2015年9月24日木曜日

秋の農園 6月投稿文の続き  米ぬか肥料の効果 米ぬかの発酵 

http://isabon.blogspot.jp/2015/06/blog-post_28.html
上記の続きです。
なお、発酵肥料についての参考資料は薄上秀男さんの本が良いようです。

新農園はかなり順調です。米ぬかの成長阻害は、最低10日間程度を土と攪拌しておけば心配不要とわかった。むしろ、虫害が問題と思える。
(しかし、僅かながらも培養土も使っているから、米ぬかの効果は今後を見るべきだと気づいた。)
旧農園のダイコン カバーしないと虫害が著しい。
 
旧農園のホウレンソウ 虫害よりは気象条件が著しく作用するようだ。虫害も勿論あり、かなりまばらな状態だ。
 
旧農園のニンジン ニンジンは虫害がなく、気象条件が厳しく影響する。そのため、2回目の播種でうまく芽生えてきた。散布して手で押さえること、それに、水でながされないように溝とするのが望ましい。ニンジンは優秀だ。
今年は切り返しが遅れて秋ナスが不調だ。しかし、他の人のも不調なので、気象条件と切り返しの遅れが重なったらしい。一枝一果でも7月中には十分に切り返すべきらしい。なお、植え付け前に大きな入れ物で育てることと、植え付け後トンネルで保温することが重要だ。
 
今年もオクラは良好であった。オクラは遅く播種することが重要だ。

 
春菊だが、とても古い種なので発芽率が最悪だった。
追加播種しよう。
 
旧農園 向こう側に「言いたくないが金を投資しているんだ」と言うおっさんのビニールハウスが見える。この人はもう一区画借りていて、そこにもビニールハウスを設けている。金を掛けているのは事実だろうが、貸農園にビニールハウスを設けるなんて非常識じゃないの。それでもって、道路を汚さないようと、農園地区から出る時に靴の泥を叩き落とすと、泥が飛び込んでくるって文句を言うなんて信じられん。どっちにしても、撤去だ撤去だ!ざまぁみろ。貸農園って、いつか閉鎖になることが前提なんだよ。それに、人間って簡単に死んでゆくからね。
建物の陰なので年額半額の畑。大根を大量に、農薬をまき散らしながらきれいなのを作っている。いったい、この人は何を目的としているのだろう。

 
新農園
僕の区画の前景です。トンネルを多用しました。トンネルのない所は虫害が激しいです。
支柱半径が大き過ぎるので、斜めに刺しています。両端は小さい支柱を使うか、斜め十字に二本を使い、支柱の上部を紐で連結し、紐の両端は斜めに突き刺した棒に結んでいるので畝方向の力には強く、また、ネットはひもによっても弛みの無い状況になります。
写真でトンネル上部中央に紐がトンネル方向に張っているのが判ります。

 
ホウレンソウと小松菜が見事に育っています。こんなのを期待していたのです。
培養土の効果も大きいかな

ジャガイモも米ぬか肥料効果で十分に育っています。
(ジャガイモには培養土は使っていない)
株間に追肥をします。

 
 
レタスは全く虫害を受けません。が、気象条件をクリアするためにもトンネルは有効です。
イチゴはトンネルでなくても大丈夫だろうと・・・

ハクサイ・ブロッコリーもカバーをすると、虫害は最小限で済むようです。
クモを捉まえてはトンネル内に投入しています。
とても順調に育っています。
ある大きさになると、成長はいよいよ早くなります。追肥をどうするかです。

 
なお、米ぬかの、好気性発酵を試みています。米ぬかを清潔な状態で大きな容器に入れ、ヨーグルトの食べ残しと、カルキ分を気化させた水道水を加え、上を蓋し、一日ごとに水を補給すると、かなり高温になるようです。腐敗臭はなく、アルコールを感じさせる甘い臭気です。これからが楽しみです。写真で容器は旧農園で使っていた水用です。かなり大きくて、水補給しても、まだ底の方まで水は行き渡っていません。100均で買ったゴム手袋で攪拌を続け、出来るだけ底の方に水と既に発酵中の米ぬかが流れ込むようにします。いやいや、実に面白い。が、腐敗が起こらないようにと希望する。万一、腐敗が始まったら、畑に埋めます。
が、10月1日に至り、水分が多くなりすぎて酸っぱい匂いがしだした。底から水分の多い部分を取りだし、別に袋に入れることで水分の除去に努めたが、どうなることか。
水分過多になった場合は、米ぬかを再度追加すればよいらしい。
 
僕の現在目指している、下記webの如く、米ぬか発酵とは、ぼかし肥料を作っていることと考えていたが、ちょっと違うようだ。ぼかし肥料は十分に発酵させて、有機分を無機にまで変えてしまうらしい。通常は最終段階で腐敗臭がでる過程のようだ。発酵肥料とは、最終段階を乳酸菌・酵母菌で、アミノ酸やビタミンに発酵させる過程らしい(薄上秀男)。これが上手く運ぶと、腐敗臭は出ないらしい。なお、下記記載時点では、ぼかし肥料と発酵肥料の差を知らずに記載しているので、その点の注意が必要です。
 
とにかく、webで調べると、C/N比の高い米ぬかでも、発酵することで、窒素の多い肥料に変えることで、悪臭の生じない発酵を維持することが重要らしい。発酵期間は、夏で10日、春秋で2週間、冬季で一か月が目安とのことだ。発酵時は余り高温は良くないらしい。特に水分過多が駄目だとのことだ。
何となく発酵なるものが判り始めた。
バケツには、土と米ぬかの混合物を入れて、そこにヨーグルトの残りを水で薄めていれて発酵させている。
 また、ポット用土として、比較的少ない米ぬかを混ぜた土を、ポリ袋に入れて太陽消毒しようと縁側土間においている。

 
 9月27日 新農園には空き地がなく、旧農園の空き地にキャベツの苗を育てることにした。
大量の米ぬかを入れて、2週間後に播種する。
そこの土を、新農園の肥料としても使う予定だ。
米ぬかを置いた所


 土と攪拌したところ。
9月29日にはくさくなった。屋外で発酵させる時は、土を被せることが必要だ。
周囲の人家への影響が心配だと、夜中に気づいた。明日対策として土を被せる。
 9月30日
タマネギの苗が徐々に減って行くので、新農園の米ぬか発酵エリアの片隅に、玉ねぎの種を播種した。カバーは古い透明マルチとした。これが定植できるのは55日後、2か月後として11月末になる。キャベツは9月中旬に播種して定植12月初めとしているから、新農園の玉ねぎ新播種地点の横が良いかな、と考える。特にキャベツ播種として旧農園の考えている場所が、建物の陰部分に近いので成長が遅いのでは、と心配していたので、新農園が良さそうだ。なお、旧農園の発酵土砂は新農園への追肥に使える。
なお、キャベツは、定植まで1ケ月らしい。ほんとうだろうか。本当だとすると、新農園での定植場所がなくなる。播種を10月中旬に遅らせて、定植も遅らせることとしよう。
10月1日
投資金額は増えるのだが、防虫カバー5m物2個1500円弱を購入した。
なお、本日夜半から暴風雨となるようだ。
10月2日
未明の暴風雨でかなりの損害が出た。
新農園では、カバー無しのジャガイモが全て倒れた。新農園ではジャガイモの支柱が必要らしい。
更に、トンネル内のブロッコリーが倒れた。ブロッコリーはトンネル内でも支柱が必要らしい。
若しくは、風除けサイドカバーをジャガイモや、トンネル外に張るべきか。
旧農園では油断しすぎた。オクラ、ピーマン、ミニトマトが倒れた。
一応、支柱で支えたりして、根元をまっすぐにして、土を盛って補強した。
今後への重大な教訓だ。
10月3日
家でやっている米ぬかの発酵がかなり臭くなってきたので、ポリ袋にくるんだまま新農園に運んだ。旧農園で土と混合していた分も同様に処置した。これで追肥分は十分に準備出来た。
冬にはこれを最初から新農園で行う予定だ。
今は、大容器での発酵だけを家で行っているが、これも新農園で行うことにする。
新農園には、水容器、米ぬか容器、発酵容器の3容器を準備する。
10月4日
先に記述の件を再記載。
つまり、C/N比の高い米ぬかでも、発酵することで、窒素の多い肥料に変えることで、悪臭の生じない発酵を維持することが重要らしい。発酵期間は、夏で10日、春秋で2週間、冬季で一か月が目安とのことだ。発酵時は余り高温は良くないらしい。特に水分過多が駄目だとのことだ。
何となく発酵なるものが判り始めた。
なお発酵肥料やぼかし肥料とは、肥料の即効性が高いので、それなりに使い方に注意が必要らしい。
最近、容器に入れた米ぬか発酵は、すっぱい匂いがしてきたので心配になった。水分が下に集まるので、米ぬかを加えた。が、すっぱい匂いについては、この記述が正しいようだ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1242700817
「ぼかしの発酵は、有機質→糖化→分解→乳酸・(アンモニア・アルコール)・アミノ酸→アミノ酸化合物・無機質の経緯をたどります。この初期の糖化の過程では、こうじ菌が働き甘いにおいがします。 乳酸発酵過程では、納豆臭から酸っぱい臭い替わり(・・このときヌカ床の臭いになります・・・)
この後、適正水分状態では、ほぼ無臭に推移し、水分が多いとアンモニア臭がしてきます。」
つまり僕の発酵は正しい道を歩んでいるらしい。これで僕の発酵手順での産物は、ぼかし肥料として使うのが望ましく。土に混入して使うことにする。更に強調すべきは、僕の遣り方では、良い香りが出る麹菌発酵を続けることはできず、必ず途中から乳酸菌発酵となり、ぼかし肥料ができることになる。麹発酵を続けるには、日本酒を作る工程にしなければ無理ってことでしょう。が、とにかく、僕の目的はぼかし肥料作りだから、その手段は間違っていないことになる。
10月5日から、折角できたぼかし肥料を使っての追肥を行う。水に溶かして、これをヒシャクで給肥する方法で試す。先ずはじゃがいもからだ。
なんとなく、万歳をしたい気分となっている。
ただ問題は、やはり臭気だ。すっぱい発酵臭は、ぬか床の臭いに近い。これを非とするか是とするかは人により異なるだろう。化学肥料を使い慣れた人には許せないかもしれない。

なお、米ぬかの発酵については、これが非常に役立ちます。
http://www.eonet.ne.jp/~ya5h-nksm/bokasi.html

10月5日
本日初めて、すっぱい匂いの発酵物を、バケツで水に溶かし、これをジャガイモに与えた。さてっと、即効性はどう現われるのだろうか、楽しみだ。

後、容器にある分を乾燥させねばならない。量が多いので、徐々に実行する。もしくは、手をかけない方法としては、容器内に入れたまま、水分を新しい米ぬかで吸収させるって方法がある。容器内の発酵物の固まりの下方に空洞を作り、水分がここに溜まってゆくから、そこに新しい米ぬかを供給すれば、水分を吸収してくれる。水分を吸収した米ぬかの下にまた空洞を設けて、水分を貯める。これを繰り返せば徐々に乾燥して行く。なお、発酵済分は順次畑に持って行けば良い。
(追記:その後、内部にうじむしが多数いることが判り、空洞はやめて、上から押さえつけ、ポリ袋でほぼ密閉カバーをした。これでうじむしは窒息するのではないだろうか。)

なお、どうしても芳香にはならない。せいぜい、すっぱい臭いが昂じて糠味噌の臭いだ。
しかも蛆虫がわいてきた。ただ、蛆虫と言えども不潔には感じない。だから、発酵の結果として蛋白質ができたと考えても良いのだが、成虫になると飛んで逃げるだろうと、はしでつまんでは瓶に入れた。さて、この発酵は失敗なのだろうか。いや、腐敗臭ではない、すっぱい臭いと糠床の臭い、だから、一応成功として、他の人のを見る機会を待つことにする。
なお、発酵肥料については、ページを変え、まとめて記載する。

10月14日 ソラマメ(サラダソラマメ赤と早生ソラマメ茶)をポットに刺した。大体8日間で芽が出て(10月22日)2週間程度で植付け(10月30日)らしい。
 また、新農園の肥料化部分に、キャベツの苗を育てるための僅かなエリヤを確保して播種した。
支柱で溝を作り、ポット用培土で覆うって方法を採用した。更に、シジミチョウ除けネットを配置した。

10月16日 白菜へのトンネルが小さすぎて、白菜が窮屈になっている。窮屈の域を越えているので、他の人の方法で対策することにした。幅広い防虫ネットと大きなトンネル支柱を使わないで、2枚の防虫ネットと、従来のトンネル支柱と縦長の支柱を組み合わせて使う方法だ。が、雨のため、明日か、明後日に施工する。
10月18日 トンネルをかなり大雑把な方法で拡大した。縦長の支柱は使わず、トンネル支柱の差し込み幅を狭くして背が高くなるようにした。当然、従来のネット幅1.35mでは不足なので、もう一枚を追加利用した。
小松菜、ホウレンソウ、リーフレタスはいっぱい取れた。旧農園に比べて信じられないほど、生育が良く、いっぱい育つ。旧農園との違いは、①防虫ネットによるトンネル栽培 ②培土を使って芽出しを良くした。の2点である。新農園でもトンネルをしない場合は明らかに育ちが良くない。
そのほかで、新農園の生育を良くしているのは、深く耕作することと、米ぬかをすき混んで2週間以上を寝かせてから播種したことだろう。
10月20日
タマネギの苗は雑草に弱いとのことなので、新旧両農園のタマネギ苗棚の除草を行った。
また、米ぬか乳酸発酵分の水溶液を散布した。
10月23日
今後、タマネギ、そら豆、グリンピースを植えて行かねばならない。
畑は満杯だから、葉物野菜を処理してゆく必要がある。そもそも一気に多くを植えすぎた感もある。
そこで、旧農園に葉物を播種することとした。切り返しが遅れ、それにこだわり処理が遅れていたナスを全面処理して、発酵途中の米ぬかと石灰を撒いて準備を終えた。
10月24日
新農園に行くと、玉ねぎ苗とか新しく撒いたキャベツの苗とかが一気に育っている。
つまり、秋野菜は9月初めの雨の後と、10月末の露の時期が育つ時期だと判った。
早速、旧農園に、ホウレンソウと小松菜を播種した。
芽が出たら、防虫と保温を目的に透明ポリシートで覆うことにする。
 
旧農園で見事な大根が収穫できるようになった。
つまり、3年間生ごみだけで給肥し、その結果、大根の育ちも余り期待できなくなっていた土地で、米ぬかそのままの肥料を元肥とし、それに、米ぬかを乳酸菌だけで発酵させた追肥で、大根は立派に育つことが証明されたのだ。これはとても大切なことだ。
 
10月29日
旧農園のホウレンソウ後に、小松菜播種した。
 
昨年のタマネギ定植は、10月16日        →今年は11月10日頃予定、11月末でも良いと思うが、苗の状態、購入時期から(周囲の人々はもう植付け完了とか、植付け中・・但し黒マルチはしていない)
グリンピース播種は10月22日           →今年は11月末予定(結果は遅すぎた。11月半ばが良い)
キャベツ播種は10月28日(忘れていた) →今年は10月14日
そらまめは昨年やらず。               →播種時期から想定すると、10月末となる筈だが場所が無い。ちょっと遅らせる。
とにかく場所が不足になった。リーフレタス、ハクサイ、ホウレンソウ、小松菜の全てについて作りすぎた。少しずつ時期をずらして育てるのが望ましい。
 
10月30日 
小松菜を整理、それに、ハクサイを後植した場所を整理して、そら豆の定植場所を確保した。
苦土石灰を十分に撒き、深く剪定枝や雑草に米ぬかをかけて入れ、表層には、畑で発酵させた米ぬか入り土砂を入れ、更に、そら豆定植(50cmピッチ)間の中間に米ぬかをすき混んだ。
ポットのそら豆は十分に育っているが、後、ホウレンソウを整理して、更に場所を増やしてから定植する。なお、ポット苗の2~3割は、黒く変色したりとか、芽が出ないとかで使えない。
8月30日にポット播種し、その後、新農園に移植した玉ねぎの苗が十分に育っているので、定植を行った。どうやら120本はあった。もうちょっと遅い方が良かったようだ。しかし、今年は11月中旬のベトナム旅行と重なるので、むずかしいところだ。Loyalにまだ100本を注文し、しかも、11月末を目標に苗を育てている。場所は、ニンジン、ハクサイ、ジャガイモの整理できる時期との競争になる。いったいどうなることか。タマネギの10月末定植と、11月末定植の結果比較ができそうだ。
タマネギ 64本
タマネギ 50本 合計110本程度 
新農園キャベツ苗 
新農園11月末植付けのタマネギ苗 
  玉ねぎ植付けスペース(Loyalに100本も発注してしまった。
 右端は、手前、そら豆スペース で、向こう側ほうれんそうを収穫すれば、スペースは増える
 中央、ブロッコリより左側はそら豆スペースで、右側はタマネギスペース
 旧農園 こまつなの芽が出ている。
 旧農園ほうれんそう 芽が出ている。手前は春菊です。
11月1日
 
そら豆の定植を終えた。サラダそら豆6苗と普通そら豆9苗がせいぜいであった。つまり、いっそのことサラダそら豆だけを買えばよかったのだ。

定植場所が無いので、まだホウレンソウが有る所では、ホウレンソウの間にも植えた。
これは、来春用キャベツの苗の育ち状況です。順調です。
 
11月3日
新農園の白菜を試し取りしたが、見事に巻いていた。旧農園の大根も試し取りしたが、見事な大蔵ダイコンが育っていた。結局、米ぬか肥料だけでも、野菜への効果は著しく、特に、根の成長には効果的であることが判った。
たまねぎ苗が元気すぎる。黒マルチ下に肥料が効きすぎか、植え付けで根を大事に植えたのが原因かと思う。このまま育つと春には塔が立つので、根を切るか葉を切るかも考慮せねばならない。
11月4日
旧農園で育てていた玉ねぎの苗は、日影で成長が遅く、それに、育った量も少なかったが、新農園のピーナツをせいりした所に定植した。そこは、間隔10cmとして約60本であった。これで自前の苗は約180本を定植し、11月末の分がまだ残っている。更にLoyalで予約購入を100本していて、これは11月7日入荷予定である。
11月6日
夕方にRoyalからタマネギの苗入荷連絡があった。11月7日に購入し植付け。100本で533円であった。
植付けたそら豆を見たが、脇枝は無く素直に育っている。脇芽が多ければ芯止めも簡単なのだが、素直に育った場合はどうすれば良いのだろうか。調べればならない。根の辺りから直接脇芽が出ているものを邪魔だと切ってしまったのもあり。これはまずかった。素直に育つのより、脇芽が出ているのを選べばよかったかもですが、そんなのは主芽がどれかも判らない。なかなかNET情報や、本に書かれた通りではなくて難しい。
芯止めを12月初めまで、と書いているのと、春になってからと書いているのがある。
どうやら、素直に育っているより、ずんぐりとしたのが良いらしい。それは、冬を越すために望ましいとのことのようだ。つまり、素直に育っているのは、冬を越しにくいから12月中に芯切するのが良いのかもしれない。が、芯止めは今でも良かろうと、やってみた。どうなるか。
11月12日
家のポット育てのそら豆にアブラムシが付着しているのを確認した。動きが遅いので容易に排除できるレベルだ。畑も確認したが、畑のには付いていないようだ。
ホウレンソウの最後から3株目を収穫した。相変わらず良く育っている。
11月27日
ベトナムから帰国2日目 グリンピース(スナックとうすいの2種類)を播種し、支柱を立てた。
11月28日
グリンピースの風よけ設置と、キャベツと玉ねぎの一部を定植、そら豆4株のポット苗の定植。
キャベツは、白菜を収穫した所に定植する。
11月29日
グリンピースの播種と、風除けの設置
そら豆の植付け状況 芯止めを終えた。 
ブロッコリーは元気だ。 
リーフレタスを播種して、シートで保温をした。 
玉ねぎは元気すぎる。 
 
12月12日 グリンピースの発芽が悪い。2か所程度だけしか見えない。恐らく、播種が遅すぎたので、発芽適温15~20℃に達しないからと思われる。同じ畝に列を別にして新しく播種し、透明カバーで覆った。それに明日からは比較的気温が上がるらしい。何とか発芽して欲しいのだがどうなるだろう。透明カバーを設けた時に、発芽が確認できた。結局、2週間近くかかっての発芽であった。午後から暴風雨になった。
 
12月22日 グリンピース用支えNETを張った。透明カバーは張ったままだが、いつ外すか、難しいところだ。
1月13日 状況








 
 
 
 

 

2015年9月19日土曜日

老人は切れやすい (続編)

僕も含めて老人は切れやすいってことは、以前に記載した。
特に、貸農園での、ある老人との諍いについても記述した。
http://isabon.blogspot.jp/2014_01_01_archive.html
ところで、貸農園が閉鎖されて、その後の経過も記載した。
http://isabon.blogspot.jp/2015_06_01_archive.html
要するに、僕は、農園が閉鎖されたものの、地主さんと急いで交渉することで、近くの別の貸農園を借りられたってことなのだ。それも、旧農園からはただ一人だけであったのだ。
が、ここでもトラブルが起こった。
僕の新農園の斜め北西側に背の高いSさんって老人が居て、僕の作業中に近づいて来て話すのだが、彼は旧農園に行き、僕の評判を聞いてきたらしい。
「あんたの評判は悪いね」と言う。「畑は乱雑だし、野菜が病気になってもほったらかしだって評判だよ」って言う。
その以前に、当の老人は「直ぐ隣のKさんが、病気の野菜をそのまま放っている」と文句を言っており、「農薬を使えば良いのに」とも言っていた。
つまり、病気の野菜に関するこの状況は、農薬を使わない派と、農薬を使う派の、どこの農園でももめている問題なのだ。
僕は農薬は一切使わない派で、旧農園で僕ともめた老人は農薬をせっせと使う派であった。
農薬を使う老人たちは、「政府が農薬の使用を認めているのだから、人間には害はない」と公言し、自身も信じ切っている。なかには、上向きに噴霧器、それも本職用の大きな噴霧器で農薬を散布し、農薬が自分に掛かっても物ともしない。それどころか、上にある葉に十分に農薬が掛かるようにと手で葉を広げてそこに散布している。時には、アブラムシをやっつけるために市販の殺虫用アース噴霧器を使っている。
かような状況は、生産性を第一とする、最近の農園参加者の傾向だ。更に問題は、彼らが農薬を多用することで、害虫が強くなり、しかも、害虫の天敵は簡単に絶滅することになり、更には、害虫達が農薬を使わない畑に集中することから、農薬を使わない畑は甚大な被害を蒙る状況になっている。
数年前までは、害虫の被害は耐えられる程度であったが、最近は農薬を使わぬ野菜はほぼ全滅との状況になり、僅かに残された野菜だけが我々の食料となっている。農薬使用派が要求するように、「害虫にやられたら農薬を使うか、農薬を使わないなら野菜そのものを処分せよ」との要求に応じるとすれば、農薬を使わないなら、全ての野菜を収穫ゼロで処分することになる。
このような状況で、新農園のSって老人は、どうやら、旧農園で僕ともめた老人と話をしたと思えた。更に、僕の旧農園が乱雑なのは、新農園を先ず整理せねばならないからであり、旧農園が閉鎖になることから、僕のエリヤ以外も、旧農園は多くの人のエリヤの手入れは行き届いていないのは当然のことなのだ。それにも拘わらず、僕の農園が乱雑だと告げ口したってことは、僕に特別の恨みがある者の告げ口であろうと想定でき、それなれば、新農園のS老人が話した相手は、あの老人だな、とも想定できた。
更に、そのような悪口を、悪口の対象なる当人に、ずけずけと言うなどとは、僕には理解不能な行為と思えた。しかも、そのような悪口に対して弁解するなんてことは事実上できないことなのだ。で、その時にはむかっとしたが黙って聞くだけにした。ただ、その後はできるだけ、そのS老人とは話をしないようにしていた。
それから暫くして、僕が新農園で幸運にも借りることができたことを知った旧農園の一人が言うには、「あそこで、Sって爺さんには気をつけろ。放送局だからな」とのことであった。
更に、新農園で作業していると、ちょっと知り合った新農園人が、「あのノッポとは話をしないほうがいいよ。知ったかぶりで自治会でも大事になったんだから」と忠告してくれた。まだ新農園に入ったところで、そんな新人に早速忠告するようでは、S老人の評判の方が心配されるではないか。
てなことで、S氏は、僕に劣らず評判が悪いことは確実の様であった。ただS氏のように、悪口の対象となっている本人にずけずけと言う人が居ないので、S氏本人は気づいていないのだろう。

約10日間の大阪拠点整備後、帰って翌日に旧農園と新農園の状況を調べた。旧農園では、去年でも虫がつかなかったダイコンに虫がついている。旧農園の農薬好きの老人(これは、僕ともめた老人ではないが、新農園のS氏の友人でもあるらしいから、僕の悪口をS氏に告げた一人かもしれない)の畑のダイコンは、農薬を十分に効かしているので、きれいなままである。
来年から、僕のダイコンには防虫ネットが必須である。
他方、新農園では、防虫ネットを多用したので、その中はきれいだが、防虫ネットを使わない所は虫食いで散々であった。これからの農園作業では、防虫ネットか農薬かの選択が必須となった。
でもとにかく、全ての畝の作物を、間引いて土寄せをしていると、新農園のS氏がやってきた。忙しく作業している横に立って、あれこれと話しかけてくる。その会話の中で、我が新農園の中に勝手に生えていたハグラウリ、これは、最初はズッキーニと思っていて、その後、へたがあるので再調査してハグラウリであったことが判ったものだが、その発見経過と名称の面白さを披露したくてそのことを話すと、S氏は僕の意図とは関係なく、あたかも鬼の首を取ったかのように突然声を荒げて、
「だから、僕は最初から、うりだと言っていたんだ。それなのにズッキーニだと主張して、そんなことだから、皆の信用を無くすんだよ」と言った。なぜその程度のことが僕の信用問題になるのか判らないのだが、彼の言うことを総合すると、僕は、住宅内で、「評判が悪くて信用を失った男」ってことになる。このような非難はたまらないのだが、これに対して証拠を挙げて弁解することは、ほぼ不可能であろう。そのせいもあってS氏の言葉で僕は多いに腹がたってきた。
で、「向こうへ行け。ボケ」と答えた。僕は下を向いたまま言ったので、S氏の様子は判らなかったのだが、大いにショックを受けたようで、一瞬黙った。そこで、再度、「向こうへ行け!ボケ」と言うと、「年寄りだから・・・」と言って去って行った。恐らく、僕が年寄りだから大目に見るって意味だろうか。僕も、S氏を、年寄りだから大目にみるべきだったのだろうか。
S氏は去ったので、ポット育ての玉ねぎをポットから出して仮植えして、カバーを掛けて、作業を終えた。
その後、家に帰り、その時のS氏の態度、それに、僕の失態(ズッキーニだと思っていたのが失態だろうか?そもそもS氏は、そのウリが何かも把握できなかったのだ)についてあれこれ考えてみたが、そもそもS氏は僕の名前さえ知らない筈なのに、僕の評判や、それに僕の信用性について、いったい何人の住民に聞くことができたと言うのだ。つまり、僕の名前を挙げることもできないのに、僕への評価を問える筈もない。つまり、S氏が聞けたのは、僕ともめた1人、多くても、農薬に着いての意見が違う1人を加えて2人だけだろう。それにも拘わらずのの評価を一般化してあのような責め方をしたのか、何故そのように責める根拠がどこにあるのかと、理解できないままである。

それにしても、僕も含めて、困った老人たちです。

このSさんの言動から、僕の住友重機械時代の、性格の悪いと評判の上司を思い出した。そのような上司は、そのセクションの天皇と称されることが多く、概ね出世するのだが、彼等も、Sさんと同様に、弁解しようのない事柄で部下を責める。しかも、これと目をつけた部下を徹底的に攻撃しだすって傾向がある。新居浜でこのような上司に攻撃されて自殺したと噂される男もいた。その男はとても仕事は出来るのだが、狡さが無いこと、真面目であることから、攻撃の対象としては恰好の的だったのだろう。僕も大阪ではかような性格の上司ににらまれて、徹底的に攻撃されたが、完全に跳ね返して仕事を完遂した。彼らは概ね仕事は無能で臆病なので決断ができないこともあり、それに、仕事を遅らせてその責任をプロジェクトリーダーに押し付けようとする。遣り方は簡単だ。提出されてきた承認を要する図面にあれこれと難癖をつけて製造部署に回せないようにして仕事を遅らせるとか、工事方針に難癖をつけて工事を遅らせるとかである。彼らは仕事を遅らせてトラブルを起こさせて、これを責めることすらいとわないって性格で、それに加えて、元々、慎重で臆病だから、明確にこうせよとの指示を出すこともできないことも一因となっている。
かような嫌がらせに対して、例えば、図面の出図が致命的に遅れるようであれば、日曜日に出勤してその上司のハンコを膨大な量の図面に押してしまい、製造部署に出図してしまうとか、工事であれば、先にどうなるかを予測して全ての準備作業を完了しておくとかの対策が出来る。
東京時代にも性格の悪いと評判の上司(新居浜で自殺者を出したと噂された男が栄転してきた)ににらまれたことがあったが、これも、仕事の方向についてグジグジと責められている間に、裏では仕事の段取りを済ませ、更には実行して仕事の実績を上げてしまえば良いので、グジグジ言われる鬱陶しさを我慢するだけだった。要するに、意地の悪い上司は決して責任を取らないってことを前提として、裏で仕事を好きなように推進しておくことが必要なのだ。
住重にはかような上司が多かった。有能でも性格が良い上司は概ね出世しないので、出世するには、性格の悪い上司と仲良くなるのが必須である。と言うことで、僕も出世できなかったわけだ。
弁解ができないことがらで他者を非難するって傾向からすると、新農園のS氏もどうやら同様の性格と思えるが、もう新農園では出世も左遷も関係ないのだから、好きなように言わせてもらうのが精神衛生上望ましいだろう。
性格の悪い上司は、概ね、反論しがたい事項でけちをつける傾向があり、S氏の非難内容と似通ってることから、昔の上司のことを思い出したのだ。話はかなり横道にそれてしまった。

さて、他の人は、「お前は町内で評判が悪くて信用を無くしている」と言われたら、怒るのだろうか、それとも、「まぁそう言わんと」と返すのだろうか。
でも、S氏は、「まぁそう言わんと」と返されたら、それで笑い返すどころか、更に押さえつける言葉を吐きそうな気がする。だから、「ぼけ!」と言うのが正解だったろうと考える。さて今後はどうなってゆくのでしょうか。

ところで、旧農園で僕の悪口を言ったと思える二人の農園を掲載しよう。
1人は、建物の日影でも見事に作物を実らせる人で、何故か、大根を畑いっぱいに育てている。
この写真の他にもう一区画も大根がいっぱいって、たぶんどっかに売ってるのじゃないでしょうか。
だから、農薬をせっせと使って、きれいな大根を育てています。なお、日影部分なので、借り賃は通常の半分で年間5千円とのことです。
 もう一人の農園は、僕の畑の向こうに見えるビニールハウスとその周辺です。貸農園でかような建物や架台を設けるなんて、ちょっとルール違反では、と思えますが、かような区画を2区画に、それぞれ一棟設けています。しかも、畝は頑丈な木で囲うってこりかたです。
が、貸農園の閉鎖で、全てが撤去となるわけです。この人も農薬はばんばん使っています。それに、他の人の畑の病虫害の放置が我慢ならんようです。
ってことで、2人とも農薬はふんだんに使っています。おふたりとバイバイできるのが嬉しいのですが、新農園でもやっかいなお人がいますわい。でも気にしないで励みます。
 
しかし、新農園のSさんは、ちょっとタイプが違ったようだ。僕が「ぼけ」と言ったのに、再び話しかけてきた。どうやら、根に持たないか、それとも、聞き流すか、更には、淫靡に根に持つか、のいずれからしい。それなれば、こちらも気楽に言いたい放題で付き合えばよいのだろう。案外、そのほうがお互いに良いのかもしれない。ただ、他の人や自治会についての話題は、避けるか、それとも批判は一切しないことが前提だ。
結果はまた記載する。

2015年8月30日日曜日

野田 剛 君 追悼


野田君追悼と事態の経過について  百野正直

 大学時代の思い出といえば、私は自宅が南海沿線の南方面、しかも通学時間もかなり長かったので往復はたいてい独り、誰かといつも一緒ということは特になかった。進級、卒業に必要な単位を揃えるのが精一杯で、特に応用数学解析、一般力学との苦闘ははいまだに夢に出てくることがある。学部に進んでからの「授業の合間の野球と製図室での雑談」が一番の楽しみであった。

 野田については、成績が非常によかったが「天才」といわれるとムキになって、そうではなく自分は努力するだけだ、と言うのが常であった。誰に対しても親切で物静かな話し方をし、名前の「剛」に反して見かけは「柔」しかし内面はつねに「剛」そのものという印象だった。

 そんなことで、彼との付き合いは卒業後同窓会を通してということになる。

卒業後富士通に行った私に対し、2年後に彼は修士課程を修了してNECに入社した。当時の富士通にとって、NECは遠く先を行く大きな目標、ここでも彼は私にとって尊敬の対象であった。

 同窓会での彼は、私の記憶では「皆出席」で、いつも愛用のカメラで撮った写真を写っている人に送ってくれていたが、途中からはCDに焼いて全員に送ってくれるようになった。しかもいちいちその会合を総括するようなコメントをつけて、と大変な労力と費用で、しかも自身は写っていないのにと礼を言うと、好きでやっていることだからと、さりげなく返された。

 のちに私は富士通を退職して家業を継ぐことになったが、その後彼も同じ道を辿られた。

学んだ専門知識を100%活かせる彼に比べ、機械工学を捨てることになった私はこの同窓会に出席することすら負い目を感じていたが、彼を始めみんなが何のこだわりもなく受け入れてくれたことはいつもありがたく思っている。特に時代の流れに逆らえず、その家業をも廃業した時も野田からは労いのコメントを貰った。

 さて2006年に石野・石原幹事のもと下呂温泉で行われた同窓会のときのこと。私は迷った末電車で行くと返事したところ、幹事の石野から、テニス組の移動のための車が足りないので車で来てくれないかとの依頼があった。当時はカーナビもなく道中の自信がなかったが、もともとテニスの道具を持って電車に乗るのが嫌でもあったので承諾した。そのとき石野が決めてくれた同乗者が小川、野田、石原の諸君。

何という偶然というか運命というか…。

 小川が集合場所、時刻など道中の計画をすべて決めてくれて交代運転も引き受けてくれた。

集合場所である近鉄の壱分駅に着くと既に野田が来ていた。道中は話も弾み、ひとり電車で行くことを思えば随分楽しかった。計画は、私のテニス参加を考慮して時間配分を決めていたので昼食という段になって、野田が肉はダメということだったが、あまり吟味する余裕もなく途中のドライブインに入った。

そこはステーキが売りの店で、結局彼はカレーライスを注文した。全員食べ終わって、隅に肉だけきれいに残った皿を下げに来たウエイトレスに、彼は「ゴメンネ」と謝っていた。ここに彼の気配りの本質を見た。

 現在、我が同窓会は2年ごとで、その都度幹事が選ばれ、事前にアンケート形式で会員の希望を聞くという形式が一つのパターンになっている。その中で開催日に関しては、第一線からのリタイヤ組の増加に伴い土・日よりも平日希望というのが大勢を占めており、いまは連休と平日の中を取って、日・月で開催されることが多い。私は本来土・日でないと困る組だが、日・月で月曜日だけ休暇を取って毎回参加している。が、3日目オプションの観光旅行は参加できない。そこでせっかく空いている土曜日を利用した前泊の観光を考えた。手前勝手だが、その方が初日のテニス参加にも時間的な余裕ができる。本番で豪華なご馳走が出るので、前日は質素でもその土地の産物を食べさせてくれる民宿程度の宿泊を考えた。同じような状況であると思われる野田、河野両君を誘ったところ賛同してくれた。第1回は2010年、開催地広島に近い「しまなみ海道」の大島にある旅館で小泉も参加した。我々と同世代の主人が、定年後奥さんと二人で経営する民宿型で、自分で取ったり仲間の漁師から手に入れた地の魚をふんだんに食べさせてくれた。ホテルや温泉の大旅館では出てこない魚ばかりで、刺身、焼き魚、煮魚、から揚げ、果ては吸い物にまで多彩な姿で。肉を食うと便秘が起こって腹具合が悪くなると言っていた野田も、このときは全部食べてくれた。

 この企画は小川も交え3回続いており、宿泊先選定のための情報は、毎回河野に頼っている。野田は、最初の下呂温泉のときを含め、前々回の長野県駒ケ根温泉まで毎回参加してくれた。いつのときも彼一流の気配りで、高速路通過のたびごとにアナウンスされる料金をきちんと記録し、給油の金額や走行距離の概算から暗算や骨太の計算で各人の負担額を瞬時に決めてくれた。前回の西浦温泉のときも参加の予定で、事前計画のための食事会も来てくれたが、直前で体調を崩され同窓会も欠席された。

 同窓会の前後から何度か電話して様子は聞いていた。(心臓の)冠動脈に狭窄があり、拡張のためのステントを挿入しているが、ほかにも腹部に痛みを伴う不調があり、いろいろ検査をしているが、これといった原因はわからないということだった。折りから、山河から電話だったかメールだったかで、彼のことを聞かれたので、そのときわかっていたことをすべて伝えた。直後に、彼は野田に直接見舞いの電話をした。それを受けてそのときの二人の結論は、①冠動脈の手術は医師の判断が近く出るだろう②腹部の不調は会社を中心とする彼の周りのいろいろな出来事から来るストレスが大きな原因ではなかろうか、ということになった。ただ、野田に何かがあったら必ず知らせて欲しいということだった。加えて、幹事の乾が同窓会直後奈良に帰省したとき野田を訪問。その結果はみんなにメール配信されたとおりである。

 今年は同窓会の年ではないが、いつもの前泊旅行のようなものができないか、あるいは食事会だけでもと思い、その前に5月まず野田に電話してみた。

そこで知ったのが3月に胆管がんの告知を受け、既に手術できない状態だという驚愕の事実だった。

 入院先から戻ったちょうどその日で、もう休んでいるということだったのでまた後日にと言ったが起きてくれて話を聞くことができた。行けば会える状態のようであったので、5月31日、ひとりで自宅まで見舞いに行った。同窓会前後からずっと体調不良が続き、秋にはペット検査まで受けたのに、何もわからなかった。今回、確か心療内科の先生に肝臓の数値が異常に高いことを指摘されて、初めて分かったという。胆嚢から十二指腸へ行く途中のところで、癌が管をとりまいているので手術は不可能と言う。奥様と二人から話を聞き、医師による診断書まで見せてもらった。私は動顛していて、今後どのように動けばいいのか判断できなかった。ただ、本人は食べられないということで痩せてはいたがしっかりしていて、このまま自宅療養と会社の業務も続けるというようなことだった。奥様によると、「いつもはもう少し辛そうで寝ていることが多いが、今日は百野が来るというので、小ざっぱりした服装でずっと起きて待っていた」ということであった。野田のことだから、すぐにでも幹事に連絡して彼を思う全員に現状を知らせて欲しいと思ったが、そうなったときの反響や彼の受取り方を思うとき、いますぐはそうしないでおこうと思った。彼の立場になったとき、自分ならどう望むだろうかということが想像もできなかった。

 彼の交友関係もよく知らなかったし、誰か知らせて欲しい人は、と聞いたが首を横に振ったので、また来るということでその日はそのまま辞した。

帰ってすぐに山河に電話したら、吉原と二人でと海外旅行中とのことで帰国を待った。数日後、折り返し電話があったので事実を伝え、大阪方面に来ることがあれば見舞ってやってほしいと言っておいた。

しばらくして山河から電話があり、野田に電話したら現在入院中で面会は可能、近く見舞いに行くということだったので、6月23日生駒市にある近大奈良病院への見舞いに同行した。車で行く途中の話で、彼が野田と家族ぐるみの付き合いがあったことが分り、彼から野田とクラスメートとの交友関係を詳しく聞いた。病院では二人の話がはずみ私はもっぱら聞き役に回ったが、前回私が訪問した時よりも話の範囲がずっと広がった。別れ際に握手を求めて野田が彼に手を差し出した情景は、思い出すたびこみ上げる物がある。

 帰る際、病院のロビーでしばらく山河と話をしたが、二人の結論は、思っていたより彼がしっかりしていた、奥様が気丈に応対してくれたのが何より心強い、手術はできないということだがあとは彼の免疫力に期待してできるだけストレスを避け少しでも長くいて欲しい、我々もそのサポートを続け、来年の同窓会では彼の頑張っている状態を皆に報告しようということになった。

7月に入り、氏神である神社の氏子総代を務めている関係で夏祭りの神事に忙殺され、無事終了して跡片付けが終わった翌7月21日の昼過ぎ、それを待っていたかのようなタイミングで奥様から訃報の第1報が入った。祭礼関係の支払いに神社へ行っている間のことで家内が聞いた。夜半に亡くなったので、後のことは決まり次第ファックスで連絡するとのことであった。

予想だにしなかった速い展開に動顛したが、まずはその段階で、新旧幹事の水野、乾と山河に第1報をいれ、夕方のFAX到着を待って第2報をいれた。それが全員に配信されることになった。

通夜には、近くに住む仲間が私を入れて6人、葬儀には遠方の4人と私が参列した。特に葬儀のときは山河、志水、私の3名は斎場での最後の別れ、骨揚げ、さらには当日行われた初七日の法要まで同席することができた。

 同窓会の仲間みんなが持つ印象では、おそらく野田が群を抜いて多く、今回の訃報を聞いて驚いたことと思う。現に、石野がすぐさま電話をくれて、様子を聞いたうえ、「自分の息子に不幸があったときわざわざ家まで来てくれた、今回何ができるだろうか」という相談で、いかにも何かしないといられないという思いが伝わってきた。やはり闘病中の様子を、早い段階で皆に知らせておいた方がよかったのでは、という思いが拭えない。

とはいえ、我々もみな何が起こってもおかしくないところまで来ている。

野田に対してあまりに早い逝去を惜しみつつ、冥福を祈るというよりまた会おうという思いでいる。

こちらから向こうは見えないけれど、向こうからこちらはよく見えるに違いない。どうぞ我々を見守りつつそちらでの同窓会の準備をしておいてほしい。

以上(文中敬称略)

2015年8月 百野 正直  

野田君についてのとりとめない記述です。   (志水  作成順)

高校も同じだった野田を知ったのは大学に入ってからだった。高校は同じだったが、野田は、歴史と地理の選択で地理を選択し、僕は歴史を選択したのでクラスが異なったのだ。天王寺高校は進学校で、隣のクラスでであってもクラスが違えば付合いはなかったのだ。また、我々の大学で知り合う経過についても全く覚えていない。が、野田の性格から考えるに、僕が最初に土井、殿村と知り合い、最後に野田もその仲間になったのだと思う。その知り合う過程に全く記憶が無いのだが、その点は土井、殿村達が覚えているかもしれない。そのことは僕もまた、両君に聞いてみたい。が思うに、大学の教養課程校舎は阪急宝塚線の石橋で、帰路が4人とも同じだったのが大きく関わっていることと、4人とも、恐らく家庭の環境も影響して、賭け麻雀をすることもなく、酒を飲むでもなく、パチンコに耽ることもない、極めて真面目な学生であったことと、帰宅の電車経路が殆ど同じだったことが大きく影響していると思う。(なお真面目な学生ではあっても、僕は真面目に勉強していないし、その他の3人は比較的真面目に、特に野田は人知れず真面目に勉強していたようだ。)しかし、僕と土井が阿部野橋から近鉄南大阪線に乗るので地下鉄御堂筋線の大国町経由であったのだが、殿村は近鉄大阪線か、若しくは、奈良線であった。当時、大阪線・奈良線の終点は難波まで延長する以前で両線の終点は鶴橋だった。いや、ひょっとすると上本町だったかな?とにかく、難波までは来ていなかった。だから、殿村の通学経路は大国町経由では無かった筈なので、我々のグループでの殿村との関わり始めが良く判らない。加えて、僕、殿村と土井との関係に比べて、野田は大学同クラス内に付合いの幅が多く、例えば、山河や摩耶などとも付き合っていて、野田の交友関係は我々以外にもかなり多かったと言える。特に天高卒で阪大の機械工学科に進んだのは、何故か、地理選択者が多く、従って、野田には高校で同じクラスであった友人が多かった。他方、同じ高校卒の僕は、先述の様に、地理ではなく歴史選択クラスであったから、彼等とは面識がなかった。そんな事情はあるものの、野田を加えた僕たち4人は大学休暇にも、何かと集まってはうろついていた記憶があり、それに学期中も、野田の自宅が我々の帰宅経路にあったので、しばしば野田家を訪問した記憶がある。更に野田の弟君を交えて麻雀もしたらしい、と、これは葬儀で再会した弟君から教えてもらい、そーなんだ、と、そのことが全く記憶から抜けていたので驚いてしまった。が、そうだとすると、人数的には、殿村はやはり通学経路が異なることから、その際には一緒でなかったことになる。だが、殿村とは一緒に、野田家の車を借りて遠出した記憶もあるから、殿村を含めての4人はかなり親密に交際していたと言えるだろう。

野田との関わりで最も重要なことは、山登り、と言うか、低山歩きを彼の発案で始めたことだろうと思う。僕や土井、殿村も、野田に連れられて、登山靴や、寝袋、バッグ、ニッカ、それにテントまでも、市内の場末に行き購入した。なぜ、彼がそのような商店の在り場所を知っていたのかが今になって不思議に思う。たぶん家業のハトメ製作の関連だとは思うが、彼が何故知っていたのかを聞いておくべきだったと今更ながら後悔している。それはそれとして、とにかく、我々の低山歩きは彼の先導なくしては始まることはなく、そこまで我々の面倒を見たってことは、野田の交友関係の中で、僕たちが重要な位置づけにあったことも事実だろうと思う。ただ、低山歩きの行き先の多くは、何故か、野田ではなく僕がアレンジした記憶があり、その点が不思議でならない。例えば、1年の春、秋の、大峰山から熊野までの麓歩き(山稜部は降雪で立入禁止であった)、2年時の岡山の帝釈峡、四国の室戸・佐多岬歩きなどは確かに僕が計画した。が、学部更には大学院になってからの日帰りの大台ケ原歩き、とか、高見山連系歩き、京都愛宕山山麓歩き等は野田が計画した。(なお、黒部連山歩きや、四国石鎚山系縦走は、水力研究室の小川助教授が計画し、僕と野田が同行した。)かように、野田が居なければ我々の山歩きは無かったことになるのだが、後年、野田いわく「我々の山歩きは、歩くだけが目的になってしまったなぁ」と悲しそうに僕をみつめて文句を言い、それに対して僕は、心の中で、悪いことをしたかのような気分になったことがある。がしかし良く考えてみると、彼との山歩きの経過からすると、「歩くことだけが目的になり、山野草や山鳥の観察をしなかった」との原因は、むしろ、野田にあったのではないかと、今になって文句を言いたいと思う。その件は、僕があの世に行った時に強硬に主張するとして、それはともかく、野田はその低山歩きを生涯続けた。野田の凄い所は、何事によらず、その継続の力だろうと思う。

彼にとっての色んな交友関係の中で、僕のグループがある程度は重要であったと思う。ただ、グループ外の山河や百野との、野田の付合いが、彼の人生や、彼の最後において極めて重要な役割を果たしたことも、事実だと言える。特に山河や百野の誠実で確実な性格は野田にとって重要な友であったろうと推測している。

野田には、その他に中学時代や高校時代の付合いも残っていたのだろうか、そのことについては全く知識がない。

かような僕と野田との関わりも、僕が千葉に引っ越してからは、ちょうど入れ違いに野田はNECを辞めて大阪に帰り家業を継いで、その関わりは希薄になった。特に、大学の同窓会については、僕がその意義を余り感じなくなり、出席を辞めたことから、仕事柄付合いを大切にする野田としては快く思っていなかったかもしれない、が、野田のそのことについての考えを聞いたことは無いので憶測に過ぎない。野田との付合いは希薄になる一方だったが、東洋ハトメの東京事務所設営、や、工場を名張に建設したことは何かの折に野田自身から聞いて、小企業を維持すること、特に何人かの従業員の生活を支えていることに、心から感服した記憶もあり、暫く難聴で苦労していたことや、東海道の徒歩旅行などについては年賀状の遣り取りで聞き知っていた。
かように野田との付合いは希薄になったのだが、僕としては、野田なれば、何があろうとも、いつでも、おう!と言えば、やぁ、と答えるようなお互いに認め合う間柄であったと信じている。それは大学時代の損得無い数年間の付合いから生まれた産物だと思う。つまり、野田にとっての僕の存在価値は相当衰えたと思えるが、僕にとっての野田は、今もなお、親友の一人であったと、間違いなく言える存在であった。それゆえ僕は、今年の年賀状でも、野田の体調が元に戻ったとの噂を聞いたので、一緒に海外への個人旅行に行かないかと誘ったのだ。残念ながらかような結果になり、野田と共に海外の知らない街をぶらつく機会が無くなったことをとても残念に思っている。特に、海外には野田の好きな低山があちこちにあるのだ。本当に残念だ。

ところで葬儀の日に、野田の奥さんから「志水さんの奥さんの料理を食べたのが楽しかった」と聞いた。野田夫妻が我が家を訪れたことがあったのかと驚き、帰ってから女房に聞いたら、そうではなくて、我が夫婦が野田の学園前の家を訪問し、女房同士が一緒に料理をして、それを皆で食べたとのことであった。僕の記憶からは全く消えていたが、野田夫妻とそんな風に付き合っていたとのことに、なんとなく喜びを感じた。

野田は、とても精神が安定した男だと思う。それに用心深く慎重だ。僕も慎重な方だが、往々にして慎重な精神は、悲観的で臆病になるものだ。僕の場合は典型的にその性格となっている。が、野田はそうではない。慎重でありながら楽天的で前向きだ。そもそも、ハトメ製造に関わるなんて将来性に疑問を持つ筈だが、野田にはその様子は全くなくて、着実にハトメの製造と販売に励んでいた。しかも、野田は酒を飲まず、性格的に人にへつらったり、それに中小企業では必須と思える接待なるものを出来る性格でもない。そのことも自分で判っている筈だ。僕が野田の立場であったなら、その時点でハトメからは手を引いたことだろうと思う。が、野田はその道を進んだ。楽天的としか言いようがない。しかも、その道で何事かを成し遂げ、更に何名かの従業員の生活をも維持している。東京に支店を出したり、名張に工場も建設している。とても僕のような臆病者にできることではないと感心していた。大学教育とか大学院教育の意義は、性格が臆病でも、“なんでもやれば出来る”との精神力を養うことで、実際に僕の場合は、その効果があったのだが、野田の場合は、そのような自信そのものが生来の性格の様だった。例えば、無線の資格を持ったり、天気予報図を作ったり、登山に興味を持ったりと、僕たちのグループの先取的な行動の殆どを野田が始めている。しかも、彼は勉学にも真面目に励んでいる。大学卒業時点では、成績優秀ってことで、機械工学便覧なんてものも貰っている。かように、思い出すだけで、得難い友人を失ったことだと、改めて悲しくなってしまう。

野田君との付合いで出来るだけ「忘れるように」しているのが、野田の結婚式の司会のことだ。何か途中で疲れてしまって、適当に飛ばしてしまった記憶があり、その後、その件には一切触れることなく付き合ってきた。この機会に謝罪してしまい、気兼ねなくこれからの僕自身の生と死を受け入れることにしてしまう。

NHKで放映された、白熱講義によると、悲観的な人は過去の出来事で、自分に取って嫌な思い出を選択的に記憶するようです。その悲観的な僕が、上記の結婚式の司会のみを覚えているってことは、野田との付合いの多くが楽しいことであったとのことだろう。つまり残念ながら、僕が悲観的なために、更に多くの楽しい付合いについての記憶が残らず、そのために、それらの事々を伝えられないってことのようです。しかし、時に野田との、特に旅の記憶の断片、例えば、熊野の山中でなぜか犬が数日に亘り我々の仲間の如く附いてきて、後2~3日で帰阪する日に、たまたま出くわした猟師がその犬に興味を覚え「連れて行って良いか」と尋ね、我々の了解を得て綱を掛けて連れて行ったが、その後はどうしたのだろうか、とか、同じ旅で、テント内で眠っていると川底を転がる小石の音がうるさかったとか、四国への旅では、室戸岬でテントを吹き飛ばされ、急ぎ撤収して、会計担当の野田が財布を失ったとか、佐多岬で小学校で泊めてもらった朝に、野田と北村の靴が消え去り、どうやら子犬が咥えて行ったらしく床下で見つかったとか、思い出すと、途切れなく続く、それも細々とした思い出に、その懐かしさに、思わずにやにやとしてしまうのは、これは人間の脳が、悲観的か楽観的かに関わらず、いろんな記憶を脳内に持っているからだと思える。これからも、折に触れてかような彼との思い出が現れることだろうと思う。

と書いている最中に、ある出来事を思い出した。広島での同窓会で、我々に指定された待ち合せ室で菅波と二人だけで居たときに、突然、菅波が「財布が無い」ことに気づいた。彼の荷物の中も十分に調べたが見つからず、僕も同行して、落し物の届けが無いかとリセプションに行ったり、菅波の自宅に電話したりとドタバタして、待合わせ室に戻ると野田が居た。彼に事情を話すと、突然野田は、待合わせ室の椅子を動かして後ろの隙間を探し始めた。と、直ぐに、ひとつの椅子の後ろで菅波の財布がみつかった。この挿話が野田の性格を良く示していると思う。なお、同窓会の後、菅波から、面倒を掛けたね、と僕には菓子箱が送られてきたが、野田にも送られたことだろう、と、これも突然に思い出した。 

ところで歳を取ると、とても怒りっぽくなるようだ。少なくとも僕はそうだし、あの善良な山河でさえそう言っていた。たぶん、自分がなんとか人並みの人生を過ごしてきたとの自信の、逆の表れだと思うが、その点は野田はどうだったのかな、等とも自分のあり方を野田との比較で考えてしまうこともある。それに答えてくれる野田、恐らく、とても有用な助言を与えてくれるであろう男がいないことにも、とても残念な思いを感じる。

野田君との付合いとか、彼についての雑多な思いを、思いつくまま記述しました。野田剛君についての、ご家族のとは異なる観点からの彼についてのプロフィールだと読んで戴ければ幸いです。 

大切な人を失った落胆に加えて、とても暑い夏です。体調を崩されることのないよう、心から願っています。 
                         20158月 志水勇

野田君についての取りとめのない記述    (山河 作成順)

 ミステリー小説の懸賞作品に応募して、準決勝位まで(確か)残った筆力を持つ志水の後にこれを書くのは、気が進まないのだが、他ならぬ野田についての思い出だからと、勇を奮って書くことにする。

 今年は、吉原と63日まで、14日間のバルト3国の旅に出ていて、帰ってくるなり、家内から百野さんから電話があったと。直ぐ電話すると、野田が「がん」らしいとのこと。早速見舞いにと思ったが、今回の旅行は年のせいか、体調の回復が思ったより掛かり、ようやく見舞いに行けたのが、623日だった。

百野も快く付き合ってくれて、何時も同窓会の時に大阪組が、前泊旅行の際に集合する環状線「森の宮」で落ち合って彼のVWで、近大奈良病院に向かった。

病院では、久しぶりの野田だったけど、体は痩せていたが、顔はあの野田で、先ずは一安心をして、奥方を交え、とりとめのない話をあれこれした。彼は結構人望があり、この状況を知れば、多くの人が見舞いに来る事になるが、彼に尋ねてみた。具体的な人名も出したが、多分遠慮が半分以上と思うが、二人が来てくれればいいという事で、百野とも話をしてこの件は我々の間で納めておこうと決めた。

その時の様子から、多分また会えると思い握手をしてその場を辞した。それが、1カ月を経ずに逝ってしまうとは、本当に驚いた。

この時も、百野から連絡を貰ったのだが、7/20から、東京の娘の所に行っている時に、家内から百野さんから電話があったとのことで、早速折り返したら、野田が亡くなったとのこと。又会えると思っていただけに言葉を失った。

しかし、東京に来ているから式服もなく、夏のジャケットで葬式に参列するわけにいかないなと思っていたところ、大竹から宅急便で送れば、23日の葬儀の朝、式場に届くとの事。幸い朝一番で届いていて、葬儀には礼を失することなく参列できた。

葬儀では、棺で彼と別れをすると共に、斎場まで志水、百野と共に同行させて頂いて、骨も拾わせて頂いた。彼の人柄を示すような綺麗な真っ白な骨を持った時はこみ上げるものがあった。その後初七日まで勤めさせて頂いて、帰路に就いたが、両君と共に「東洋ハトメ」の工場の前に行き、新しくなった事務所の前まで入らせてもらった。事務所の感じは同じで、良くここに上がりこんで野田と話をした事を思い出していた。
 さて、そもそも何故野田と親しく付き合うようになったか、そのきっかけは思い出せない。志水の文にもあるように、野田、志水、土井、殿村の4人は良くつるんでいて、どのメンバーの名を言っても4人の顔が同時に浮かぶほどだった。機械製図は、出席番号順だから、山岡とか村岡などとは話すことはあったが、野田は少し離れていてそれほど話す事もなかった筈。確かに彼は大国町で、私は地下鉄で2つ先の岸の里だから近いことは近かったが、石橋も京橋も一緒に通学した事はなかった。

(もっとも、私は航空部などクラブに属していたせいもあるが) 

しかし、我々が「数解」と呼んでいる数学解析の城教授は、機械科の学生にはとりわけ厳しく、「数解」の単位を取れずに1年半の教養課程を終えることが出来ない話は良く聞いた。だから、この教科については、皆結構ナーバスになっていた。

ここで思い出すのは、流石に家で一緒に勉強は無かったが、長電話で「数解」について野田と教え(?)教えられるを繰り返していたことを思い出す。

という事は石橋の教養時代から野田とは親しく付き合っていたと言う事だ。

あまり関係ないが、卒業後三菱レイヨンに就職して、大竹に配属され、独身寮に入ったら、7-8年先輩のちょっと変わった阪大の先輩「城さん」が居て、当時白いコロナを乗り回していた。我々もあの年代になると車に乗れるかなと微かに憧れをもっていたが、何とこの城さんはあの城教授の息子さんだとのこと。成程と妙に感じいった事を今でも思い出す。(詰まらないことはよく覚えている)

 学生時代、確か野田、土井、殿村などと天城峠を歩いたような気がする。先日志水と話をしたら彼は一緒ではなかったとのことで、大学からの工場見学の東京方面組が、その帰りに行ったようだ。ただ、他の連中はタフだったから結構しんどかった様な気がする。

 卒業後は、彼はNECで東京だったのでそう会う機会もなかったが、大阪に戻ってからは、広島から大阪に帰省する機会をとらえて何回か彼の家を訪ねた。家に行くとお母さんが出てこられて話に加わって話が弾んだ。どんな内容の話か思い出せないが。

その後、大体同じ時期に結婚したので、これも家内を大阪に連れて帰った時、野田の家に挨拶に行った。しかし、何故か野田の結婚式には出なかったので、志水の迷司会振りの記憶はない。

家内と奥方とは結構気があったようで、昭和54年頃私がポルトガルに長期出張に出かけている時に、奥方が子供さん2人を連れて社宅のアパートに遊びに来られた。社宅だからそう広くはなかったが、その頃、若くてそんなことは気にもしなかったのだろう。

先日健一郎君に聞いたら覚えてないとの事だった。

結局、大昔だけど家族は大竹まで来られたが、野田は大竹に足を踏み入れることがなかった。暇になったら「奥方と2人で大竹に来いや」と言ってたが、実現することはなかった。その後、子会社の大阪営業所所長の時には、やはり会社経営の実務的な相談でちょくちょく彼の事務所を訪ね教えを乞うたこともあり、本も借りた。

 阪大の同窓会は、成るべく参加しているが、彼は律義に毎回参加して、皆の写真を幹事が頼むわけでもないのにしっかり撮って、CDにコピーして配布してくれた。これからこういう事もない。

彼の場合、百野、石原、小川、小泉などと同窓会の前泊旅行を楽しんでいた。

私も、渥美半島の伊良湖岬方面で同窓会をした時は、彼の車で、何人かと伊勢に行き、向かいの渥美半島に渡った記憶がある。この時石原が別荘を持っていて、そこに立ち寄ったから石原がいたことは確かだ。でも彼も故人となって今はいない。

また石川県の志賀原発の近くでの同窓会の時は、彼の家に泊めてもらって、翌日車で出かけた。今思うと、大体親戚の家でも泊る事がないのに、何故か彼の家には泊めてもらった。優しい言葉を掛けるでもないが、何か彼には人の気持ち和ませるものがあり、お言葉に甘えさせてもらった。

と書いてくると結構同窓会でも彼と一緒の機会が多いのに気付かされる。

 彼と顔を合わすと、硬派の面目躍如で、会社の経営の話、技術の話、特許の話と淡々とした話し方ではあるが、彼が精力を注いでいる様が良くわかるし、それを着実に一つ一つ実現している様は聞いていて感服するばかりだった。名張の工場も案内してくれて、この機械は石原の特許事務所で特許を出しているとか説明してくれた。

我々サラリーマンでは、うかがい知れない苦悩もあっただろうけど、私と会った時は、ぶつぶつ愚痴をこぼしても、人柄であろうけど前へ前への気持ちが出ていて快いものであった。大竹では、工場に出入りする協力企業の社長さんのイメージは、ゴルフをやり、夜は飲みに行くと言うパターーンを良く知っているだけに、彼の堅実で剛直なところが際立って感じられた。

 また最近の年賀状では、社会保険労務士の試験を受けるとあったが、これは難関で、内の娘もなんとか試験を受かったが、会社の休日を利用して塾に通ったり、塾仲間と過去問などの情報交換をしながらようやく通ったような試験で、この歳になってようやると驚いた。流石に病院に行った時、ちょっとやり過ぎたかなと語っていたのが印象的だった。

 今回、遠く離れていても、百野が迅速に手際よく連絡を取ってくれて、会社関係の花輪のなか、我々の花輪がしっかりあったり、大学時代の仲間が集まれたのは何よりで、改めて彼に感謝の意を表したい。

 長々と思いつくまま取りとめもない話ではあるが、これを書きながら彼との交流を思い出した。それにしても、奥方の事を気にかけながらの最後だったが、野田には、やはりもう少し頑張ってほしかった。

もう一つ付け加えると、義父の命日は5年前の720日かだから、野田の命日を忘れる事はない。

                     20158月    山河功資

野田君についてのとりとめのない記述  (土井 作成順)

 野田と付き合い始めたのは、志水の言うように帰路が同じで、真面目な学生で授業をサボることなく1日の最後のコマまで出席し、帰路の時間が同じだったということが大きくきく影響したと思う。

 麻雀については、かけることはしなかったが、お互いに負けず嫌いで、野田の奈良の新居や志水の藤井寺の別宅で徹夜で勝負した記憶がある。野田の弟君を交えたのは面子が足りなかった時だと思う。最後に勝負に勝つのは、冷静に確立の高い手で待って上がった野田が多かったと記憶している。これに関しては、野田、志水両君のご母堂にいろいろご迷惑をかけたと思うので、この場をかりて感謝したい。

 山歩きについては、ワンゲルをもじって「ワンダ-フント」(老婆心ながら‘渡り犬‘のドイツ語)と称して野宿中心の旅行を楽しんだ。資金の少ない小生にとって、御誂えの企画だった。野田は皆勤のメンバ-だったと記憶している。体つきに似合わず持久力があった。

 大峰山方面の旅行の時は、途中で道に迷い水の音を頼りに下って行ったが、滝に出会ってしまい行く手を遮られた。どうするかと議論した結果、野田の提案で元の尾根道に戻ろうということになり、瓦礫道を上るのに難渋したが、無事尾根道に復帰できた。そこでテントを張り、山の湧き水を腹一杯飲んだ時の安堵感は今も忘れられない。さすが冷静な野田の提案であった。

翌日は熊野川の川下りの船旅を満喫することができた。この折は、殿村が体調が悪くて参加せず、山河が参加したのではなかったかな。
(志水注記:尾根越えに失敗したので、169号線下北山村まで戻り、バスで熊野市まで出た。翌年尾根越えに再挑戦してこれに成功し瀞渓谷を新宮市まで歩いた)
 岡山の帝釈峡の時は、沢の近くでテントを張った。その夜、蛍が弧を描いて乱舞する光景は幽玄で素晴らしかった。また、翌日高原で休息していた時、食料(即席ラ-メン)の塩分のにおいで放牧されている牛の群れが寄ってきて、追い払うのに苦労した。小生は牛には慣れていたが、他のメンバ-は気味が悪かったものと思う。

 天城峠越えについては、志水も参加していたと思っていたが、先日の電話で一緒でなかったとのこと。山河の一文で彼が参加したのを知った。ただ、この時もテントで野宿したので、山歩きの装備の大きさから考えて、工場見学の帰路の帰りに行ったという山河の記憶には疑問がある。この時は三月の春休みだったと思う。(志水注記:修学旅行兼企業訪問の帰路ですから、山河の記憶が正しい)前日は小生が育英資金を受給していた関係で、日本育英会と提携している東京四谷の旅館で一泊した。翌日、天城峠でテントを張って野宿した。春なので寒さは大したことは無いと考えていたが、夜は冷え込み、ウイスキ-を飲んで寒さを凌いだのを記憶している。酒を飲まない他のメンバ-はどうしたのかな。

 同窓会では、野田は酒を飲まないので、一手に写真撮影を引き受けCDを配布してくれた。さすがに多忙なためか、律儀な彼に似合わず、配布は次回の同窓会の直前であったが。写真には凝っていたらしく、「白黒の画像は趣があり、古刹の壁の鄙びた風情、特に白壁の雨風でかびた自然の作り出した模様が素晴らしい」と言っていた。その時は“へえ~~。どこが面白い”と思っていたが、近年趣味で俳画を習いだして、墨の濃淡を生かして風景を描いてみると、その趣が解ってきた。これも野田の昔の一言に触発されたのかもしれない。

 山河が幹事で企画してくれた広島での同窓会の帰路、野田と大阪まで一緒しいろいろ雑談した。その中で彼は「よく一部上場の会社の役員になったな」と誉めてくれた。真面目に仕事をしているだけではだめで、“業界で生き抜く術を見出さないと成り立たないという会社経営の厳しさ”をよく解った彼の言葉だけに、嬉しく思ったのを覚えている。また、「大学院生の中には試験の際カンニングさせろという先輩がいる。俺は絶対に協力しなかった」と嘆いていた。彼は、ハトメ製造以外に、製造技術を生かして宝飾品の分野に進出し、会社を発展安定させて後継者に引き継いだ。これから、いよいよ自分自身の趣味の分野を楽しもうと思っていたと推察する。確か“奈良検定”とか、“数学の検定?”に挑戦すると言っていた。

 殿村の言うように逝くのは10年早かった。野田は前回の同窓会には体調がすぐれないとかで参加しなかったが、次回の同窓会では再会できるものと思っていた。そのため、お見舞いにもいかなかったが、今回の訃報を聞いてもすぐには信じられなかった。酒を飲み、タバコも嗜んでいる小生の方が生き永らえている。世にいう佳人薄命ということか。惜しい友人をなくしたものだと思う。我々も遠からず合流するので、その時はよろしく仲間に入れてもらえるよう祈る。

                    20158月 土井初治

野田君についてのとりとめのない記述   (殿村 作成順)

阪大機会工学科学生仲良し4人組(野田,志水、土井、殿村)が出来上がったのは志水の言うように、帰りの阪急電車が同じで、梅田駅まで4人で一緒に帰ることになったことと、4人ともまじめでマージャンや遊びでサボることなく全講義を聴講するという共通点があったため、何となくフィーリングが合う4人のグループが出来上がったと思う。

とはいっても、4人4様でそれぞれ異なる個性の持ち主であって、個性はそれぞれ違うけれども、違いを認めつつお互い何か新鮮なものが感じられてバランスを保ちながらグループを維持してきたように思う。

家が奈良県の郡山であったため大阪から距離が遠く、野田と一緒に遊んだ経験は私が一番少ないのではないかと思う。野田のお宅や会社にお邪魔したことはなく、一緒にマージャンをした記憶もない。

一番記憶に残っているのは、帝釈峡にリュックを担いで4人でのぼったことである。4人組に入れてもらったおかげで生まれて初めてワンダーフォーゲルなるものを楽しむことが出来たわけである。しかし、湖のそばでキャンプしたとき耳が痛くなって1日切り上げて引き上げることになり、皆に迷惑をかけたことを覚えている。野田は身体が小さい割にタフで感心した。

帝釈峡での一番の思い出と言えば、急な坂をやっと高原まで上り詰めたところで不意に牛の首がニューと目の前に現れ危うく転げ落ちそうになったことを思い出す。びっくりした―。どうもリュックの中にあるインスタントラーメンの塩の匂いに引き寄せられ、牧場の牛が寄ってきたらしい。その後も牛にまつわりつかれて必死で追い払うのに苦労したのを覚えている。

同窓会で野田との共通点は、お互い酒が飲めないことであった。ビールコップ半分で顔が真っ赤になる体質なのでウーロン茶で野田との旧交を温めるのが常だったが、野田は毎回カメラマンを買って出て皆の写真をとてくれ、あとで各出席者に郵送してくれた。野田の面倒見の良さにいつも感心し、感謝していた。

昨年(2014年)10月の西浦温泉での同窓会で幹事役をやらせてもらったが、毎回皆勤賞の野田が今回は体調不良で来られないということなので心配していた。その後野田に電話する機会があって様子を聞いたが、その時は声が少し細かったけれどこんなことになろうとは思いもよらなかった。この電話が野田の声が聞けた最後になろうとはーー。

米国に出張中であったため、葬儀に参列できなかったので先日(8月18日)大黒町の会社の方にお邪魔してお線香をあげさせてもらった。満中陰で仏になる前に野田にあって言っておきたかったからだ。奥さんと社長を継いだ息子さんにもお会いし、お悔やみをもうしあげいろいろ話を伺うことが出来てよかったと思っている。

「今、日本男性の平均寿命は80歳、女性は86歳の由。野田!逝くのは10年早かったなー。次回同窓会ではまた会えると思っていたのに」と心の中で野田に伝えておきました。

奥さんには次のように話をさせてもらった。

「考えてみれば、息子さんに社長を引き継いで会社の先行きに道をつけたし、お孫さんにも恵まれたし、男としての人生のフルコースは一通り歩んだといえるのではないでしょうか。10年早いことは誠に残念だけれど、やるべきことはやったのではないでしょうか」

奥さんと話をしていて、思いのほかしっかりしておられるのが判って安心した。

4人組の中で一番曲がったことの嫌いな性格で、一番頑固で、一番おとなであった野田。

安らかに眠ってくれ。いずれ俺たちも後を追っかけてゆくから。

その時はまた、4人組で仲良くやろう。

               2015年 8月 殿村兆史

2015年6月28日日曜日

初心に帰って野菜育てをする。

行く先短いと言うか、いつ死んでも不思議ではない年齢に達して、何のために貸農園で野菜を育てるのだろうかを考えたい。人生そのものにさえ目的が無いのと同様に、そんなことに必然的な理由はないだろう。何事であれ、結局は、そうすることが生きて行くために必要なのか、それとも、それをすることが楽しいかの、いずれかであろう。必然的な理由が無いってことは、つまり人によってその理由も異なるってことだから、自分の場合はどうかと考えざるを得ない。
先ず、体を動かすことが健康的だとのことだろう。次いで、得られた作物が少しでも投資金額の回収となるとのことだろう。その前提で、貸農園作業に投入する労力と資金、と、得られる成果と比較しなければならない。つまり、労力を使い過ぎてとか、若しくは、農薬を使うことで健康を損なうとかは目的にかなわず、また、成果に対して投入金額が多すぎる、つまり、貸農園への投入金額が赤字を増やすような投資はまずいってことだろう。農薬については特に、農薬を使うなら、別に貸農園を借りることもなく、野菜をマーケットで買えば良いってことになる。但し、その論理は、貸農園の目的が、僕の設定した目的の場合に限定される。

とにかく、常にこの貸農園での僕の作業を、上記の僕の目的と比較して評価しなければならない。後述のように、貸農園の場所が変わったこと、それに只の肥料が手に入ることで、投資金額や投入労働量に大きな変化、それも、共に増えることになってしまった。これを常に、当初の目的と比較して評価しなければならない。
借地料だけでも、1万円増えてしまった。古い貸地を直ぐに返却して交渉するならば先の農園料の半額は返却されるだろうが、同じ地主から新しい貸地を近くに借りられ、他方、他の人々は遠くに新しく貸地を準備し始めたことからも、むしろ地主に感謝すべき状況で、そのような金額には拘らず、先の貸地を精一杯有効に利用することが重要に思える。つまり、両方の借地を維持せねばならず、労力も大幅に増えてしまった。が、これはあきらめることにする。

ところで、原発事故後、畑には家の生ごみ以外の肥料を与えず、出来の悪いのもあきらめていた。
が、その間、周囲の人々は金をかけても生産性を上げようと、資材・肥料を奮発して、実際に成果を上げている。特に、立てに高く育てることで、限られた面積の畑から最大限の収穫を得ている。だが、其の為に必要な資材に投資する金額を考えると、その方法は果たして正しいのだろうかと思うが、人によっては、貸農園での成果が、過大な投資金額より重要だって人も居るから批判はできない。でも他人のこのような行動を批判することは厳に控えて、自分は自分なりの考え方を持つべきだろう。

そのような状況下で、なんと、ジョイフル本田で無料の米ぬかが得られることが判ったので、僕も本気で育てようと考えた。つまり、投資金額を増やさずに生産性を高めることができるからだ。運搬には自転車を使うから、ガソリン代も不要である。
更に、野菜の育て方については、この人のブログがとても判りやすく、しかも説得力があるので、大いに参照・勉強させてもらうことにした。
http://hige-oyaji.at.webry.info/theme/d966116167.html
1)なすびについて。⇒一枝一果を基本とする。
なすびについては、今年の経験から、
①黒マルチをする。
②大きな鉢でゆっくりと育ててから移植する。
③早い時期はカバーで保温する。 との経験を得た。
更におやじさんの記述から下記を試す。三本仕立てにすることで、陽光を最大限に利用できる葉並びにするとかもあるが、特に成りつかれを防ぐ方法について興味を持った。
つまり、何本か仕立てで、その一本の、花のできた枝を剪定するとの記述で、これをすることで、一枝一果とすることで、成り疲れを防ぎ、しかも、下の芽が新しい枝を作ると書かれている。
が、一本仕立ての幹そのものに花が咲いたらどう剪定するのだろうか、との疑問が出たが、幹そのものを剪定するのはまずいだろうから、恐らく花を除けば良いのだろうと思う。
試しに、元気をなくした花の枝の上と、元気ななすの花のついた枝の上を切ってみた。
要は、1枝1果とすることで、株そのものが衰えるのを防ぐってことだろう。特に肥料が少ない僕の畑では、なすに対してはこの配慮が必要なのだろう。
なお、気づいたのだが、元気をなくした枝に病原菌が付いていたら、その枝を切断することで、はさみを介して他の健康な枝にも伝染しないだろうか。その点にも注意を払う必要がある。
しかし、その注意を払いながらも、病気の枝とは葉を随時除去する配慮は払わねばならない。

とにかく、僕の畑の現状では、米ぬかを大量に入れることが必要だから、今年は勉強で、本格的には来年からだ。とにかく、おやじさんの育てている野菜には全て挑戦する。
だが更に調べて、ぬか肥料の注意点も見つかった。
http://kibigorou.blogspot.jp/2010/01/blog-post_16.html
つまり、有用な肥料成分が多いことから微生物が育ちやすく、窒素分が微生物により吸収され、野菜と下は、窒素不足による成長阻害が生じるらしい。これを防ぐには2週間程度早めにぬかを土と混合するのが望ましいらしい。若しくは、根から離なれたところに撒くのは良いらしい。

7月20日頃になり、地主さんから「母が亡くなり、税金処理の関係で貸農園を止める可能性があります」との連絡が来た。貸農園の宿命の事態だから、と地主さんの所に行き他に貸農園の空きが無いかと聞くと、ちょっと離れたところに空きがあった。早速、借りることにした。
即、一列の穴を掘り、家の剪定枝や生ごみ、既農園のごみなどを埋め初め、更に集積した米ぬかも散布した。

既農園の成果だが、黒マルチの採用で、トウモロコシは見事に成功、ナスは、黒陽は直ぐに駄目になったが、長ナスは好調だ。不調な黒陽についても、1果1枝を採用したが、規則性を持つ対応は成果が挙がらなくても楽だ。その結果で規則性の内容を修正すれば良いのだろう。(実際には、黒陽もかなり成果が回復した。つまり、一枝一果は効果的で、マルチも効果的ってことだ)
キュウリは全く不調だった。マルチをすることで水分補給がうまくゆかなかったのだろうと考える。(これは、先のブログにも書かれていることに気づいたが、キューリの根はマルチの直ぐ下に広がり、熱で損傷するらしい。キューリにはマルチは駄目って、とても重要な情報だ)

ヒゲオヤジのBlogだと、7月28日にキュウリの種まきをしているので、7月20日では間に合うだろうと新しい畑で挑戦する。なお、黒マルチとして、水補給が成功するように、「くぼみをつける」「黒マルチ前に畝に十分給水する」とした。また「米ぬかを深い位置に埋めて、窒素不足障害の生じる時期に根が米ぬかに触れないようにする」との工夫をする。「日除けを設ける」ことも考慮する。
つまり、畝の深くに米ぬかを入れる。⇒大量の水を供給⇒畝を内くぼみで形成する⇒くぼみに種を撒く⇒水掛け⇒黒マルチ(覆い)で覆う⇒周囲を差込み具を黒マルチに差すことで黒マルチが動かないようにする⇒芽がでると黒マルチ(覆い)を除去する。⇒黒マルチでひざし除けを作る。
との予定で、7月21日夕に手持ちのキュウリの種を播種した。発芽の状態は2~3日して黒マルチをめくってみる。なお、差し込み具では風圧に抗して黒マルチを固定できず、黒マルチの周囲を掘りこんで土を掛けることとした。
残念ながら、7月20日に友人が亡くなり、7月23日の大阪での葬儀に参加した。その間の水切れを防ぐべく黒マルチのカバーを地面に接して配置した。このため、どうやら芽が出た種も腐ったようだ。種の上にマルチを敷く方法にはちょっと無理があるようだ。夏の終わりの日射が厳しい間は黒マルチを日除けにするとしても、水分補給を継続するか、更に、不織布を敷く方が通気性があって良いのかもしれない。(不織布を敷く方法は先に引用したおやじさんがやっている。

キュウリはあきらめて、8月末からの畑作りに次の種をそろえた。
ブロッコリ、スナックエンドウ、五寸ニンジン、大蔵ダイコン、キャベツ、フラワーレタス、ハクサイ、黄玉葱、早生ソラマメ、サラダソラマメ
サラダソラマメはJoyful本田で、以外はLoyyalで購入した。春菊は古い種を使う。

8月8日には、前の人の育てていた種から育ったズッキーニとピーナツの株を残しては、ほぼ掘り終えたようだ。米ぬかも入れてある。これからは、先ずイチゴの移動先を準備する。この方法は先に書いた予定とは少し異なっている。掘って米ぬかを入れて水を大量に撒いて、そこに黒マルチを張って米ぬかの発酵を促す予定だ。ところで、ズッキーニが数個できて、おいしく戴いている。ズッキーニは馬鹿にできない野菜だと初めて気づいた。(その後、この苗はズッキーニではなく、ハグラウリであることが判った)

8月12日に至り、今夏初めての朝露であった。畑の掘削・肥料遣りはほぼ終了した。これからは畝つくりを進める。雨が降ったら、マルチをして土と肥料の馴染みを推進させる予定だ。
但し、ズッキーニの繁茂部は避けている。


8月末までに播種するものは、播種を急ぐニンジンとその他がある。
「ニンジン(育ちが遅いので特に急ぐ)ブロッコリー(9月まで)、こまつな、レタス(10月まで)
8月末からは、ダイコン、ハクサイ、がこれに続き、時期が難しいタマネギ、ソラマメ、グリンピースと続く。米ぬか、苦土石灰は十分に準備で来たので、土に慣らすように散布する。
但し、酸性が望ましいか否かを調べておく。
8月14日の夜に豪雨となったので、翌日早朝に、米ぬかの発酵や保水のためにマルチを張った。が、8月末にマルチをしないで播種する列はマルチをしないでそのまま放置している。

 8月16日は、朝弱雨であったので、イチゴの引っ越しを開始した。なお、引っ越し先は写真上のマルチ奥側の畝とした。
ついでに、マルチをしない畝の真ん中にスコップで割れ目を作り雨水が浸透するようにした。
イチゴの殆どを移動し、葉ネギも半分ほどを移動し、家に帰ると、雨が激しく降り出した。全てが予定通りに進んでいる。いくら悲観症の僕でも、ちよっとは良い気分になってもよいだろう。それに熱論性格は変わるかの講座では、努めれば脳内構造も変わるし、結果、性格も変わるだろう。
雨がやめば、
8月20日頃までには、8月中に植えて良い野菜、(実際は、もっと早く播種しても良いが、暑さ対策は必要)にんじん、ほうれんそう、小松菜、レタス、ブロッコリーを播種する、と考えたが、米ぬか散布の後、もう少し時間を空ける方がいいかなと逡巡している。但しブロッコリー・レタスは、ポットでも良いので、早速ポットにも播種する。畑に撒く時には、種の上から、足踏みか、手で十分に押さえて土を固め、そこに水やりを行い、その後、不織布を掛けて、その上から水撒きをする。これでうまく行くかどうかだが、そこに米ぬかを撒いているとの不確定要素も加わっている。
実際には8月19日に畑の播種を終えた。8月20日は雨なのでポット播種を行う。
また、8月19日から旧農園の畝つくりを始めた。新農園には播種し過ぎたので、旧農園には、ダイコン、ホウレンソウを播種する。9月初めとして、十分に肥料と石灰散布を行う。
8月20日雨の中を ブロッコリ、リーフレタス、ハクサイ、のポット播種を行った。友人の土井によると、種を十分に抑えるのは、発芽の時に、抑えが無いと種が浮き上がってしまうのでまずい、との事で、また、種用の培土を使うのが良いらしい。種用の培土っていくらぐらいするか見ておこう。
 
8月21日 にんじん、ホウレンソウの不織布を外したが、余り調子は良くない。不織布は天気が良く、太陽光が厳しすぎる時に有効で、今回のように日照時間そのものが少ない場合には不向きなようだ。全体的に播種が早すぎた嫌いがあり、不調である。もう2~3日様子を見て巻き直す。
撒きなおしに際しては、人参以外は覆土をちゃんとして、手でちゃんと抑える。
 
8月22日は、9時頃から夕方まで晴となる。最近は雨や曇りが続いたので、朝は水やりせず、乾いてから、昼頃水やりすることにする。(土井が指摘したように根が腐るのを恐れて)
8月22日 本日、ポットに撒いた、ブロッコリー、リーフレタス、ハクサイの発芽を確認した。リーフレタスの発芽は不安定だが、種が小さいので仕方が無いのだろう。これに比べると畑に撒いた種の発芽は遅く、発芽率も悪い。
ジャガイモの種イモを、1kg530円にて購入した。明日、畑に植えつける。
8月23日 朝 新農園のホウレンソウも芽がでた。にんじん、レタスはまだ出ない。旧農園に大根の播種を行う予定。明後日から暫くは曇りらしいので日除けカバーは設けないが、必要に応じて対策する。同時に新農園にはニンジンを再播種し、発芽の隙間を埋め、ジャガイモを植える。
 
8月23日 晴れの予報が、曇りなので、新農園にじゃがいもを植えた。肥料は植込みの間間に、3つかみ程を入れた。発酵まで2週間とすれば、発芽が2週間でちょうど良いのだろうか。
植付け間隔は300~350mmとして2個余ったので発芽しない分の予備とする。なお、発芽までは10日~14日掛かるらしい。その結果を見て予備種を出動させる。
 
8月23日 旧農園のリーフレタスがとても苦くなっていることが判り、リーフレタスは全て排除した。
そのため、ダイコン用畝が2列できたので、先に米ぬかをいれてある畝には直ぐに播種を行い、新しく造った畝には9月に入ってからの時間差播種をすることとした昼間は時々太陽が顔を出し暑くなるので夕方に大根種を畝一列に播種した。
先ず、畝の下部に十分に給水してから上を慣らし、種を植える場所に、ペットボトルのお尻で、ピッチ30cmで、深さ1cmの穴を作り、そこに昨年の種を6~7個ずつ押し込み、その上に土を被せた。が、どうしても薄く被せてします。そこに給水をすると種が浮き上がる時もあるので指で押し戻したりした。ちょっと心配だ。
 
タマネギの播種は、畑での播種と共に、ポット育ても準備しようと思い、ポットに土、米ぬか肥料、苦土石灰を入れて水を加えた。
 
8月24日 ジョイフルに米ぬかを入手に行った。ついでに、苦土石灰、種培土を調べると、苦土石灰は20kg260円、培土は40l800円とさほど高くない。少なくとも苦土石灰は残り少ないので購入する必要がある。
新農園のニンジンも発芽したが数が少ないので、種を追加した。植付けの方法は、下部を掘り込み十分に給水し、その上に種を置いて周囲の地面と共に掌で押し込む方法とした。押し込んだ後には水やりをした。
ほうれんそうも発芽が少ない部分があるが、これは後からの発芽が無いか、ちょっと様子を見る。
 
8月25日 自宅ポットのブロッコリー、レタス、白菜はすくすくと育っていたが、強い日差しをさけて日影に置いていた。これはまずいと、居間前の土間に移した。が、これがまずかった。8月26日朝の強雨で苗が倒れてしまった。ピンセットで立てなおして、雨のかからない縁側に移したが、引っ越しで何がどれか判らなくなってしまった。
新農園のほうれんそうも追加したが、強雨でどうなったろうか。強雨対策を常に考えておかねばならないってことだろう。
 
ところで新農園に勝手に生えていたズッキーニだが、良く比較すると、新農園のはズッキーニとは違いへたが無い。で、これで調べると、
加賀太きゅうりか、ハグラうりらしい。どちらとも断定しがたい。が、更に調べると、加賀太きゅうりには、あのきゅうり特有のとげがあるらしい。と、いうことで、彼はハグラウリと断定できるようだ。
とにかく、種を採取したので来年も作るつもりだ。
 
8月27日の状況
旧農園  真中の畝に大根播種し芽がでている。2か所ほど芽が出ていないが、横の畝と一緒に8月末に第二陣を播種する。
 

新農園、左畝、手前はからニンジン、ブロッコリ、ジャガイモ 右畝、手前からホウレンソウ、小松菜、じゃがいも、左マルチ畝、葉ネギ、イチゴ、ハグラウリ、イチゴで最も奥は、ハクサイ後タマネギ
最も右マルチ畝は全く植えていない。手前から、ハクサイ後えんどう、ソラマメ、ハクサイ後タマネギ等と考えている。



 
 自宅のポット状況 明確ではないが、ブロッコリかな。
左上、色の薄緑がハクサイで、右下中央、ハレタスか、
それとも逆か。 28日になり左上の苗はハクサイ特有の葉となったので、ハクサイが正解であった。
 
8月28日早朝 旧農園に、ニンジン・ホウレンソウの播種を行った。先に撒いた大根は一か所が芽生えていないので、再播種と考え近くを掘ったが、先の種は土の中に居た。それは残して近くに種を少し撒いた。8月29日に確認すると、土中の芽も外に出ていた。
8月末の播種は、後は、ダイコン第二陣を残すだけである。次いで、タマネギの育苗・ポット苗の植付け、タマネギ植付け、そら豆のポット苗作り・グリンピース・そら豆苗植え、と続くわけだ。
 
新しく下記を買った。
トンネル支柱 60円/本x20本=1200円 ジョイフル本田が最も安かった。
苦土石灰20kg 260円
防虫ネット 1.35mx5m(724円/組)x2組=1448円 amzonが最も安かった。以前はダイソーで安いのが有ったのが今は無い。
 
8月31日 霧雨だが、玉ねぎの播種を行った。
旧農園の一部と、ポット撒きで、共に、1cm程度の間隔で撒いたが、種が小さくて、どの程度の深さにするとか、上の抑えをどうするかとか、とても難しい。
とにかく、浅い溝に撒いて、周囲も含めてかなり強く抑えてから、上に薄く土を撒いた。どうなるだろうか。更に種が余ったので、ポットの追加用意をしたが、米ぬかも入れたので、数日は日を空けて種まきをする。
9月1日 相変わらず雲と雨の交互攻撃である。
旧農園のダイコンを間引きと土寄せをした。新農園のニンジンとホウレンソウも土寄せをした。
ポット苗の間引きと土寄せも行った。
ついでに、新農園のマルチにハクサイの播種を行った。20か所を千鳥とした。
新農園で通り掛かった、以前に祭りのホットドッグ販売で一緒だったひとが、
「角の背高のっぽとは余り話をしない方が良い。何でも知ったか振りで言うので大事になっている」と助言した。
背高ノッポとは、角の貸農園をやっている S さんのことで、先日、僕に「あんたは旧農園で評判が悪いね」と言った人で、赤の他人に評判が悪いなんて言う人と、どう付き合えば良いのかと考えていた所で、既に、僕の悪口を言い触らしているのかもしれない。それとも、一般的な助言なのか、更には、僕と話をした具体的なことで何か大事になっているのか、詳しいことは聞きもしなかった。が、なかなか面白い事態で、ゆっくりと観察する。
でもまぁ、既に彼つまり S さんのそばを通り過ぎる時には、挨拶するだけで、忙しそうに通り過ぎるだけにしているので、どうでもいいのだが、面倒な人も居るもんだ。9月3日になると、朝の挨拶をしても無視された。が、9月4日には挨拶もして、話しかけて来た。どうも、耳が遠いだけのことらしいが、僕も人のことは偉そうに言えない。
2015年9月1日の畑の現状
新農園 西端 手前ニンジン 向こう ブロッコリ 更に向こう ジャガイモ

 
新農園西から2列目 手前ほうれんそう、向こう小松菜、更に向こうジャガイモ 

新農園3列目 手前 ネギ 向こう イチゴ ハグラウリ イチゴ 空 

新農園4列目 手前 ハクサイ種付け、中央未処理、向こうレタス種付け

新農園 4列目 の未処理とレタス種付け

旧農園 西側1列目 手前 タマネギ種つけ

旧農園 西側1列目 春菊種付け

西から2列目 ニンジン種付け

旧農園 西から3列目 ホウレンソウ
 
 西から4列目 大根芽生え、第一回の間引きと土寄せ

旧農園 東端 ダイコン筋蒔き
 9月2日の豪雨、暴風で、新農園は風邪と雨当りが強烈であることが判った。早速、雨除け・風よけを兼ねて防虫ネットを購入した。下記の5mものと10mものを併用する。
 ネットの掛け方は支柱の中央それぞれを紐をくくって行く方法が良さそうだ。両端に杭を打ち、ネット裾は土に埋める。裾を開けるのは面倒だが仕方が無い。
 
 9月3日防虫ネットを掛けた。トンネル支柱の中央を紐でくくる方法で簡単にできた。5m物を2か所設置したなお、支柱がちょっと幅広なので、畝に対して斜めに配置し、両端には古い小型の支柱を配置した。また直上には洗濯ばさみを使った。小型の支柱が不足した時は、支柱を斜め十字に配置した。

 
ところで、今回の経験で判ったが、ニンジンやホウレンソウはバラマキ(間引きを考えると複数列の条撒きが良い)が望ましい。種を惜しむと、害虫に全滅させられる。だから、いっぱい生やすことが大切のようだ。防虫ネットカバーの中でたわわに茂るホウレンソウや小松菜なんて、考えるだけで素晴らしいではないか。後の世話を考えると、ばらまきよりは、複数列の条撒きで、支柱を抑えて溝を作り、その溝に条撒きするのが良さそうだ。
 
今回の播種ではいろいろと遣り方を変更すべきことが出てきた。
①何を育てるにも、NETは必須である。レタスや人参は虫害はないが、強風・強雨にはやられる⇒ネットが望ましい。ただ、ダイコンは風や雨に強そうなので、先ずはネット無しで試みる。
②ブロッコリーは、先ず、播種は8月中旬までで、生育温度は20℃と、実現が困難だ。しかも、虫害が激しい。⇒9月苗買いと播種を試す。⇒ネットが望ましい。
③ホウレンソウは根切虫が相手なので、複数列条撒きで多くを播種する。小松菜も虫が多く着く、更に両者ともに雨でやられる⇒播種はバラマキで、ネットが望ましい。⇒修正 バラマキではなく、支柱を使って複数列の溝を作り、そこに条撒きにすると、撒いた後を押しやすく、培土も入れやすい。
④大根は複数列条撒きが良い。大根も虫害を受けるようになってきた。防虫NETをすべきだろう。
⑤結局、ネットで、強雨・虫害から守ることが大切らしい。更に、玉ねぎの芽だしが困難なことから培土を採用すべきだろう。これも、支柱を使った条撒きが良い。
⑤ 米ぬかの肥料としての有効性は正しいだろうか。下記には夜盗虫の除去方法も書いている。
⑦ 春の経験から、苗を大きなポットで保管する場合は、大きなポットで保温しながらやれば根が丈夫になる。ナスには最も効果的だ。
⑧秋野菜の播種は、ブロッコリー(夏撒き)等を除き、朝露が降りる時期にするのが良い。2015年は9月4~5日から。ついでに雨が降ると、一気に芽生えが始まる。その前に撒いたのがバカバカしく見える。
 
9月4日 旧農園ダイコン筋蒔き部で抜けた部分有り、明日追加する。
玉ねぎの発芽が良くない。各ポットへの撒き数が少ない。種も無くなったので、種180円+税、と野菜培養土20L400円を購入した。家で種の再播種をしている時に、野菜の培養土は種まきの時に使う培土とは違うと注記されているのを見つけたが、まぁいいか、としポット内土表面に箸で5mm深さの穴を開けて、そこに種を一個ずつ入れて、その上に培養土を入れた。
明日は、ポットのハクサイを畑に植える。まだ、一本立ちにはしていないが、大阪に行くので仕方がない。ブロッコリーポットと一緒に、ネット内に植える。
 
9月6日 新農園のブロッコリーは整理して、ほうれんそうと小松菜を幡種し、にんじんも含めて10mの防虫ネットを張った。ブロッコリーは虫害の少ない3株程度をポットに保管し、他のポットとは話して置いている。
夜から雨が続く。4日ほど続くようだ。播種結果にどう影響するか心配だ。が、やはり防虫ネットには雨の影響を抑える効果を期待できるだろう。
新農園の防虫ネットをしていない部分に再播種した、ホウレンソウ・小松菜は雨で一気に芽生えた。
9月7日 トンネル支柱20本 1,200円:ポット育苗用培養土40L 880円を購入した。
防虫ネット;10mを追加で購入することになるだろう。投資金額がだんだんと増えてきた。しかし、虫が増えてどうしようもなくなっているし、新農園は風と雨が強いので、虫の近寄らないキク科(レタス)の野菜、それに虫の好かないダイコン等も、ネットするのが望ましい。それに恐らく冬の寒気も強いと思えるので、イチゴやそら豆もその間はネットで寒さ対策するのが望ましく、寒気を終えれば、別の方法になる。例えばイチゴは虫が授粉できるが、鳥を近寄せないような、キュウリネットのようなのに変えるのが望ましい。
9月8日 今日も雨だ。しとしとと続く。
家に持ち帰ったブロッコリーポットを見ると、虫は見当たらないのに、虫かじりはぐっと増えている。
怖くなって、裏の土中に埋め込んだ。
ここ何年かで野菜の虫食い被害が著しくなっている。僕の考えでは、貸農園でも農薬を使う人が多くなって、悪虫の天敵が絶滅したのではないかと思える。旧農園で野菜の育ちが良い人は、みなさんスミチオン等を平気で使っているし、それも、わざわざ大きな噴霧器を使って、しかも、手で葉を広げてそこに掛けている。手に薬液が掛かるのも平気なようだ。畑に金を掛けていると、豪語する爺さんは、家からフマキラーを持参してアブラムシに吹き掛けている。もう、無茶苦茶だ。害虫より体の大きく、しかも、変異力の少ない天敵が全滅するのも当然だろう。それに加えて、地球温暖化の影響も大きいのだろうか。
そんなことで、防虫ネットが必須になり、貸農園運営費用が大きくなってしまうのだ。運営費用を少なくすることも貸農園利用目的としている僕としては苦しいところだ。
 
 
 
 

 


2015年4月26日日曜日

洗面台の混合水栓の取り換え

大阪の拠点を整備中だが、洗面台と風呂の混合栓の締りが悪い。栓ユニットの部品を取り換えたのだが、どうしても調子が悪い。栓下部の止水コマと接触する底面自体が荒れていると思える。つまり、部品の取り換えだけでは対処困難で、水栓全体を取り換えねばならないようだ。

洗面台の水栓 ハンドル中央は水槽中央の水止めを上下させる棒先端(引棒)
 風呂の水栓
そこで、混合栓の取り換え方法を調べた。
混合栓の取り換え方法は、ここがとても参考になる。
http://e-farm.org/blog-entry-53.html
http://blog.goo.ne.jp/d-i-y-sai-tama-neko/c/feaf5fae13195b0ef932f236859e1fa7
要するに、下に潜り込んで、「立カラン締め」別名「ナット締め付け工具・立てカランプライヤー・
一つ穴混合水栓用締め付け工具・水切り金具用締め付けレンチ・締め付け工具等・・」を使い、混合栓全体を取り換えることになるのだ。
いずれにしても、湯用と水用の水栓間ピッチが重要で、これがメーカーによりバラバラなこと、それに、カラン締めで締める部分のナット対辺寸法もバラバラなのだ。
我が拠点の水栓は全てINAXの製品なので、先ずはINAXの製品を調べた。その結果、共に生産中止になっていることが判った。ただ、栓(ハンドル)間寸法は、それぞれ、100mmと85mmであることは判った。
そこで、代用品を探すことにして、Yahooオークションを探したところ、洗面用2ハンドルで、水槽の水止め方式が、ゴムのものが1,900円と格安で提示されていた。早速購入し手に入れた。
送られてきたのを調べると、ナット対辺は、24mmと23mmであった。
この寸法に合致する立カラン締めは、三栄水栓 【ナット締付工具】 対辺約23mm・24mm のR354 、それに、カクダイ 立カラン締め 6030となる。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%80%E3%82%A4-%E7%AB%8B%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%B7%A0%E3%82%81-6030/dp/B0013L46HS/ref=pd_cp_diy_3
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E6%A0%84%E6%B0%B4%E6%A0%93-R354-%E3%80%90%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%88%E7%B7%A0%E4%BB%98%E5%B7%A5%E5%85%B7%E3%80%91-%E5%AF%BE%E8%BE%BA%E7%B4%8423mm%E3%83%BB24mm/dp/B003PHJ7U4/ref=pd_sim_diy_14?ie=UTF8&refRID=0FC75VYSSNS3P4817RPT

ところで洗面水槽の水止(引棒関係部品)だが、水槽に固定されてちょっと外れない構造になっている。
洗面水槽を下から見た写真で、水槽から左に水平に伸びるレバーがその装置で、水・湯の2配管の中央に上にヒンジで上下するようになっている。この装置は果たして外せるのか。最悪は、先のブログで示されたように、水止めの作動は下に潜ってやる必要がある。
なお、引棒関係部品の分解処理については、ここに記載されている。
http://pinehead.at.webry.info/200912/article_1.html



参考ブログの写真を転記
どうやら、写真での”ヘヤーキャッチャー”と”外した棒”は、水槽下部で外れるようになっていて、ヘヤーキャッチャーは上に引き上げて、外した棒は横にはずれるようだ。つまり、ヘヤーキャッチャを外したまま、外した棒を取り付けておけば、新しいゴム栓で水槽を止水できることになる。
写真は、水槽下部内での接続状況を示しただけのようだ。(実際にはこの接続状況は水槽下部内で見られる)





風呂用は代替品を捜索中である。が、先の写真で示すように、混合栓台座の下が、カバーのようになっていて外れそうなのだが、実際にはとても外れそうにない。そこで、風呂の下に潜り込んで構造を調べる予定だ。対処方法はそれから考えることにする。
ところで風呂用水栓の湯・水配管芯間寸法は先に書いたように85mmとなっているが、TOTOの水仙の中には、85mm、100mmと更にその上の寸法まで調整可能な水栓もあるようだ。それに、前後はどうなるのかとか、そのようなことを調べておいて、安く買えるか否かを見ておく必要がある。

友人の葬儀で急遽大阪に行った。ついでに調べたが、洗面所の水栓の下部は、立てカランを使うまでもなく、小型のモンキースパナで外れることを確認した。他方、風呂の水栓を床下から見ようと試みたが、とてもではないが床下をはい回ることはできない。あきらめて、カバーが損傷してもと、無理に開くことを試みる。

9月になり大阪に行き取り換えを実施した。モンキースパナで取り外しができた。
下図のように水栓が大きくなり、水の開閉だけでなく蛇口の位置もとても良くなった。
 撤去した水栓とシンクの栓(引き棒)
 シンクの下から見た様子。シンクの栓(引き棒)は除かれている。
すっきりです。



2015年3月28日土曜日

時計の電池を自分で交換しよう。

以前に、裏蓋がハメコミ式の腕時計用電池を取り換えたことはあったが、ANAのマイレージで得た腕時計はスクリュー式である。しかも、初期取り付けの電池は短期間用なので直ぐに停まってしまった。電池の交換方法を調べたが、工具がかなり高く、しかも、その使用者のレヴューが芳しくない。
NETをあれこれ調べると、これが出てきた。
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2014/01/blog-post_26.html
ここには、その作業が、かなり簡単そうに書かれているので驚いた。早速、ダイソーに行き、尋ねると、一個だけ残っていた。308円で購入し、電池は、Yahooオークションで、送料込み220円で手に入れた。
実際に裏蓋を開けようとすると難なく開けることができた。先に書いた評判の悪い工具は、3点で開ける構造で、腕時計固定器具を使っても開けにくいらしい。が、ダイソーのは、2点で開ける方法で腕時計は手で保持するだけだ。それにも拘わらず、簡単に開けることができた。
かくして、簡単に電池を交換し、僕の時計は順調に秒を刻んでいる。
僕が使うレベルの時計だからこんなにも簡単にことが出来るのかもしれない。ブランド時計はどうなんだろう。

2015年3月19日木曜日

GPS機能を使えて、世界中で自分の立ち位置が判るようになった。

スリランカの旅の途中で、ONKYOノートパソコンの調子がおかしくなった。作業中にバタッと画面が消えて、2~3日すると、液晶の2/3程度が縞模様で画面が見えなくなった。これは、もう初期化でも処置できない状況となった。
17日に帰国して、18日午前中に新しく買う機種の調査をした。

購入条件としては、
①サイズは9in以上で、出来れば10inが欲しい。9inとしたのは、本当は10inが欲しいのだが、Nexus10は極端に高価格になるので、Nexus9(40,000円)を選択範囲とした。
②GoogleMapが使えること=GooglePlayのできる機種であること、とした。

その条件下で調べると、SonyExperiaだと、35,000円程度で、NECのLaVieTabだと、26,000円であった。ヨドバシだと、29,000円だがポイントが10%付くので、26,000円相当になる。で、これを選んだ。
なんと、18日午後に購入手配したら、19日昼には配達された。

Tabletの扱いに少々苦労したが、面白くなった。取説はNECのホームページにあって、早速。GPSの設定をした。これも、特に、取説説明と若干異なる手順になっていたので、苦労したが夕刻にはGPS設定が終わった。
これで世界中で自分の位置をGoogleMap上で示せるようになった。WifiRooter+Tabletで、旅のIT化はほぼ満足できる状態になった。

このタブレットの問題は、外部記憶が、マイクロUSBとマイクロSDってことだ。従来の機器との互換性としては、マイクロSDの方が簡単だが、SDはもう落日の記憶装置だし、USBについては、マイクロとスタンダードタイプの互換ケーブルの仕様がよく判らない。差しあたっては、マイクロSDを使うことにする。なお、マイクロSDには元々、SDとの互換用枠が付属している。
マイクロSDやマイクロUSBが使われていることについては、おそらく他のタブレットでも共通の問題のような気がする。
それと、後になって気づいたが、OSがANDROIDなので、従来使っているOFFICEが使えないことだ。この点は、その必要性と、従来OFFICEとの互換性などを調査をしなければならない。

しかし、初期画面を横に流すと、アプリとしてKingOfficeなるものが出てきた。どうやら、OFFICEと互換性がありそうだ。
更にたまたま行ったSERIAでマイクロUSB変換ケーブルを100円で入手した。使ってみると見事に機能を果たした。
更に更に、タブレットをあれこれ触っていると、設定のストレージでディフォルトSTORAGEをどれに選択するか、とか、KingOfficeにロードされたファイルのロード先選択とか、削除(ごみ箱)時は、ファイル削除かタイトル削除かを選ぶとか、機能がだんだん判ってきた。
もっと知るには、Andoroid(TM=TabletMobileか?)4.2の本があるかもしれない。