3月10日の夜、NHKの技術解説員は、「発症者は52人/日が今日は半減した。恐らく2週間前からの政府の対策が効果を示し始めたと思われる」と解説した。
ところが、明けて今日は、再び、発症者数が最大数になるとの予測がでた。おそらく、夜間に多くの発症者が検査の結果でたのだろう。
そもそも、技術解説者の示した最大数52名/日そのものも、何か意図的な数値と思える。
東北大震災で、NHKの解説者は、原子炉の底は極めて厚く、原子炉が破壊されることは無いと言い続けていた。が、結局、原子炉事故の初めころには底が抜けていたことが判った。それも、多くの科学者は、原子炉が破壊されていないと検出されない筈の放射性物質が、事故の初め頃には検出されていることに気付いていたのだが、誰も声を大にすることは無く、後から、そう言っていた。それにも拘わらずNHKの解説員は呆けたことを言い続けていたわけだ。
これらのことから、一般人は、政府やオーソリティの言葉をそのまま信用してはならないことが判る。常に懐疑心を持って彼等の言うことを聞かねばならない。彼等の理屈は、AだからB、BだからC、CだからD、と説明するが、AだからXの場合もあることを常に考えねばならない。でないと、最後に地獄の断崖へと導かれることになる。
民放においても活躍するコメンテーターで、例えば5チャンネルの村中璃子などは、話題を常に政府施策が正しいとの結論に向けて行く。われわれは、それらを見抜きながら生き残る方策を考えるべきだろう。
これらの状態を見ると、政府関係者、それと、彼等の御用聞き知識人は、検査数を増やせたくないとの思惑で一致して行動しているようだ。問題は何故検査数を増やしたくないのかだ。
恐らく、発症者が把握できると患者数が多くなり医療崩壊が起こるとの思惑だろう。
だがその論理は根本的におかしいのだ。若し、検査をせずに発症者を放置するとコロナウイルス病の終息を止められないことになる。
なぜ、この論理を政府関係者が理解できないところが、不思議と言うか理解できないが、日本の指導者達が昔から有する異常さなのだろう。
3月12日の日経朝刊によると、「疫学調査を優先し、疫学調査では、検査方法を国立感染症研究所の認める検査方式(多分、PCR検査法)で検査しないと調査データのばらつきだ出る。そのため、検査能力に制限があった」とのことだ。疫学調査を優先することで、検査が遅れて、亡くなったり重症になった人への配慮はどうなるのだろうか。国民は実験動物かね、と聞きたい。
更にその後の経過からすると、感染症研究所が採用しているPCR検査法が、偽陽性・偽陰性の割合がかなり多いことが判り、彼等は一時自信を無くしたが、その検査法の欠点を、検査数を多くしないことの理由に置き換えたものだから、検査数を増やすことが出来ないとのジレンマに陥った様子が伺える。
更に、上記に加えて、「検査数が増えると、感染者が多く見つかり、彼らが入院することで医療能力が不足して、医療崩壊が発生するとの論理が、マスコミ上で、当然の事のように披露されている。
この論理は、政府の良く使う論理で、A⇒BとB⇒Cが正しければ、A⇒Cとの短絡論理で、検査数が多いと多くの発症者が見つかるが、全発症者を入院させない場合を考慮から除外しているのだ。つまり、検査しないことの理由を、むりやり捻じ曲げて造り上げる論理なのだ。
かような論理をマスコミ上で披露しても誰からも矛盾の指摘が無いことが、現在の日本社会の情けない実情だろう。
3月16日のひるおびでは、総合司会の恵氏が、検査数を多くすると医療崩壊するとの論理を熱弁で展開していた。彼は、彼の頭で考える以上に、その考えを彼の頭に植え付けた人が居て、軽症保菌者がうろつきまわる事態を考えていないらしい。また、検査数を絞って対応している大阪方式を礼賛していたが、そんな大阪には、老人は行けないなぁと、改めて考えた。
同日夜に、NHKのコロナウイルスの不安って番組で、視聴者から、なぜ検査数を増やさないかとの質問に、その場のコメンテーターではなくて、経験ある学者(多分 尾身氏)へのインタビューでの回答が放送されたが、この人は、明確な回答を避けるかのように、論点をずらしていたようで、「PCR検査法は、検査結果が明確でなく、陽性者の中に擬陽性者が50%も居る」と、言い出した。その方法は、国立が採用している検査法と違うのだろうか?いやそんな筈はない。結局良く意味が判らなかった。更に、「肺炎になったのに対処するのが確実だ」等と、血迷ったことを発言していた。つまり、検査数を増やすことの効果を認めておらず、その効果も全く認めていない様子だ。
それはともかく、ひるおびでの論拠とは全く関係の無い論理になってしまった。
なお、3月19日の朝おはよう日本では、視聴者のPCR検査の精度は悪いのですかとの質問には、別の医療関係者は日本では決まった手順での検査なので検査精度は良いと回答していた。
なお、3月16日にはWHO議長は「コロナウイルス撲滅には、検査、検査、検査があるのみだ」と力強く発言していた。僕も、その通りだと思う。
3月18日の「みやねや」で、医者が「感染者数が少ないのは、検査数がすくないからで、これは政府が、検査数を抑えて感染者数を抑えるためだ」と発言すると、コメンテーターが「しかし、海外に比べて重症者がすくないから、感染者数が少ないのも事実ではないか」と問うと、肺炎で死亡する人は大勢います。そこで、100人とかの数が増えても判らないですからね」と答えられて、コメンテータは、言葉を失った。しかし、この悲惨な話は真実であろうと想定される。とにかく、検査数が絞れば当然生じる状況なのだ。
3月22日のたけしのTVタックルを見て確信できたことは、日本では検査数を絞っているのは事実で、その理由は既に記載した様にを①医療崩壊を生じさせない②コロナウイルスでもインフルエンザと同様に、抗体を持つ人間を増やす、との2点を目的として意図的にやっているらしい。コロナで肺炎を経て死んでも、それは元々、肺炎で死ぬべき運命だったとみているのだ。
問題は、かような馬鹿げた論理でコロナウイルスへの対応を決定されているなら、隠れ発病者が動きまわることで大流行となる可能性が高いことで、その場合に誰も責任を取ることなく、仕方なかったと弁明して事は終えることになるのだろうと予想できる。
出来得るなら、行政や医学界の馬鹿老人達が出来るだけ多く死んでくれるようにと期待したい。
なお、たけしのTVタックルで、尾身氏と同意見(検査数を増やすことは無意味で、PCR検査は信頼できない)を述べたのは、元厚労省医官の木村もりよ氏であった。彼女は元々、インフルエンザ等の水際対策は無意味だとしていて、尾身氏との連携は確認できなかった。しかし、現在の国の対策は、双方の言い分に近く、国は積極的な伝染防止対策は取らず、自然に抗体所有者が増えて発症が増えなくなるのを待つ方針だと言える。
そのため、発症者増はは自然任せとなるので、このコロナ騒ぎは少なくとも6月頃までは続くと予想される。従って、オリンピックは先ず無理なんでしょう。
其の後の国の動きを見ると、自然に抗体を有する人の数が増えるのを待っているのではなくて、クラスターを調べ、クラスター周辺を抑える方針で進めていたのが、患者の発生がクラスター以外から多発するようになり、もう、手段を失い、自然に任せるようになったらしい。が、相変わらず検査数を絞る方針だけは続けているようだ。方針転換できなくなって、呆然としているのが実情なのだろう。
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