大学工学部卒には極めて優秀な技術者が大勢居たことを知った。だが、住友重機械は彼等の力を十分に発揮させる組織体制ではなかったと思える。特に、人の評価が正しく行われる体制ではなかったのだろう、と思う。
だが、この点では公正であるべきだが、実は同時期の高卒や工業高校卒の技術者も、実は非常に能力が高かった。竹中係長には池尻なる工業高校卒者がいたが、僕と同い年だから、僕が配属された時には、既に6年間働いていたことになり、僕が配属された時には、きびきびと客先との対応から設備計画や実施設計を見事にこなしていた。社会人初年の僕にはとても足元にも寄れないレベルであった。それに、そもそも松木親衛隊の松木氏も、課長の庇護はあるものの極めて有能であった。課長の庇護と言うよりも課長を操っているような状態でもあった。土居課長の個性と松木氏の個性がお互いに補い合い、自己中心的な行動が強調されたようだ。ただ時代がゆけゆけどんどんの時代で、その時代の波に乗り傲慢に突っ走ったと言えるだろう。
それはともかく、高卒もまた当時は非常に優秀な人材が多かった。
それに、ベルトコンベヤやクレーンのような搬送機械、Lowテクニカルな設備について、大卒と高卒の違いはなんだろうか?
僕が考えるには、Low tecの技術的問題を解決するに際しては、殆ど能力的には差はないのだが、大卒は広い知識を持っているってことだろう。これを解決するには、あれを使えば良いのだろうと目途をつけるが、その目途の範囲が広いと言うことだ。実際の解き方は知らなくても資料や文献を探せば、計算法とか解決法はなんとか見つかるのだ。単にそれだけの違いだから高卒でも同様に解決できるはずなのだから、結局は、やれば出来ると考えるかどうかの差だけなのだろう。





2020年12月18日金曜日

時々思い出すこと(2) 入社後大阪のコンベヤ課で 畑中さんとの関わり

 一つの思い出が、他の思い出を引きずりだしたら、その思いだした事柄を更に分析したりすることがある。時々思い出すことから続く思い出を書いてみる。
大阪のコンベヤ課に転勤で行った時、柴田課長なる課長が居て、そこには先輩の畑中さんが課長代理の技師で居た。畑中さんは恐らくコンベヤ課を引き継ぐ立場にあったのだろう。
転勤から数日で、畑中さんは僕を連れて浜松の住友セメントの工場に連れて行った。長距離コンベヤの設計打ち合わせだ、とのことで、恐らく畑中さんの部下として手助けすることになるのだろうと思った。が、コンベヤ設備などと称する機械は見たこともなく、どう設計するのかも知らない状態だった。が、打合せから帰ると、畑中さんは、「後は頼む。僕はコンベヤ設備はやめて、自動倉庫設備を開発するのだ」と言って、その設備の設計や交渉の全てを僕に任せてしまった。仕方が無いので、当時、梅田駅前にあった旭屋に行き、ベルトコンベヤの設計に関する本を買い、コンベヤ設備の勉強を始めた。酷い話だが、それが僕がベルトコンベヤの設計を始めた最初の経験だった。
当時のコンベヤ課の主要な顧客は、住友金属の鹿島製鉄所1期工事で、これを担当しているのが土居係長とその親衛隊の松木グループで、社員や設計外注の殆ど(多分40人以上)を率いていた。その他には、畑中さんと2人の係長だけで、その3人の部下は僕を含めて2人と設計外注者3人程度であった。ただ、2人の設計外注者は竹中係長の仕事で手一杯であった。
松木グループは、外注設計者を融通することは一切なく、僕は初めから期待することもなく、自分で設備計画図を書き鉄工物の応力計算も自分でクレモナ線図で軸力を算出して部材選定も行った。が、就職前の大学院でも何でも自分で遣っていたので特に不服は感じなかった。その後、畑中さんの下には、やはり僕の先輩の永井さんなる優秀な人が部下として来て二人で物流設備開発活動を始めたたが、永井さんは外注設計者を融通されないことをブツブツ文句を言いながらも仕方なく自分で計画図を書いていた。こんな事情で、僕は自分以外に頼れないので、出来るだけ当時の電動式計算機や複雑な計算は新居浜のIBM計算機を使うようにして省力化を図った。また、見積りでの設備計画図は自分で書くものの、受注した設備の設計には、主に設計図込みの製作外注で対処した。

かように仕方なく省力化と言うか、何でも自分で遣らざるを得ないので、設備を受注すると、少ない人員で処理せざるを得ず、その結果として、いつも多額の利益を得られるようになった。
先のことになるが、畑中さんと永井さんが物流の拠点を東京に置くとして去ったことで、かなり先の事になるとは思えたが、学歴的には僕がコンベヤ課を継ぐ可能性が出て来た時、それは何回かの不況で仕事がない経験も経て、多くの人員を確保することの困難さを痛感したので、少なくとも社員だけで案件処理できる体制が重要だと、自分で設備の自動計算プログラムを開発することにした。設備仕様だけではなく、構成機器要素の選択や鉄工物の自動計算システムを、土曜・日曜を費やして作り始めて、フォートランでの巨大なプログラムをほぼ完成した時に思いがけず東京に転勤となり、それらのプログラムは、東京での搬送見積り作業に有効に活用できた。

僕は畑中さんの後継者として、特に長距離コンベヤとか巨大設備、それに、何となく搬送設備としては誰も遣らないような特殊な設備を担当することになり、畑中さんが去ったので、佐薙係長の部下として仕事をすることになった。僕は酒も飲まず余り人付合いが良くなく、要するに、人付合いが苦手なので、その点は佐薙係長が得意なので、2人のコンビはお互いに満足するものであったと思う。

畑中さんと永井さんの始めた物流事業は、理解者の少ない社内でなんとか頑張り通し、今ではかなり有望な部門として自立している。が、創始者の彼等はあまり評価されることなく他の部門に出されていった。この辺りが住友重機械の不可思議な一面である。要するに、正しく評価されないことが住友重機械の特性だといえるだろう。要するに指導者の変わり易く恣意的な思惑で事業が推進されるのだ。
だが、それとは別に、彼等の創業時を知る僕は、二人の業績を大きく評価している。
僕が運搬機事業部から追い出されたときには、既に二人は物流事業部からは出されていたが、その設計部に配属された。受け入れ側に望まれない配属であったが、他に行くあてもなく受け入れるより仕方がなかった。ただ、その配属後は、次々と利益の多い案件を受注し物流部門にかなりの貢献をしたと思う。









2020年12月17日木曜日

首相失態への加藤官房長官や西村再生相の弁明は却って傷を深めているようだ。

 二人の援護発言では、「5人以上の会食を是非ともやめてもらいたい」とする政府方針に意味はない、と言ってるわけだが、わざと傷口を大きくしているのかな?
でも既に、コロナの蔓延はどうしようもない事態のようですな。結局何もしなかったのだから。

首相、会食「真摯に反省」

5人以上、与党からも苦言

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菅義偉首相は16日、自身の会食について「国民の誤解を招く意味で真摯に反省している」と述べた。首相官邸で記者団に語った。首相は14日夜、自民党の二階俊博幹事長ら5人以上との会食に出席した。新型コロナウイルスの感染が広がる状況で、与党内から苦言を呈す声が出ていた。

加藤勝信官房長官は16日の記者会見で「会食は目的と感染防止対策を徹底できるかのバランスの中で適切に判断するのが重要だ」と指摘した。

専門家からなる新型コロナ分科会は5人以上の会食はリスクが高いと指摘する。西村康稔経済財政・再生相は同日、改めて危険性の高さに言及しつつ「専門家も何かエビデンスがあって何人以上と言っているわけではない」と話した。

公明党の竹内譲政調会長は慎重な行動を求めた。「誤解を招くような行動はよく考えてもらい、配慮することが必要ではないか」と訴えた。

2020年12月15日火曜日

時々思い出すこと  大阪コンベヤ課で、わけのわからん営業部長と可哀そうな営業員と、雑感

 大阪でコンベヤ設計に従事していたころ、大阪営業の要請で敦賀セメントの見積もり案件が来た。敦賀で大阪営業の岩井部長だったかと、初対面の待合わせをして敦賀セメントの事務所を訪問した。見積りする設備の内容確認で、要求される設備の仕様を客先の担当者に確認し始めたが、通常は、荷重条件から初めて、施設計画に入るのだ。その原則に沿って、先ずは積雪荷重についてから始めた。積雪荷重は基本的には各地方で決められているが、実際には、その地方での各エリヤ毎の特色がある。例えば、東北では重荷重が設定されるが、八戸では殆ど積雪は無い。そのため、その地域特有の積雪状態を確認する必要がある。
そこで、敦賀での積雪の状況を確認したいと思い、担当者に「ところで、敦賀では、雪は良く降るのですかね?」と聞いたのだが、岩井部長が横から大きな声で、「打ち合わせの最中に天気の事なんか聞くな!」と僕を怒鳴りつけた。岩井部長の剣幕に僕が唖然としていると、事態を先に把握したお客さんが、「いえ部長、設備で積雪荷重ってとても重要なんですよ」と僕の代りに弁明したので、事態は収まった。
50年以上経って、夜中に突然、その出来事を思い出して考えたが、恐らく、大学院卒業間もなく学生然としていて、しかも、どう見ても賢そうな顔ではない、つまり冴えない顔付の僕に、不安を持っていたのか、更には、当時の課の主力部隊である課長の親衛部隊から袖にされて、代役の僕に不満をぶつけたのかと思えた。ただ岩井課長も全く冴えない顔の人であった。
そう言えば、大阪営業でやはり親衛部隊長に馬鹿にされていた営業部員が居て、客先からの要請に、せめて所要モーター動力を提示したい、えいっとでも算出してと懇願されて、親衛部隊長は本当に計算もせずに念仏で提出したものだから、その営業部員は面目を失ったとしょんぼりとしていた。僕に頼めばその程度は1時間も掛からずにやってあげたのにと、可哀そう」に思った記憶がある。土居課長や、その親衛部隊長はメリット無いと判断した案件には絶対に手を出さず、そんな時には僕に遣らせることが通常で、この傾向は移動してからの他のセクションでもずっと続いたと思う。後ろ盾がないとはそんなことなのだ。
ところが、親衛部隊長やその後の組織でも、不良案件とされた案件を処理することで、実に、いろんな設備を勉強で来たなあとも思う。大阪では東海道空気圧新幹線とか、未来宅配物搬送システムとか時代の最先端設備計画もやったし、転勤後の東京や物流設備部でも、手を就けるのが困難な変わった案件はいつも僕に回されて来たが、それが却って受注率が高く、それ故に受注すると利益率も高いのだ。繰り返しになるかもだが、住重初めての冷凍倉庫とか、世界最初のごみ処理自動倉庫、それに日本初の中性子滅菌設備を受注できたのもこの過程だ。仕事で最後の住処、環境施設部では20~30億台の受注を何件も出来た。
しかし、住友重機械では利益を上げ続けても評価も称賛もなかった。そこでは、評価も称賛も、別の条件で決まるのだろう。挙げた利益は、他の赤字埋めに使われることはあっても称賛どころか感謝の言葉もなかった。
つまり僕は、僕自身の自己満足だけが得られるのだが、実は、自己満足と言うよりは、生きて行くために頑張ったと言うのが本心だろう。僕は常におびえながら生きていたと言うことだ。
本によると、人は将来得られるものへの欲望は快楽物資ドーパミンを求めての行動らしい。そのために恐怖心を克服できるのだが、僕の場合は、恐怖心が大き過ぎて、快楽物質効果を求めないらしい。むしろ、現状満足物質(これがあるとすれば)の効果が大きいと思われる。だから、上昇志向よりも現状維持を望むのだろう。
そのため、僕は最初の所属部隊に居る時に、その部隊の将来を考えて、見積り・設計自動化プログラムを自分で開発する決心をつけた。将来自分がその部隊を率いた場合に、現状維持と言うか、受注を絶やさず、その部隊を存続させたいと思ったのだ。そのため、土曜・日曜も出勤してプログラム開発を進めた。そうしてそのプログラムは実際に完成したのだが、その時には、東京に転勤となって、その際、何年かで大阪に戻すと約束した人は他所の部署に転勤してしまっていた。その後、東京部隊は解散になり、大阪は、事業部長に東京部隊の解散を提言したチャラチャラ男の逃げ場所の転勤先になってしまった。
そんなわけで、僕のプログラムは屑になってしまった。その後、そのチャラチャラ男は見事に転身して、残された大阪部隊はいろんな経過の後に消滅してしまった。現状満足物質を満足させるには、それなりの周囲把握能力と政治力、つまりは、快楽物質の活動が必要だったわけだ。
僕は今でも確信するのだが、あのプログラムを使い、日本の小規模設備や海外の設備も市場としていれば、今でも着実な受注を得ていたに違いないと思う。これも僕の経験から判るのだが、海外では僕の能力は、日本よりも評価されて発揮されるのだ。他方、日本でも案件は小さくなったものの、信頼できる搬送機器メーカーは着実な受注を得られる時代になったようだ。道はいろいろあったなぁと思う。そんな事を想像するのは、きっと快楽物質のなせる技に違いない。


2020年12月12日土曜日

日本では「私がコロナを抑え込む」との決意を見せる政治家も感染症有識者も不在だ

 机上の空論好きと、他人事解説が日本社会のリーダーたちの特徴だな。コロナ対策のトップの尾身会長も厚生省も、全て「他人事」の発表会で、それを、誰も責めないって過去と同じだな日本社会は。

「ステージ3」さらに3段階 細かい分類に自治体困惑

東京「分かりにくい」/大阪「あくまで参考」

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定例記者会見で「感染防止対策点検済」と書かれたステッカーを紹介する東京都の小池知事(11日、都庁)

新型コロナウイルスの感染急増地域をさらに3段階に分け、時短要請などの判断基準とするよう求めた11日の政府の新型コロナ対策分科会。細分化される基準の目安は示されず、判断を委ねられた都道府県からは「分かりにくい」との声が相次ぐ。独自基準を設けている自治体は「あくまで参考」と突き放した。(1面参照

分科会はステージ3相当地域を「拡大継続」「高止まり」「減少」の3段階に分類。拡大継続や高止まりの段階では、飲食店などに営業時間のさらなる短縮要請を求めたり、不要不急の外出自粛を要請したりするなどの強い対策が必要とした。

「(国の基準は)都の分析と目安の違いがあり、分かりにくいところがある」。東京都の小池百合子知事は11日の定例記者会見で、細分化が進む国の分類に苦言を呈した。都は幹部や専門家が出席する「モニタリング会議」を週に1回開き、感染状況と医療提供体制について、それぞれ4段階の警戒レベルで独自に評価している。

新規感染者数や陽性率、重症者数など判断に用いる7項目に具体的な数値基準は設けず、感染症や救急医学など複数の専門家の話し合いで決める。現在は感染状況が最も深刻な「感染が拡大」で、医療提供体制が2番目に深刻な「体制強化が必要」。福祉保健局の担当者は「国の分類には基準が不明確な部分が残る。自治体ごとに医療体制などの事情は異なり、基本的に都独自の指標に沿って分析や対応を検討していくことに変わりはない」と話した。

新規感染者数の増加傾向や重症病床の逼迫状況に応じて「緑」「黄」「赤」の信号を点灯する「大阪モデル」の大阪府。吉村洋文知事も「地域によって医療体制など差がある。国の指標は参考にしながら大阪モデルを重視していきたい」と距離を置く。

府内では7月中旬から約4カ月半ほど黄信号が点灯していたが、「第3波」の拡大で11月中旬から重症患者が急増し、12月3日に非常事態を示す赤信号を点灯した。分科会が11日に公表した3段階の分類について、府の担当者は「参考基準として注視するが、大阪モデルによる判断は継続する」と話した。

「昨日から分科会の資料をインターネットで探しているが見つからず、内容がつかめない。どう動けばよいのか」。沖縄県の新型コロナ対策本部の担当者は困惑を隠さない。県は6月から独自指標を利用し、「第2波」の8~9月には独自に緊急事態宣言を発令するなど、感染抑制のために対策を講じてきた。

足元の感染状況は落ち着かないが、県は11月30日に政府の需要喚起策「Go To トラベル」について「県内経済団体の期待が大きい」として継続する方針を示した。一方で周囲を海に囲まれ、医療が逼迫しかねないという危機感もある。「年末年始の帰省シーズンが近づき、県内でも警戒が強まっている。3段階設定の判断材料や基準を煮詰めて早急に通知してほしい」と求めた。

4段階の独自指標を定めている愛知県は現在上から2番目の「厳重警戒」レベル。指標は直近7日間の新規陽性者や入院患者、重症者の人数、陽性率が目安で、最も厳しい「危険」になった場合、県は独自の「緊急事態宣言」を出す。

大村秀章知事は11日の記者会見で「医療体制が本当に厳しい状況になれば緊急事態宣言も選択肢に入る。現時点ではぎりぎり踏みとどまっていると思う」と話した。8月に続いて繁華街に時短要請しており、県の担当職員は「壊滅的な被害を受けている事業者もおり、経済を回すことは非常に重要だ。一方、県民の危機感が薄れているようにも感じ、行政は非常に難しいかじ取りを迫られている」と明かした。

2020年12月8日火曜日

IH(クッキングヒーター)の故障 と対策 (取替)

 15年来使用のクッキングヒータが故障した。そのクッキングヒーターには、3口あり、内一口はラジエントヒーターとなっている。ラジエントヒーターとはニクロム線使用の、小さな鍋で小さな火力で良い場合に使う。故障したのは、通常のヒーター2口のうちの1口で、電源を入れると5Hなる警告表示が出る。取説では、H表示の場合はパナソニックからの修理員派遣が必要らしい。そんなことになれば、1万円程度は確実に掛かる。それなら買換えかと、調べ始めた。
台所のビィルトインタイプなので、台所の調理台に組み込まれている。そのため、簡単には購入できない。使用中のが、PanasonicのQGS-31EB1Kだ。NETで調べるが余りに古いのか説明書関係は検索できない。そこで、保管中のカタログ・施工説明書を調べた。その寸法関係・電圧(2相200V)から、KZ-G32AST とかKZ-G32ESTと同一であると判った。

https://kakaku.com/item/K0000992406/?lid=20190108pricemenu_hot
ASTの方が安く、ESTは遠赤外線を使えるのでかなり高くなる。
そこで、発売業者を調べたが、現金の送金ではなくてクレジットカードで支払いできる店、それと、在庫ありで即納できるか、関東地区であること等で店を調べて発注した。
その際、取付けも含めて頼むべきかどうかは、手持ちの資料と、NET情報とで調べた。
https://sumai.panasonic.jp/ihcook/lineup/dl/
それによると、調理台側に必要な加工寸法は同一で、電源は差し込みで可能なようだ。必要なソケット仕様も全く同じだから、ソケットに差し込みプラグを入れるだけのことだ。施行説明書の電気工事のところに、電気工事士の資格が必要と記載されているが、その必要は全くなさそうだ。(僕には資格はあるけど)そこで、自分で取り付けるとして、本体のみを購入とした。問題は、調理台の穴に入れる要領だけのようだ。が、それも斜めに入れて行くことで出来そうだ。
発送は明日とのことなので、取付要領を勉強した。

本品の自重は18kgもあるらしい。既設品は更に重いだろうが、取り外せる物は取り外しても18kgはありそうだ。新規品の取付よりも、斯様に重たい既設品の持ち上げ方が難しい。下にもぐりこんで電源ソケットを外してから、斜めに上に押し上げて、何かを差込んで保持して、外に出て上の奥の方から持ち上げるって手順になりそうだ。周囲の邪魔ものを徹底的に整理してからの作業になりそうだ。

荷物の到着が遅れている。
12月11日の朝 3時頃に目覚めて、本品の取付について心配になった。600X600mmで重さが17kg近くある。撤去するべき古いのはそれより重い。果たして一人で撤去・新品取付けが出来るだろうか?取り付けも(12000円程度掛かるが)一緒に発注が良かったか?等と考えて眠れなくなった。夜中に起きてメジャーを持って撤去・取付け手順を考えた。撤去時は下から押し上げて調理台との隙間に板をはさみ、その隙間に指を入れて持ち上げられる。600mmとの寸法は、台所の周辺ではそれほど嵩を取らない。これなら何とか出来るかなと思った。撤去取付けが出来れば、後は撤去品の分解と分解品のごみ処理だ。

大学入試でも、仕事でも、かって眠れないなんてことはなかった。
夜中に眠れなくなるとは、気力も衰えたものだ。

昼食を終えて昼食で使っていた既設のIHの残った一口もお休みになったので、商品が到着する前にと既設品の撤去を始めた。調理台のIHの下の引出しを整理し、グリルを外してから、体を仰向きに入れ込み、後部のソケット部を確認した。コード長さは十分にありそうだった。前後の固定装置を解除したが、ネジを緩めると解除になるのではなくて、緩めてから固定装置を指で解除位置に移動させることが必要であった。固定装置解除後に下から後部を上に突き挙げてくっつきを外し、次いで外に出て上から全体を挙げたがやはり想定通りかなり重かった。が何とか取り出せた。

後の油汚れの処理が大変であった。

新品が到着したので、部品の確認をしてから、添付の工事説明書に従って取付けを始めた。商品重量が軽くなっていて、わりに簡単に取付けを終えた。

試運転して動作を確認した。やれやれ、今晩はゆっくり眠れそうだ。

翌日、撤去した既設品を仮置きした居間から外に出そうとしたが、重くて持ち上がらなかった。馬鹿力も火事場だけらしい。そこで分解を始めたが、かなり分解してしてから外に出して、外に出してからは、ついでに、大きな板金は金切りバサミで切り込みを入れて折畳み、大きなプラスチック枠は分解した。あの巨大なIHの全てが可燃ごみと不燃ごみ、それに銅線や基盤に分別できた。これで完了だ。