2020年12月28日月曜日

相変わらず出勤の夢を見る

 会社に出勤しようとしている。大きな駅で乗り換えるのだが、その駅が、どうやら大阪駅らしいが、確とは判らない。行き先駅は恐らく難波か?地下鉄に乗れば行けるはずだと乗換の地下通路を人の群れに追いて行くのだが、階を移ると、突然人通りが無くなり、どこに行けば良いか判らなくなる。うろうろと探し続ける。小便をしたくなってトイレを探すが、なかなか見つからない。目を覚まして、トイレに行く、がここは既に現実だ。
なぜ、こんな夢をみるのか、合点が行かない。
今度夢を見たら、地下通路をもっと冒険したい、と言うか、それほどの余裕を持ちたい。

2020年12月26日土曜日

ときどき思い出すこと(6)  八戸長距離コンベヤのトラブルについて

 八戸の長距離コンベヤも据付に入り、大阪からは宮崎さんと遠矢君が据付指導で派遣された。
据付は順調に進み、試運転段階になったある日、現地から試運転中にno.5コンベヤのベルトが切れたとの連絡があり、慌てて現地に向かった。
上野駅から寝台車で八戸に向かったが、寝台車の中で計算尺を使ってベルト張力計算の見直しをした。しかし、張力計算に誤りはなく、しかも無負荷運転でベルトが切れるほどの張力が発生する可能性は皆無であった。それに、長距離コンベヤの畑式計算式の正しさは、前年の夏場に確認している。畑中さんの設計した秋吉の長距離コンベヤには凹部があり、夏場になるとその部分で落鉱が生じるとのことで調査したが、夏場にはローラコンベヤの摩擦抵抗値が下がるとして、通常は0.02~0.03を0.12として計算すると、凹部できっちりと無張力になると確認して、電動テークアップの設定値を夏場には上げることで解決できたのだ。計算は確実だと確認し、そこで、レイアウト図を見直して、事故原因の可能性に気付いた。

No.5コンベヤは、地下道を通り、鮫港への断崖を抜け出して国鉄の上を通り、そこで方向を若干変えて鮫港へと向かう。架台はかなりの高い位置なので、ベルトの緊張用ウェイトを吊るし、その下に電動式緊張装置を設けている。そうすることで伝動装置の動力を少なく出来たのだ。そのため、ウエイトの下を伝動装置がワイヤーロープで引っ張っているわけだ。しかし、良く図面を見ると、ウエイトが傾くと、引張ワイヤロープはその傾きを助長する動きになることに気づいた。その結果、ベルトがずれて側面から亀裂したと思われた。
結局殆ど寝ることなく現地に付き、そのまま、総合事務所を訪れ、菊池プロマネに説明した。計算書を説明し、事故原因の推定も説明してから、ガイドローラを付ければ解決できると説明すると納得してもらえた。
住重の現地事務所に帰り、宮崎さんに説明すると、彼も同様の推定をしてガイドローラは既に取り付けたとのことで、その現場で起こった唯一の問題は解決した。さすが宮崎さんだ、と思った。

ところで、No5コンベヤの先端部から、港頭のサイロに上昇するコンベヤは、見事な懸垂曲線で設計したが、今では、工場史跡を愛好する団体からは、銀河特急の発車駅だと伝えられている。興味のある人はグーグルで八戸鮫港で検索すると見ることができる。また、港頭施設全体の夜間稼働時の夜景は見事だとの評価もある。

菊地プロマネの所に行き、その結果を説明すると、直ぐに納得され機嫌が良くなった。その頃には菊地さんの信頼感を打合せの度に感じるようになっていた。最初の不安そうな様子は微塵も感じることは無くなっていた。佐薙さんからは、菊池さんが僕に結婚相手の世話をしようかと言っていたと聞いた。が、すでに女房と付き合っていることを知る佐薙さんは、そのことを菊地さんに伝えたとのことだった。
なお、住友セメント八戸工場の斎藤係長は、かなり厳しい人との噂もあったか、なぜか僕には機嫌よく対応してくれた。その後一生を通じて、いろんな会社のいろんな客先と対応したのだが、結局は真面目に対応すると、人は真面目に対応し評価してくれるものだと言うのが僕の人生で、何故か自社内だけはそうでない人も大勢居るようだ。

ベルト切断の件は解決したので、現地事務所に戻ると、宮崎さんが施設の見学をしろと言う。ちょうど最長のNo2コンベヤの試運転を開始するから、その頭部の駆動室に行くと良いと言う。遠矢君が車に乗せて連れて行き、僕を駆動室に置いて去って行った。駆動室内を見て回っていると、明電舎の指導員が来て、試運転の指揮を始めてくれと言う。話を聞くと、僕が指揮することになっているのだ、と言う。どうやら、宮崎さんと遠矢君がそのように段取りしていたらしい。しかも、試運転を見学に大勢の住友セメントの入社社員が集まって来た。仕方なく、駆動室の前後に配置された立会人に大声で声を掛け、設備状況を確認して、通話装置を経由して後部の状況を確認して、運転開始~と怒鳴り、起動を指令した。無事最高速迄の起動を確認して、各部状況を確認し、設備停止~とした。宮崎さんと遠矢君に何故斯様な状況になったのかと尋ねた記憶はない。そのことを尋ねてみたいと時に思うのだ。

菊地プロマネ(当時は次長)は、その後、八戸プロジェクトの成功を評価され、住友セメント彦根工場の工場長に栄転された。が何年か後に、急性のガンで亡くなられたとのことだ。



東京都で1000人突破は時間の問題 だが、行政は馬鹿の一つ覚えで「3密、3密、3密」

 

東京、最多の949人感染 増加歯止めかからず、新型コロナ

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共同通信

個人の感染防止策に限界~新型コロナ、専門家が強い危機感~

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時事通信

 ◇予想上回る感染者の増加

 ◇20年夏とは異なる状況

2020年12月25日金曜日

ときどき思い出すこと(5)僕と物流部隊とのかかわり

 物流部隊の創始者たちと言えば、森さんを忘れてはならない。畑中さんと永井さんが頑張っている時から、森さんが関わっていた。どんな立場で関わっていたかまでは知らないが、かなり深い関わりと見えた。
永井さんと森さんが米国の物流学者の原本の輪読勉強会を始めて、僕にも声が掛かった。加わったのものの、内容はかなり哲学的なもので僕には良く判らなかった。そのため、輪読中に僕は居眠りを始めて、2人を困惑させた。
僕が別の階で八戸の長距離コンベヤの、頭部架台の計画図を書いている所に、たまたま永井さんが来て、僕の図面を覗き込んで、「やる時はやるじゃないか」と声を掛けたが、永井さんの米国主張中に、僕にスタッカクレーンを任せても大丈夫かな、との様子を見に来たと思えた。
ところで、永井さんは仕事だけでは無くて、私生活も行動的な人で、ある時には、奈良の西大寺近くの住宅敷地の見学に連れてゆかれた。公私ともに幅広い人だなと感じた。

他方森さんも明るく楽しい人だが、加えて幅の広い人で、森さんと話していると、自分の視野の狭さを感じさせるような間口の広い意見を示す人で、いつも圧倒される思いであったが、何かの折に、女房が福岡の添田出身だと話すと、森さんが下関出身で、若い時に足を骨折して、その治療のため遥かに遠い添田の宮城接骨医に通ったのだと話し、奇妙な繋がりがあるものだと感じた記憶がある。宮城接骨医はそこまで有名なんだとも驚いた。但し今は接骨はやめて消化器内科となっている。

物流部隊には、その後、八木さんを初め次々と人員の補給があり、更には東京に移動して僕の出る幕は無くなった。その後、何十年かしてお世話になるとは思いもしなかった。更にその後、永井さん、それに森さんと会う機会があり、共に仙人のような姿であらわれた。森さんはともかく、ダンディボーイの永井さんの姿は想定外であった。

皆が年を経て、森さんは昨年なくなった。あの明るく楽しい森さんが亡くなるとはと思う。とともに、死が他人事でなくなった思いがいよいよ強くなった。

2020年12月24日木曜日

コロナは何の手も打たないから、どうしようもないでしょう。

 無能な政府も無能な感染症対策会議や感染症学会も、口だけで抑えようなんて無理よね。もうあきらめよう。
恐らく、政治家・厚生省や対策本部は、「PCR検査を増やすと治療体制が逼迫する」との論理で何もしないと決めたのだろう。だから何もしないで、口だけで国民の責任だと押し付けているわけだ。たいした連中だ。

【速報】東京で新たに888人感染確認 過去最多 重症者は73人

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2020年12月22日火曜日

ときどき思い出すこと(4)入社6か月後大阪に移動してから八戸長距離コンベヤ建設

 畑中さんから引き継いだ住友セメント浜松工場の長距離コンベヤは、無事客先との打ち合わせを終えて設計製作の段階に入った。さすがに自分だけでは製作図までは書けず、岐阜羽島駅近くの郷鉄工所に設計込みで発注した。郷鉄工には既に畑中さんがほぼ手配していたのでそれだけは助かった。

鉄骨構造物の殆どを製作した時点で、据付工事の手配を終えようとしたが、その時点で客先側の用地買収が難行して、製作品を郷鉄工に預けたまま、用地買収が完了するのを待つことになった。それにしても数千万円の仕事を入社一年の社員に任せるとは酷いなぁ、と思った。客先である住友セメントの白井課長は僕を相手にはもっと心配であっただろう。

だが、次の仕事はもっと酷かった。八戸の本格的な長距離コンベヤであった。浜松工場のコンベヤは何本かに別れていてその全長は1km程度であったが、八戸のコンベヤは、6本のコンベヤで総延長は8kmもあった。こちらは佐薙係長と僕での対応で、佐薙さんは概ね客先との価格交渉や人間関係が主で、その他の全ての作業は僕であった。渡された計画書に従って、全体レイアウト図を作り東京に行き、客先ビルでの打ち合わせに臨んだが、客先は住友石炭と住友セメントの上層部が一堂に会して、その前で僕が技術説明したのだが大勢の年寄りを前に足が震えた。企業生死をかける大型プロジェクトのプロマネが、大学卒そのままの若造で客先も驚いただろう。特に、そのプロジェクトの責任者菊地常務は不安であったろうと推察できる。若造のプロマネが、自筆であろうと推察できる稚拙な図面や計画案を説明するのだからこれも酷い話だ。
幸いなことに、設備群は、地下100mから地上に、爆破された石灰石を地上部まで運ぶ斜坑コンベヤと、山元から八戸鮫港の港湾設備と、住友セメント八戸工場に石灰石を運ぶコンベヤとで構成されて、斜坑コンベヤ、それに、長距離コンベヤも騒音対策のために全て地下収納で、地上配置のコンベヤフレームが殆どで、7か所のコンベヤ接続部だけに架台がある比較的簡単な構造で、全てを自分で計画図を書き、その計画図に基づいて、詳細図は、竹中係長傘下の2人の外注さんに書いてもらうことになった。
本格的な長距離コンベヤの日本における実績は住友セメントの秋吉鉱業所での設備で、住友石炭がエンジニヤリングして、全長12kmで5本のコンベヤを、住重・産機工業、日本コンベヤ等5社が1社で1本ずつ担当して納入したが、八戸のは僕一人で全コンベヤを処理することになる。なお、秋芳鉱業所の住重分は畑中さんが主として担当していて、その計算手法を住重技報に報告していた。これを参考に、更に、コンベヤ設備の先進国であるドイツの文献も自費で集めて勉強した。環境条件も厳しく、騒音や散水システムの勉強も必要となった。これらの勉強はその後の仕事でも多いに役立った。
ほぼ計画の目途がついた時点で、土建建築担当の鹿島建設が現地事務所を建てて現場工事を開始するので、機械設備との摺合わせのために現地で対応しろとのことで、真冬の八戸現地に出向となった。現地での総合ミーティングで各コンベヤの駆動室の大きさが大きな問題となった。駆動室も地下に設置されるので、巨大な空間が必要となり土建上の、特に建設コストが問題になるのだ。実は大阪での計画で、苦労したのが駆動室の寸法であった。特に重要なのは、減速機の様な大物を撤去、搬入する経路だが、いろんな寸法決定要素を設定して、各駆動室ごとに決めたのでかなりの厚さの計算書になった。最初の総合ミーティングで、突然その点が指摘されたが、予想していなかったので、かなりの枚数の生原稿の計算書をそのまま検討書として、その事務所にあったコピー機を使い、大量にコピーして配布して説明した。その詳しい検討状況に納得した様子で、何の質問‣指摘もなく了解された。
しかし、この件は今でも時々思い出して、ひょっとすると、経験を積んだ今なら、もっと小さな駆動室に出来る可能性があったかもしれないと、悩むことがある。地上から見るとそれほどではないが、地下に入るとそれほど大きな駆動室なのだ。但し、秋芳長距離コンベヤも地下の駆動室は同様に大きいのだ。

かくして、その他に大きな問題もなく、現地対応は一か月程度で順調に終えて大阪に帰ったが、間もなく、本件は一時中止となった。産出する石灰石が高炉には品質的に合わないのではないかとの根本的な問題が生じたのだ。

そのため、力が抜けている時に、永井さんが仕事を頼んできた。自動倉庫用スタッカクレーンの計画図を書いたが、米国に出張するので、その製作図を全て頼むとのことで、その説明の数日後には米国に出発してしまった。残されたのは、1番の製図用紙に書かれた計画図一枚であった。ただ、新居浜のそう開工務店からの若いのを一人付けてくれたのが救いであった。わざわざ新居浜から出張で呼ぶとは高くついたことであろうが、仕方が無かったのだろう。その若者は、バックパックで世界旅行をしていたとかの、なかなかタフな男で使い甲斐があって本当に助かった。
電気関係は茂田井さんが担当であった茂田井さんは新婚直ぐで、とても幸せそうであった。
他方、僕の方は、それからは、朝8時に出勤して夜の11時に退社して、土曜日曜関係なく計画図の製作図起こし、製作工場への出図に明け暮れた。夜の12時頃に家に帰り飯を食って寝るだけの生活であった。土曜が半ドンの時代に、残業が月200時間なんて超人的であった。
こんなわけで、我社物流部門のスタッカークレーン第一号機の設計は、僕の手で為されたと言えるだろう。その後永井さんは帰ってきたが製品は殆ど出荷されていて、そのまま据付現場に行き、僕には「昇降台の在荷検出、オーバーサイズ検出を機械式で作って欲しい」と言い残して行った。計画を始めたが、畑中さんが入社新人を連れてきて、面倒を見るようにと言った。なぜ僕が物流の新人の林君と内藤君の面倒を見るのかが判らなかったが、八戸の件が中止のままなので良しとした。
2人に指示して機械式検出器を作ったが、現地に送ると永井さんから電話が掛かって来て、「機械式ではガチャガチャで無理だったから電気式にした」との連絡があり、そうだろうなと思った。ついでに、僕の実施設計の不具合点も指摘してきた。一つはポールと走行台の接合部に穴は不要だとのことで、僕としては重量軽減のために穴が開いていると誤解したのだった。もう一つは、厚肉鋼管を昇降用巻胴としていたのだが、ワイヤーの巻き数が多すぎて、昇降台を下げてもロープの巻が残っているとの、2点であったが、文句を聞きながらも、あの短期間の設計で良く出来たものだと安堵した。
この最中に、新人の林君が、会社の検診で結核だと判り入院したと聞き、当時「片町線」と称された田園地帯の真ん中を走る鉄道沿線で、四条畷辺りの田んぼの真ん中に建てられていた療養所に見舞いに行った。彼が復帰する頃には、物流部隊は東京に移動していたので、林君はそのまま東京に行き、その後彼と会うのはずっと後年に東京で通勤中に出会っただけである。どうやら彼は我が家の近くに住んでいて、我が家が駅から15分だと言うと、遠いなぁと言っていた。物流は給料が良かったのだろうか?

スタッカークレーンの仕事を終えた頃に、八戸設備計画が再開して、長距離コンベヤと接続する港湾施設や住友セメント八戸工場内の施設が追加発注となり、その方は、中途採用の芝野君が部下になり、それも、従来設備なので、僕は長距離コンベヤに専念し、従来設備はほぼ佐薙さんが面倒を見てくれた。

その頃、コンベヤ部に管理課が出来て、山崎課長らが移動してきた。その部下に宮崎さんなる住友石炭から移動してきた人が居て、八戸の担当になり据付の面倒をみてくれることになり、僕の負担はかなり軽減された。しかも彼は長距離コンベヤに関して有名な吉田龍夫さん
https://core.ac.uk/download/pdf/39334449.pdf
と一緒に働いていたとのことであった。
当時、僕は、長距離コンベヤの制動時の張力分布、特に、制動時に駆動プーリー部でのベルトのスリップをどうすれば良いのかと悩んでいたが、たまたま僕の席に寄った宮崎さんに聞くと、「制動前後でベルトの長さが一定であるとすれば良い」とアドバイスしてくれて問題は解けた。発電制動時のコンベヤ挙動は入社後初めてで最後の初級微分方程式で解けたし、で長距離コンベヤの解析はほぼ終了した。吉田龍夫さんの解法は、その機器の特性からフーリエ級数で張力変動を解析しているが、面倒過ぎて実施には不向きと解読はあきらめた。

この頃から住金鹿島の一期工事が終了近くになったようで、松木親衛隊の抱えていた若手社員や同和設計の外注さんが我々外様社員にも使えるようになった。
松木親衛隊は手持の社員や外注の仕事を確保するために無理な受注をするようになったようで、敦賀セメントの工場内搬送設備を受注した。その設備では通常は購入するバケットエレベータやチエーンコンベヤ類も自作としていた。が、斯様な低レベル機器で専業メーカーに勝るのは少々無理もあり、かなりの赤字となったらしい。その頃、八戸設備の管理を担当していた宮崎さんが同時に敦賀の設備も管理していて、僕に、八戸の利益を敦賀に回してすまんね、と言ってきた。
八戸の黒字は敦賀への補填で困ることもなく、佐薙さんが利益の出し過ぎだと事業部長に怒られたそうである。僕としては最小限の人員でプロジェクトを推進すれば、かなりの黒字を達成できるとの自信が出来た。実際に、生涯を通じてこれを推進して、どうしても受注をと無理した案件でも工夫してこれを実行できたと思う。


他方、土居課長と松木親衛隊は、さすがに世間の動向を見ていて、その後は、石炭火力設備、更には韓国への賠償案件としての高炉設備へと進出して利益をあげて行った。
が、行け行けどんどんの時代の終了と共に、その神通力は衰え、トルコの設備では大赤字を出して、その後はいよいよ時代に取り残された。他方、畑中さんの物流設備は今でも生き残るどころか、時代の寵児として多いに頑張っている。
僕はと言えば、既存搬送施設の設計製作のコンピュータ化の夢は、住友重機械の社風には合わず、時を得ぬままに終ってしまった。しかし、異動して行った先の物流施設部でも、環境施設再資源化施設でも、その技術を応用して、しかも生涯受注総額は100億円近くで、利益は少なくとも10億近くの利益を挙げることが出来た。それが僅かながらも慰めになっている。






2020年12月19日土曜日

ときどき思い出すこと(3)入社後住友重機械で僕の経験したパワハラなど

 僕が大阪コンベヤ課に配属された時、何かの折に、何歳か年上で亀田さんなる神戸大学工学部卒の人が僕の配属前に居て、土居係長に激しく怒鳴られながら居たとの噂を聞いた。その次に、北海道大学工学部卒の神野さんも居たが、彼もまた、土居課長に怒鳴られながら仕事をしていた。幸いなことに、僕は土居係長の下ではなく、畑中技師の部下として配属され、その後、畑中さんの新規事業への移動に伴って佐薙係長の部下に配属された。が、亀田さんに関する噂や、神野さんへの対応を見て、土居係長には心の底に反感を感じていた。しかし、神野さんが怒鳴られる様子を見て、なぜ反論しないのだろうと、その意気地の無さを軽蔑する一面もあった。がしかし、自分がその立場になった時、土居課長(彼はその時点では課長になっていて、自動的に僕は彼の部下になってしまったのだ)の傍若無人な叱責には、まともな人間は反論できないことを思い知った。それは実際にそれを経験して判るのだが、理由にならない悪意に満ちた理解不能な叱責は、反論することに恐怖を感じるものなのだ。
その観点で、神野さんの受注実績や実施実績を見ると、その仕事は、軽快ではないが、実直で確実で信頼の出来るものであった。亀田さんについては、彼の実績はしらなかったが、彼は最終的には畑中さんや永井さんの物流部門に引き抜かれ、特に、自動倉庫のコストダウンに従事した。僕が物流部門に移動してから、物流施設の見積もり業務をした時に、亀田さんのコストダウンや標準化の結果・成果が極めて効果的であったことを知ることになった。亀田さんの技術力に感服したものだ。土居課長にぼろくそに貶されたとしても、実際には素晴らしい技術力を持っていたようだ。
これらの経験から、僕が住友重機械に入った頃には、住友重機械に就職した大学工学部卒には極めて優秀な技術者が大勢居たことを知った。だが、住友重機械は彼等の力を十分に発揮させる組織体制ではなかったと思える。特に、人の評価が正しく行われる体制ではなかったのだろう、と思う。
だが、この点では公正であるべきだが、実は同時期の高卒や工業高校卒の技術者も、実は非常に能力が高かった。竹中係長には池尻なる工業高校卒者がいたが、僕と同い年だから、僕が配属された時には、既に6年間働いていたことになり、僕が配属された時には、きびきびと客先との対応から設備計画や実施設計を見事にこなしていた。社会人初年の僕にはとても足元にも寄れないレベルであった。それに、そもそも松木親衛隊の松木氏も、課長の庇護はあるものの極めて有能であった。課長の庇護と言うよりも課長を操っているような状態でもあった。土居課長の個性と松木氏の個性がお互いに補い合い、自己中心的な行動が強調されたようだ。ただ時代がゆけゆけどんどんの時代で、その時代の波に乗り傲慢に突っ走ったと言えるだろう。
それはともかく、高卒もまた当時は非常に優秀な人材が多かった。
それに、ベルトコンベヤやクレーンのような搬送機械、Lowテクニカルな設備について、大卒と高卒の違いはなんだろうか?
僕が考えるには、Low tecの技術的問題を解決するに際しては、殆ど能力的には差はないのだが、大卒は広い知識を持っているってことだろう。これを解決するには、あれを使えば良いのだろうと目途をつけるが、その目途の範囲が広いと言うことだ。実際の解き方は知らなくても資料や文献を探せば、計算法とか解決法はなんとか見つかるのだ。単にそれだけの違いだから高卒でも同様に解決できるはずなのだから、結局は、やれば出来ると考えるかどうかの差だけなのだろう。