2024年6月18日火曜日

6月3日から6月13日まで大阪滞在、それに加島一族への想いなど

なじみの顧客から、大阪拠点に6月11日から12日間宿泊したいとの連絡があり、その受け入れ準備と拠点整備を兼ねて大阪に行くことにしたが、女房が大阪の女房方の親戚に会いたいと言うので、同行することにした。(連れて行くと言うべきか)
なお、僕の方の親戚とは一生会う積もりはないし、相手からも僕は無視されているので、彼等とは全く接触しない。その事情については下記の通り。

僕の優しい兄と姉について
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
姉と兄の現状
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_8.html
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html
僕の高校時代
http://isabon.blogspot.com/2022/07/blog-post.html
僕の蓄財法
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_2.html
志水勇の旅行記
https://4travel.jp/traveler/isabon/album

大阪の義妹夫婦と連絡を取ると、琵琶湖の施設を予約できるとのことで、6日、7日を予約してもらった。また、女房の姉夫婦の法事が9日にあるので、これにも参加することとして、8日の夜は義妹夫婦の家に泊めてもらうことにした。梅雨最中であるし、大阪拠点の整備ができるかどうかと心配したが、結局梅雨入りが遅れたのでずっと好天であり、計画は予定通り進行した。
単独行での交通には、東海道高速バスネットを使うのだが、それだと、家を早く出て拠点に早く入り、買い物とか食事の準備をするのだが、女房同行だと余り早朝の出発はたいへんだろうと、ジェットスターを予約した。これだと夫婦片道で13,000円も掛かった。が、大阪での準備買い物とかをゆっくりと行うことができた。なお帰路はバスで夫婦で13,000円であった。ジェットスターだと、関空発の時間が不都合なのだ。
先述のように梅雨が遅れたので、宿泊客の準備としての、布団干し、掃除、庭の除草剪定も充分に行えた。
琵琶湖の施設へは、妹夫婦が車で送ってくれた。彼らは能勢に住んでおり、高速を琵琶湖に向かう途中で、高槻で降りると直ぐだとのことだ。しかし、帰路は山の中を突きって能勢に向かったから、やはり、わざわざ高槻経由で迎えに来てくれたようだ。
我が大阪拠点で我が夫婦を載せて、車は再び高槻IC から名神に入り琵琶湖の三菱施設に向かった。三菱の施設は、とても過ごしやすく食事もうまい。風呂も最高で、有難いことだ。
翌日は、僕の希望で安土城跡に行き、安土資料館に最初に行ったが、休館で、同じ敷地内の信長の城って派手な建物を展示する施設を訪れた。
その後安土城を訪れた。
安土城は全くの山城で、その時代には階段を延々と登って行くのだが、なぜ信長ほどの先進的人物がかように不便で、かつ、小規模な城を作ったのかと不思議に思えた。しかし、信長が安土城を築いたころ、彼の領地は、濃尾平野、甲州、それに近畿地方だけだから、その中央だと安土になるかなとも思える。
次いで、以前に、やはり兄弟会で訪れた近江八幡の街を訪れた。ただ以前には、兄弟姉妹達が、まだほぼ全員が存命で、総勢20人近くがマイクロバスを貸し切って訪問したのだが、今では存命するのは、7名に過ぎず、更に、そのうち2人は自由に行動できる状態ではないのだ。義理の加島兄弟姉妹達の存在は今になっていよいよ気付くのだが、とても大切な物であったのだ。しかも、我が女房が、姉の歌子さんの9年間の介護をしたものの、遺産は思いの外に増えて、加島兄弟姉妹で等分に分け合った資産は、我が夫婦にも力強い老後対病気資産にもなっている。つくづく有難い兄弟姉妹達であったと思う。

前に兄弟姉妹会で訪れた時に、八幡山に登るロープウエーを見掛けたので、今回は乗ってみたいと思っていたので、街の見学は早々に終えてロープウエーに向かった。
ロープウエー乗り場の手前に、由緒在りそうな寺があったが、それほど気にすることもなく通過したが、後で調べると、日牟禮八幡宮との有名な神社であった。次の機会には訪れるとしよう。ロープウエーの終点から、西湖を挟んで信長の安土山を一望できる展望台まで行き、続いて西側に降りるらしい登山道を下ることにした。登山道はとても足場の悪い急勾配で、必死になって下山した。後で調べると、下記地図で登はん禁止らしい路らしい。
https://yamap.com/mountains/8951
しかも、こんな山と安易に考えていたが、ハイキングとしては登り甲斐がある山のようであった。次回があれば、それなりの準備で楽しむことにしよう。
なお、この危険な道からの眺めは、琵琶湖側に向いていて、開墾された田畑や運河が見事に眺めることができた。
城跡を見ることもなく下山したが、秀次の栄華の後も見るべきであったと思う。
ところで、秀次はなぜ関白職を秀頼に譲らなかったのだろう。譲っていれば、豊臣家には違った未来があったの違いない。そもそも、徳川家康を広大な関東に移封したことが誤りの最初ではあったものの、秀吉は悪い選択ばかりを続けたようだ。
それはそれとして、かように旅を楽しみ、宿に戻り、風呂と食事を楽しんだ。

翌日は帰路途上の京都を楽しむこととした。話を聞くと、義妹夫婦は、琵琶湖疎水のことを知らないらしい。関西に住んでいるのに琵琶湖疎水を知らないとはと驚いた。そこで、義妹夫婦の車で、疎水資料館に行き、裏手の有料駐車場に車を止めて、蹴上のインクラインを登り、疎水水道を下り、南禅寺の水道橋を訪れた。
僕が琵琶湖疎水にこだわるのは、僕の従事した八戸の長距離地下コンベヤの総長と、田辺氏が建設した琵琶湖疎水の延長長さがほぼ同一で、加えて、二人の建設時の年齢がほぼ同じ年代であったことで、田辺氏に親近感を感じるからだ。

さて琵琶湖疎水見学を終えて、同日は義妹夫婦の自宅で止めてもらい、翌日は、女房の姉夫婦の法事に参加することにしていた。
姉の夫は、宮崎の山奥から出て、地元出身の有力者の家の書生をしながら熊本大学を出て、住友重機械に務めたって人物で、温厚で誠実な人柄に人であった。退職後は、地元の野生植物の研究や資料整理にのめりこんでいた。生前にもっと彼の人生に触れておくべきであったと、またまた後悔の念である。女房の兄弟姉妹の人々は、実に興味深い人生を歩んだ人ばかりで、人柄は誠実で才能豊かな人ばかりだ。
実は、当日泊めてもらった義弟は、彼もなかなか才能ある男で、絵を書くことが趣味だが、むしろ彼の誠実さと人生に対する姿勢にはいつも驚かされるのだ。彼は、彼自身と、その女房や家族への姿勢が実に誠実で、家族それぞれの人生の経過を丹念に記録にのこしているのだ。その資料を見せられると、僕のいい加減さに恐怖を感じるほどである。それはつまり、己や家族へに誠実さの現れだと、僕は僕自身が嫌になるのだ。でもまぁ、僕は僕の人生への姿勢のいい加減さが、長所だと言わざるを得ないだろう。
京都東から高速に入り、能勢の彼の家には、高槻を経過するすることなく、山のど真ん中を走って車は能勢に向かった。凄いところに高速ができているんものだ。これは、トンネル掘削機ができたことでの成果であろうと思う。
実は僕の5年先輩の永井さんは、住友重機械でトンネル掘削機を開発して、それは実際に稼働したのだが、なぜか開発は試験機だけで終わり、永井さんは物流システム開発へと移動した。こんなところが住友重機械は中途半端なのだ。住友重機械は、義理の兄にしても畑中さんや永井さんにしても、優秀な人材を十分に生かせ切れていない。かく言う僕もそうだ。僕は恐らく長距離コンベヤでは日本でも最先端を進んでいた技術者だった。その様な事も住友重機械は全く知らないままに僕の首を切ったわけだ。住友重機械は自社の社員のことを何も知らないままに雇っては必要に応じて簡単に首を切る会社だったわけだ。まぁいいや。
ところで、京都蹴上から、なぜ京都東に戻ったのだろう。京都南から高速に入る方が良かったのでは、とも思うが、多分、山の中を走る高速への関係だろう。

翌日は、再び、義弟の車を義妹の運転で鈴蘭台の義姉の家に向かった。義弟は、高校の同窓会の準備打ち合わせで同行できなかった。義弟はかような事に義理堅く、というか、そんな人間関係を心から楽しむタイプで、僕としては尊敬せざるを得ない人柄だ。

法事を無事終えて、義兄夫婦の娘やその家族と一緒に会食をした。会食中に、その長女陽子ちゃんの夫が、僕の小学校の、松原市立北小学校の後輩であることが判り驚いた。そんなハプニングもあり、しんみりすると言うよりは、楽しい人々との会食を楽しむって、人生の喜びを感じる会食であった。それに、末の娘の恵子ちゃんの娘は、岡山の大学に通学しているって情報もあった。義兄の娘たちや孫たちはそれぞれが誠実に人生を送っていた。
女房の姉の歌子さんの資産は、全ての姉妹兄弟に等分に配分したが、それらの資産が、その子供たちにも渡り、有効に消費されそうだと喜びを感じた。

かように、この大阪滞在は、非常に楽しく有意義な滞在であった。

その後、女房の兄弟姉妹たちで生き残りの一人である僕と同年齢の正一さんからメールが入り、彼が「最後の九州訪問をした」とのことだった。今回の琵琶湖へは、彼の体調を考えて彼にコンタクトしなかったが、九州に行ける体力があるなら、正一さんを含めて兄弟会をやろうとの話になり、義弟は7月の初めに、正一さんの家に近い横浜の施設を予約し、義妹は正一さんに連絡した。しかし、体調がもう一つとの連絡が入り、その計画は中止のやむなきに至った。
この正一さんも、おだやかで誠実で有能な人物で、女房の家系はかように人物に恵まれていたのだ。なお、正一さんは、僕の大学の同期の松井と会社の同期であった。

ただ残念なことに、兄弟姉妹のなかで唯一、歌子姉と小島の幸子姉とは、なにがあったのか、お互いに口をきかなかったがその理由はわからない。小島幸子姉が頭がしっかりしていたなら、歌子姉の遺産は受け取らず、結果として、その遺産は幸子姉の子供たちに相続されなかっただろうが、幸いなことに幸子姉の認知症でそうはならず、結果はハッピーなことになったわけだ。

かくして我々、加島兄弟姉妹会は、最大15人が今は7人までに減ってしまった。しかも稼働人数は、たった4人であろう。それも、ここ数年でそうなってしまったのだ。いずれこうなることは分っていたが、メンバーそれぞれの人となりやその人生をもっと知る努力をすべきであったろう。

と、ここまで書いて、重要な事柄に気づいた。
歌子姉と幸子姉のいさかいなのだが、重要なことに気づいた。
義妹夫婦は、実は、僕たち夫婦が二人の見合いを設定して結婚に至ったのだ。僕たち夫婦が吹田山田の高層に住んでいる時に、隣の人から紹介されて見合いした相手が、義妹の夫である。見合いの席で初めて出会い、彼の色浅黒く整った容貌に「えらくハンサムな男だな」と驚いたものだ。義妹もすぐさま気に入って結婚に至ったのだが、彼が学卒で三菱電機って信頼できる会社の社員で、その誠実な態度に、さらには深く調べることなく結婚に賛成した。
当時、義姉の幸子さん夫婦が関西の管轄を任されていて、この件で、関東を管轄する歌子さんと諍いがあったと、つい最近女房に聞いた。十分報告することなく結婚を決めたと歌子姉に責められたらしい。結果としては、義妹夫婦は、三菱電機の施設を女房一族に提供するなど、更にはその人柄も、女房の家族全員は大いに満足に至った。
ひょっとすると、この件が二人の諍いにつながったのかも、と気づいたのだ。しかし、その後、更に大きな諍いの可能性に気づいた。それは、僕ら夫婦の結婚の経過だ。僕たち夫婦の結婚についても、九州の女房の実家は、幸子姉に僕らの結婚の可否の判断を任せたのだ。
僕は、我が家自体が親戚に対する親交はほぼなく、それと同様に女房の家族にも対応したのだ。詳しくは言いたくないが、後から振り返ると、義理を欠いた行動があったと記憶する。
それが最も、歌子姉と幸子姉の諍いを招いた可能性はとてもある。
ただ、僕が関東に転勤になってから、歌子姉にはそれなりの付き合いをしたし、歌子姉は、どうやら僕のような性格に信頼を寄せるような性格でもあった。それに、歌子姉の最後は、ほぼ九年間を僕の女房が見切ってもいる。
それはそれとして、歌子姉と幸子姉の諍いは僕が招いた可能性がとても大きいと、今更になって気づいたのだ。
だが、大きな声で言いたいのだが、僕たち加島一族の兄弟姉妹会の最初の旅行は、なぜか、親戚付き合いが苦手な僕が、兄弟姉妹会の第一回めの旅行、箱根旅行を僕が最初に纏めたのだ。それに引き続いて、義妹の夫が、彼の務める三菱電機の施設と、彼の義理堅い人柄が加わって、あちこちをみんなで旅行するなんて結果になったのだから、みんな大いに満足してくれたと思う。つまり僕は結果として幸子姉のメンツを潰すことなく人生を過ごしたと思うのだ。










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