2024年6月29日土曜日

Booking.com と AirB&B その他

 大阪拠点の顧客は、ほぼ、Booking.comとAirB&B経由で予約が入る。海外からの顧客はAirB&B経由で、国内顧客はBooking.com経由なのだが、AiirB&Bは、顧客の希望があると、受けるかどうかを聞いてくれ、Booking.com は、こちらの都合は関係なく、顧客の予約で決まってします。だから、僕のように遠隔地から拠点のメンテに来る者には、Booking.comの予約は当方の希望や状態に関係なく予約が決まってしまうので対応が難しい。しかも、Booking.comの予約は、どちらかと言えば、一日から二日が宿泊期間で、AirB&B経由の顧客は長期間が多い。
そこで、僕は、まずはAirB&Bのカレンダー設定を優先して、また、最短宿泊期間を長めに設定して、AirB&Bの顧客を優先的に受け入れる。Booking.comの顧客は、AirB&Bno顧客が予約を終えてから募集することとしている。
また予約金額だが、
AirB&Bの価格設定は、わが施設の宿泊費を4,000円/泊に設定すると、顧客には、その16.4%の656円を上乗せして、更に、4,000円の3%120円を徴収する。つまり、設定価格4,000円だと、わが施設には3,880円で、AirB&Bは、合計776円を徴収するわけだ。
Booking.comの場合は、わが施設の宿泊費を4,000円とすると、顧客は4,000円を払い、そのうち12%480円を徴収する。つまりわが施設は残りの、3,520円を得る。
この場合問題は、顧客は、AirB&B経由で予約すると4,656円を支払いBooking.com経由だと、4,000円支払うことになる。また、僕の得る金額は、AirB&Bだと3,880円/泊で、Booking.comだと、3,520円となる。
そこで、宿泊費を、AirB&B経由では、3,600円/泊に設定すると、
顧客は、3,600円x1.164=4,190円支払い、僕の収入は、3,492円となる。
これで、AirB&B経由の顧客と、Bookingc.om経由の顧客は、ほぼ同等の負担になる。
また、この場合、Booking.comは、480円を徴収し、AirB&Bは、679円を徴収となる。

      設定価格  顧客支払  旅行業者収入  僕の収入
Air B&B   4,000   4,656   656+123=880  3,880
--------------------------
Booking   4,000   4,000   480         3,520  
修正Air B&   3,600        4,190   590+108=698   3,492     

これを基本に、Aircon時期とか暖房機時期には、これに、400円を上乗せすることにする。
なお、上記宿泊費は、部屋当たりの代金で、部屋は2人が入れるが、人数での代金変更はない。つまり、海外風の値段となっている。
今秋からの部屋代はこれを基本とも考えたが、AirB&Bを使うのは海外顧客であり、今の円安であれば、見かけ上、海外顧客の負担を多くするのもありかと考えた。
そのため、両社ともに価格設定は、4,000円/日を基本とする。

夏の閉館の準備に拠点を訪れたが、今年は梅雨が遅く、雨に見舞われてしまった。しかし、おかげで、先に訪れた時には晴れに恵まれたわけだ。
閉館の準備なのだが、AirB&BとBooking.comから各一件の予約が入った。
AirB&Bのは、韓国からの若い女性2人組で、車での旅行で、立ち寄り宿泊であった。立ち寄り宿泊って初めての経験だし、とても若い女性で、しかもかなり綺麗な女性たちであったので、更に対応に戸惑った。でも、次の機会には、もっと適切な対応ができるであろう。
つまり、立ち寄り宿泊は、淡々と泊まってもらえば良いだけのことなのだ。
Booking.comのお客さんは、とても若い男女が二人で、四条畷の人で、入館に際して、祭りに行くとのことで、なんのことか分からなかった。昼過ぎに入室すると直ぐに、部屋を閉め切り、布団を敷いた。男女いちゃいちゃ宿と間違われたかとおどおどしてしまった。
ところが、夕方になると二人ともに浴衣姿で降りてきて祭りに行くという。10時ごろに帰ると言う。つまり、ふとんを敷いたのは、夜の祭り散策のための準備であったわけだ。さらに、浴衣姿を楽しみたいが故の宿泊だと気づいた。
そんな事情に納得して泊まってもらった。これもまた、違ったけいけんであった

二つの宿泊が続いたのと、雨天が続いての出、布団を干す暇がなく、初めて布団乾燥機を使った。が、その効果は良好で、これからの対応にも役立つことになった。

いつもと違う経験が続き、対応力が身に着いた気分だ。

ところで、拠点から歩いて100m辺りの、大気社の跡地に、ホムセンターのコーナン、スーパーのオアシス、それに、医療施設などの複合施設が開業するらしい。千葉の自宅より遥かに便利になりそうだ。自宅をこちらにすべきかなとも思う。


2024年6月18日火曜日

6月3日から6月13日まで大阪滞在、それに加島一族への想いなど

なじみの顧客から、大阪拠点に6月11日から12日間宿泊したいとの連絡があり、その受け入れ準備と拠点整備を兼ねて大阪に行くことにしたが、女房が大阪の女房方の親戚に会いたいと言うので、同行することにした。(連れて行くと言うべきか)
なお、僕の方の親戚とは一生会う積もりはないし、相手からも僕は無視されているので、彼等とは全く接触しない。その事情については下記の通り。

僕の優しい兄と姉について
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
姉と兄の現状
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_8.html
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html
僕の高校時代
http://isabon.blogspot.com/2022/07/blog-post.html
僕の蓄財法
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_2.html
志水勇の旅行記
https://4travel.jp/traveler/isabon/album

大阪の義妹夫婦と連絡を取ると、琵琶湖の施設を予約できるとのことで、6日、7日を予約してもらった。また、女房の姉夫婦の法事が9日にあるので、これにも参加することとして、8日の夜は義妹夫婦の家に泊めてもらうことにした。梅雨最中であるし、大阪拠点の整備ができるかどうかと心配したが、結局梅雨入りが遅れたのでずっと好天であり、計画は予定通り進行した。
単独行での交通には、東海道高速バスネットを使うのだが、それだと、家を早く出て拠点に早く入り、買い物とか食事の準備をするのだが、女房同行だと余り早朝の出発はたいへんだろうと、ジェットスターを予約した。これだと夫婦片道で13,000円も掛かった。が、大阪での準備買い物とかをゆっくりと行うことができた。なお帰路はバスで夫婦で13,000円であった。ジェットスターだと、関空発の時間が不都合なのだ。
先述のように梅雨が遅れたので、宿泊客の準備としての、布団干し、掃除、庭の除草剪定も充分に行えた。
琵琶湖の施設へは、妹夫婦が車で送ってくれた。彼らは能勢に住んでおり、高速を琵琶湖に向かう途中で、高槻で降りると直ぐだとのことだ。しかし、帰路は山の中を突きって能勢に向かったから、やはり、わざわざ高槻経由で迎えに来てくれたようだ。
我が大阪拠点で我が夫婦を載せて、車は再び高槻IC から名神に入り琵琶湖の三菱施設に向かった。三菱の施設は、とても過ごしやすく食事もうまい。風呂も最高で、有難いことだ。
翌日は、僕の希望で安土城跡に行き、安土資料館に最初に行ったが、休館で、同じ敷地内の信長の城って派手な建物を展示する施設を訪れた。
その後安土城を訪れた。
安土城は全くの山城で、その時代には階段を延々と登って行くのだが、なぜ信長ほどの先進的人物がかように不便で、かつ、小規模な城を作ったのかと不思議に思えた。しかし、信長が安土城を築いたころ、彼の領地は、濃尾平野、甲州、それに近畿地方だけだから、その中央だと安土になるかなとも思える。
次いで、以前に、やはり兄弟会で訪れた近江八幡の街を訪れた。ただ以前には、兄弟姉妹達が、まだほぼ全員が存命で、総勢20人近くがマイクロバスを貸し切って訪問したのだが、今では存命するのは、7名に過ぎず、更に、そのうち2人は自由に行動できる状態ではないのだ。義理の加島兄弟姉妹達の存在は今になっていよいよ気付くのだが、とても大切な物であったのだ。しかも、我が女房が、姉の歌子さんの9年間の介護をしたものの、遺産は思いの外に増えて、加島兄弟姉妹で等分に分け合った資産は、我が夫婦にも力強い老後対病気資産にもなっている。つくづく有難い兄弟姉妹達であったと思う。

前に兄弟姉妹会で訪れた時に、八幡山に登るロープウエーを見掛けたので、今回は乗ってみたいと思っていたので、街の見学は早々に終えてロープウエーに向かった。
ロープウエー乗り場の手前に、由緒在りそうな寺があったが、それほど気にすることもなく通過したが、後で調べると、日牟禮八幡宮との有名な神社であった。次の機会には訪れるとしよう。ロープウエーの終点から、西湖を挟んで信長の安土山を一望できる展望台まで行き、続いて西側に降りるらしい登山道を下ることにした。登山道はとても足場の悪い急勾配で、必死になって下山した。後で調べると、下記地図で登はん禁止らしい路らしい。
https://yamap.com/mountains/8951
しかも、こんな山と安易に考えていたが、ハイキングとしては登り甲斐がある山のようであった。次回があれば、それなりの準備で楽しむことにしよう。
なお、この危険な道からの眺めは、琵琶湖側に向いていて、開墾された田畑や運河が見事に眺めることができた。
城跡を見ることもなく下山したが、秀次の栄華の後も見るべきであったと思う。
ところで、秀次はなぜ関白職を秀頼に譲らなかったのだろう。譲っていれば、豊臣家には違った未来があったの違いない。そもそも、徳川家康を広大な関東に移封したことが誤りの最初ではあったものの、秀吉は悪い選択ばかりを続けたようだ。
それはそれとして、かように旅を楽しみ、宿に戻り、風呂と食事を楽しんだ。

翌日は帰路途上の京都を楽しむこととした。話を聞くと、義妹夫婦は、琵琶湖疎水のことを知らないらしい。関西に住んでいるのに琵琶湖疎水を知らないとはと驚いた。そこで、義妹夫婦の車で、疎水資料館に行き、裏手の有料駐車場に車を止めて、蹴上のインクラインを登り、疎水水道を下り、南禅寺の水道橋を訪れた。
僕が琵琶湖疎水にこだわるのは、僕の従事した八戸の長距離地下コンベヤの総長と、田辺氏が建設した琵琶湖疎水の延長長さがほぼ同一で、加えて、二人の建設時の年齢がほぼ同じ年代であったことで、田辺氏に親近感を感じるからだ。

さて琵琶湖疎水見学を終えて、同日は義妹夫婦の自宅で止めてもらい、翌日は、女房の姉夫婦の法事に参加することにしていた。
姉の夫は、宮崎の山奥から出て、地元出身の有力者の家の書生をしながら熊本大学を出て、住友重機械に務めたって人物で、温厚で誠実な人柄に人であった。退職後は、地元の野生植物の研究や資料整理にのめりこんでいた。生前にもっと彼の人生に触れておくべきであったと、またまた後悔の念である。女房の兄弟姉妹の人々は、実に興味深い人生を歩んだ人ばかりで、人柄は誠実で才能豊かな人ばかりだ。
実は、当日泊めてもらった義弟は、彼もなかなか才能ある男で、絵を書くことが趣味だが、むしろ彼の誠実さと人生に対する姿勢にはいつも驚かされるのだ。彼は、彼自身と、その女房や家族への姿勢が実に誠実で、家族それぞれの人生の経過を丹念に記録にのこしているのだ。その資料を見せられると、僕のいい加減さに恐怖を感じるほどである。それはつまり、己や家族へに誠実さの現れだと、僕は僕自身が嫌になるのだ。でもまぁ、僕は僕の人生への姿勢のいい加減さが、長所だと言わざるを得ないだろう。
京都東から高速に入り、能勢の彼の家には、高槻を経過するすることなく、山のど真ん中を走って車は能勢に向かった。凄いところに高速ができているんものだ。これは、トンネル掘削機ができたことでの成果であろうと思う。
実は僕の5年先輩の永井さんは、住友重機械でトンネル掘削機を開発して、それは実際に稼働したのだが、なぜか開発は試験機だけで終わり、永井さんは物流システム開発へと移動した。こんなところが住友重機械は中途半端なのだ。住友重機械は、義理の兄にしても畑中さんや永井さんにしても、優秀な人材を十分に生かせ切れていない。かく言う僕もそうだ。僕は恐らく長距離コンベヤでは日本でも最先端を進んでいた技術者だった。その様な事も住友重機械は全く知らないままに僕の首を切ったわけだ。住友重機械は自社の社員のことを何も知らないままに雇っては必要に応じて簡単に首を切る会社だったわけだ。まぁいいや。
ところで、京都蹴上から、なぜ京都東に戻ったのだろう。京都南から高速に入る方が良かったのでは、とも思うが、多分、山の中を走る高速への関係だろう。

翌日は、再び、義弟の車を義妹の運転で鈴蘭台の義姉の家に向かった。義弟は、高校の同窓会の準備打ち合わせで同行できなかった。義弟はかような事に義理堅く、というか、そんな人間関係を心から楽しむタイプで、僕としては尊敬せざるを得ない人柄だ。

法事を無事終えて、義兄夫婦の娘やその家族と一緒に会食をした。会食中に、その長女陽子ちゃんの夫が、僕の小学校の、松原市立北小学校の後輩であることが判り驚いた。そんなハプニングもあり、しんみりすると言うよりは、楽しい人々との会食を楽しむって、人生の喜びを感じる会食であった。それに、末の娘の恵子ちゃんの娘は、岡山の大学に通学しているって情報もあった。義兄の娘たちや孫たちはそれぞれが誠実に人生を送っていた。
女房の姉の歌子さんの資産は、全ての姉妹兄弟に等分に配分したが、それらの資産が、その子供たちにも渡り、有効に消費されそうだと喜びを感じた。

かように、この大阪滞在は、非常に楽しく有意義な滞在であった。

その後、女房の兄弟姉妹たちで生き残りの一人である僕と同年齢の正一さんからメールが入り、彼が「最後の九州訪問をした」とのことだった。今回の琵琶湖へは、彼の体調を考えて彼にコンタクトしなかったが、九州に行ける体力があるなら、正一さんを含めて兄弟会をやろうとの話になり、義弟は7月の初めに、正一さんの家に近い横浜の施設を予約し、義妹は正一さんに連絡した。しかし、体調がもう一つとの連絡が入り、その計画は中止のやむなきに至った。
この正一さんも、おだやかで誠実で有能な人物で、女房の家系はかように人物に恵まれていたのだ。なお、正一さんは、僕の大学の同期の松井と会社の同期であった。

ただ残念なことに、兄弟姉妹のなかで唯一、歌子姉と小島の幸子姉とは、なにがあったのか、お互いに口をきかなかったがその理由はわからない。小島幸子姉が頭がしっかりしていたなら、歌子姉の遺産は受け取らず、結果として、その遺産は幸子姉の子供たちに相続されなかっただろうが、幸いなことに幸子姉の認知症でそうはならず、結果はハッピーなことになったわけだ。

かくして我々、加島兄弟姉妹会は、最大15人が今は7人までに減ってしまった。しかも稼働人数は、たった4人であろう。それも、ここ数年でそうなってしまったのだ。いずれこうなることは分っていたが、メンバーそれぞれの人となりやその人生をもっと知る努力をすべきであったろう。

と、ここまで書いて、重要な事柄に気づいた。
歌子姉と幸子姉のいさかいなのだが、重要なことに気づいた。
義妹夫婦は、実は、僕たち夫婦が二人の見合いを設定して結婚に至ったのだ。僕たち夫婦が吹田山田の高層に住んでいる時に、隣の人から紹介されて見合いした相手が、義妹の夫である。見合いの席で初めて出会い、彼の色浅黒く整った容貌に「えらくハンサムな男だな」と驚いたものだ。義妹もすぐさま気に入って結婚に至ったのだが、彼が学卒で三菱電機って信頼できる会社の社員で、その誠実な態度に、さらには深く調べることなく結婚に賛成した。
当時、義姉の幸子さん夫婦が関西の管轄を任されていて、この件で、関東を管轄する歌子さんと諍いがあったと、つい最近女房に聞いた。十分報告することなく結婚を決めたと歌子姉に責められたらしい。結果としては、義妹夫婦は、三菱電機の施設を女房一族に提供するなど、更にはその人柄も、女房の家族全員は大いに満足に至った。
ひょっとすると、この件が二人の諍いにつながったのかも、と気づいたのだ。しかし、その後、更に大きな諍いの可能性に気づいた。それは、僕ら夫婦の結婚の経過だ。僕たち夫婦の結婚についても、九州の女房の実家は、幸子姉に僕らの結婚の可否の判断を任せたのだ。
僕は、我が家自体が親戚に対する親交はほぼなく、それと同様に女房の家族にも対応したのだ。詳しくは言いたくないが、後から振り返ると、義理を欠いた行動があったと記憶する。
それが最も、歌子姉と幸子姉の諍いを招いた可能性はとてもある。
ただ、僕が関東に転勤になってから、歌子姉にはそれなりの付き合いをしたし、歌子姉は、どうやら僕のような性格に信頼を寄せるような性格でもあった。それに、歌子姉の最後は、ほぼ九年間を僕の女房が見切ってもいる。
それはそれとして、歌子姉と幸子姉の諍いは僕が招いた可能性がとても大きいと、今更になって気づいたのだ。
だが、大きな声で言いたいのだが、僕たち加島一族の兄弟姉妹会の最初の旅行は、なぜか、親戚付き合いが苦手な僕が、兄弟姉妹会の第一回めの旅行、箱根旅行を僕が最初に纏めたのだ。それに引き続いて、義妹の夫が、彼の務める三菱電機の施設と、彼の義理堅い人柄が加わって、あちこちをみんなで旅行するなんて結果になったのだから、みんな大いに満足してくれたと思う。つまり僕は結果として幸子姉のメンツを潰すことなく人生を過ごしたと思うのだ。










2024年6月1日土曜日

植田総裁の不注意な発言に、結局、9.7兆円も介入してたんだ。

 植田総裁の不注意な発言で、円安が急激に進んだが、そのために、多額の介入が必要になった。その額が9.7兆円にもなったってことです。
しかも、結局は高価は殆ど無かった。
何て無駄使いなんだ。

円買い介入9.7兆円、過去最大 4〜5月の実績公表


財務省は31日、4月26日から5月29日の為替介入実績を公表した。介入総額は9兆7885億円だった。4月29日と5月2日に実施したとみられる円買い・ドル売りの介入を反映しており、2022年10月以来およそ1年半ぶりとなる。過去の円安局面での介入と比べて過去最大となった。

市場は4月29日と5月2日に円買い・ドル売り介入を実施したとみる。4月29日は一時1ドル=160円台と34年ぶりの円安水準まで下落した後に、154円台まで急激に円高が進んだ。5月2日は早朝に157円台から4円ほど上昇した。

22年9〜10月の円安局面では3回の円買い介入を実施し計9.1兆円を投じた。今回はそれを上回り最大となった。

介入直後に実施を公表しない覆面介入だったことになる。日本の単独介入だったとみられる。約24年ぶりの円買い介入だった22年9月22日の実施時は、鈴木俊一財務相が記者会見で公表した。

31日はおよそ1カ月間の総額だけを開示した。実施日や日次の介入額は四半期ごとに発表し、4〜6月期の日次実績は8月上旬に公表する。

主要7カ国(G7)の合意では「為替レートの過度の変動や無秩序な動き」が経済に悪影響を及ぼす場合は介入を許容する。4月29日の160円台への急落は投機筋による「スピード違反」(財務省幹部)と判断し、介入に踏み切ったとみられる。

5月2日は日本時間の午前5時台に円が急騰した。この時間はニューヨーク外国為替市場からウェリントン(ニュージーランド)市場に取引の中心が移る時間帯だ。効果を高めるため、取引が比較的少ない時間帯を狙ったとの見方がある。

為替相場には一定の影響が表れた。31日の東京外為市場では1ドル=157円前後で推移しており、4月29日に付けた160円からは3円ほど円高水準にある。

22年10月21日は公表済みの日次で過去最大となる5.6兆円の円買い介入を実施した。直前の1ドル=151円94銭は、その後1年超にわたり突破されることがない安値水準となった。今後は今回の介入直前に付けた160円24銭が安値のめどとして意識される。

為替介入は「時間稼ぎでしかない」(みずほ証券の上野泰也チーフマーケットエコノミスト)というのが市場の見方だ。日銀が3月にマイナス金利を解除した後も政策金利は極めて低く、大幅な利上げを終えた海外との金利差を手がかりとした円売りが強まりやすい。

日銀の植田和男総裁は4月26日に、円安が「基調的な物価上昇率に今のところ大きな影響を与えていない」と発言した。160円への急落のきっかけとなり、5月7日に岸田文雄首相と面会した後に発言を修正した。為替の安定には政府・日銀の連携が欠かせない。

こんな人生も送れた筈なのにと、今更後悔(堀文子)

特に羨ましいのは、世界中を、それに、日本のあちこちを旅したとの人生だ。
それも旅するだけではなくて、その地をじっくりと観察して楽しんだであろうって人生が羨ましい。

命の不思議、不断に求めて「没後5年 堀文子展」ほか

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生命の不思議を見つめ続けた日本画家、堀文子が100歳で亡くなって今年で5年。静岡県三島市と愛知県長久手市で、その画業を顧みる展覧会が開かれている。孤独を恐れず未知への旅を重ねた強靭(きょうじん)な精神は、いかにして生まれたのだろうか。

堀文子(1918〜2019年)は、草木や花鳥、昆虫、自然の神秘を、飽くなき探究心で描き続けた。「花の画家」とも呼ばれるが、巨匠や大御所といった呼称とは、およそ無縁の生き方を貫いた。権威に寄らず自由を貫く姿勢は、「群れない、慣れない、頼らない」という言葉に端的に表れている。

三島市の佐野美術館で9日まで開催中の「没後5年 堀文子」展は、約80点でその画業をたどる回顧展だ。画学生時代に描いた自画像をはじめに、時々の代表作を、画家の言葉を添えて展示する。展示を通して感じるのは、停滞を嫌い新たな発見を求めて行動する一所不在の作画姿勢だ。

堀文子は、東京の麴町区平河町(現千代田区平河町)に生まれた。両親の厳しい躾(しつけ)で自立心を養った堀は、歴史学者だった父の反対を押し切り1936年、女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学。敗戦前は新美術人協会、戦後は創造美術から創画会に至る在野の革新的な美術団体を中心に作品を発表した。初期から戦後60年代までの作品には、西洋の古典絵画や同時代の前衛絵画からの影響がうかがえ、旧来の日本画の殻を打ち破ろうとする実験性が強い。

しかし、60年代末から70年ごろに作風は大きく変わる。きっかけは、戦後結婚した夫の病死後、喪失感を乗り越えるため単身旅立った2年半の欧米メキシコ放浪の旅だった。西洋文明を直接体験した堀は、日本の文化の良さを肌で知り、自然とともに生きたいと67年、都心から神奈川県の大磯へ転居した。風土の中から生まれる美に感動しながら、日本画の画法を究めて草木や移り変わる自然を描くようになる。

その感動を新たにするためには、1カ所に留(とど)まっていられない。79年に軽井沢にアトリエを構えて高原の自然を見つめ、87年にはイタリア、トスカーナ地方の村に制作の場を設け、5年間、日本と往復を続けた。今展の第2章には、この「花の時代」の作品が並ぶ。

「終り」は、トスカーナの畑で見た収穫期のひまわりの光景を描く。黄色の花びらが白く枯れ、中心部は熟成した種が黒々となり、首を垂れている。太陽を追って同じ方向へ顔を向ける整然としたひまわりの姿に感動していただけに、この光景は画家にとって衝撃だった。しかし、枯れてなお、次の生命を宿す植物に、「死が生涯の華々しい収穫の時だ」と教えられた。命の不思議への感銘が、生々しい描写となって表現された作品だ。

70代後半からは、アマゾン、メキシコ、ネパール、ペルーと取材旅行を重ね、幻の高山植物ブルーポピーを求めてヒマラヤ山麓を訪れた。標高4500メートルの高地のガレ場で、金色のとげで全身を覆った青い花を見つけたのは、82歳のときだった。

数々の冒険旅行も、翌年、突然発症した解離性動脈瘤(りゅう)による入院で、断念するほかなかった。しかし堀は代わりに、顕微鏡を通した微生物の世界の魅力を発見し、その探求へと好奇心を注ぐことになる。

「極微の宇宙に生きるものたちⅡ」は、臓器まで見えるミジンコを中心に種々のプランクトンの姿を描き込んだ驚きの日本画だ。さらに水中のクラゲや蜘蛛(くも)の巣といった日本画の題材らしからぬ生き物にも熱中して、その精緻な生命の美しさを描き切っている。

こうした前例にとらわれない進取の精神は、生来の気質に加えて、女子美時代に敬愛して出入りした新美術人協会の日本画家、福田豊四郎からの薫陶も大きい。長久手市の名都美術館で9日まで開催中の「福田豊四郎と堀文子」展は、戦中戦後の日本画革新の動きを先導した福田と堀との影響関係を、作品と人生から探る。師弟関係を嫌い同志として遇した福田の日本画に、堀は現代人の息吹が感じられる新しいスタイルや明快なフォルムを見いだし、共鳴した。それは、因習的な画壇への果敢な挑戦でもあった。

堀は晩年、老齢で遠出もままならなくなると、大磯の自宅の庭に生えた雑草を熱心に描き続けた。97歳になる年に描いた「名もなき草達」もまたそんな作品だ。人間に讃(たた)えられることなく健気(けなげ)に生き続ける草花は、権威や肩書を求めずに生きた画家の何よりの励ましとなった。その小さくとも華やかな命の輝きには、野を歩み続けた画家の思想が息づいている。

(客員編集委員 宮川匡司)