女房の次兄の正一さんは、子供の頃に、叔父さんの養子になった。
叔父さんは、別府の叔父さんと呼ばれていて、その当時は別府に大きな邸宅を持っていたかららしい。戦前に満州で満鉄や製鉄所の下請けで、手広く商売をしていて、その時の資産が当時はまだ残っていたのだ。だから恐らく、女房の両親は、そこに養子に出せば、その子は安泰だと思ったのだろうが、叔父さんは、その後、資産を食いつぶして女房の家族の援助で生活していたから、安泰だと思えた叔父は正一さんの将来に影を落としたことだろう。だが、女房の兄弟は、どこまでも優秀で、正一さんは、自力で、九州の田舎から、東工大へと進学して、彼の道を切り開いた。正一さんはどこまでも明るく賢明な人柄で、付き合うの楽しい人であったが、今年の春に、血液がんで亡くなってしまった。だが、死ぬまで明るさを忘れず人生を前向きに生きる人であた。年齢は、僕と同い年である。
ところで、その女房の叔父さんだが、50年以上も前なのだが東京に出てきて、しばらく女房の姉の歌子さんの家に世話になったことがあり、東京の親戚が集まり宴会を開いた。
10人以上が口の字に座り食事をしたが、なぜか、当時新参者である僕たち夫婦が、その叔父さんの両側に座らせられた。新参者が相手で良いのだろうかと思ったが、緊張しながら相手をした。しかし叔父さんは極めて気さくで、しかも、饒舌で満州での経験談を延々と話し続けた。であが、僕は過去には戦争少年であったことから、満州国に関心があったので、その話を興味深く聞けた。今、思い出すと、更に、満州のことを広く、細かく聞くべきだったと思うほどだ。
その会合の後、女房になぜ僕が叔父さんの相手をすることになったのかと聞くと、女房の言うには、叔父さんはいつも同じ話を繰り返すので、僕に叔父さんの相手させたのよ、とのたもうた。ふ~ん、興味深い話だったのに勿体ない、と思ったが、歌子さんや、その他の親戚は聞き飽きたか、満州のことに興味がなかったのであろうと思える。このことは、その後、ずっと忘れていた。
しかし、最近になり、自分が実に饒舌になったことを自覚して、ふとその事を思い出した。
僕は、もともとは、話のタネに困る口数が少ないタイプであった。ところが最近は、話し出すと口が止まらず饒舌な話を続けることに、実に、話を終えてからずっと後に自覚するようになった。後で考えると、相手が口を挟む暇がないほどに饒舌にしゃべっているので、恐らくは、相手は疲れて黙って聞いているのだろうと思える。
特に病気のこととか、海外旅行での経験とかになると、絶え間なく話しているようだが、自分としてはごく普通の会話だと思い込んでいるわけだ。
これは、極めて問題だと自覚せねばならない。自分を抑制する必要があるようだ。
別府の叔父さんの二の舞となってはならない。特に、歌子さんのように極めて頭の働きの早い人相手には、このような振る舞いをしてはならない、と考えている。
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